6・アクシオム
ナース長は腕を縛られ、ソファーに座らされていた。
彼女の話を聞いていた迫田が、私たちの元に戻る。
「またハッカーが病院を封鎖したという連絡が入った。こちらが抵抗する手段を失ったことが知られたようだ」
意外だった。私は言った。
「知られた――って、こんなに早く? カメラは止めたのに……?」
迫田が私に身を寄せて声を落とす。
「この部屋は、まだ監視されている。犯人は、誰かが外に出たら分かると言っていたが、独自に監視カメラを設置しているんだろう。手術室の内部にも隠しているかもしれない。彼女と垂水は、それらしいものは持っていなかったがね……」そして、ナース長の話を説明する。「彼女は男に貢ぐ金が欲しかったそうだ。旦那とは別居中で、子供もいない。寂しさを紛らわせるために友人と行ったホストクラブにどっぷりと嵌った」
いつの間にか口調からよそよそしさが消え、〝仲間同士〟のように変わっていた。確かに、我々はもはやテロリストと戦う運命共同体になっている。
私も、自然に同じ口調で答えていた。
「誰かが金を出すと言った、ってことか?」
「5000万円。手術を失敗させれば、それだけ渡すと言われたそうだ」
「誰から? 垂水を脅迫した犯人と同じなのか?」
「分からないそうだ。だから、今までは申し出自体を疑っていたし、手術を妨害する気もなかった。ナース長は、垂水が患者を殺そうとしていることも知らなかったわけだ」
「それなら、どうして?」
「デイビッドはその後も命を狙われ続けた。もはやデイビッドの命を狙っている者が〝実在する〟ことは疑いようがない。しかもそれは、大きな組織らしい。だから、正体不明の相手の言葉を信用したそうだ。犯人は、『手術中はずっと監視している』とも明言したという。つまり、彼女が殺せば、それは犯人にも分かる。それで金が手に入る、と考えたわけだ」
「だが、当然警察に掴まる。あなたが――警官がこの場にいるんだから」
「大金が入るかもしれないと思ったら、男のことで頭がいっぱいになった」
「まさか……」
迫田は、軽く肩をすくめた。
「信じられなくても、現実はそんなものだ。女でも男でも、そうやって破滅していく人間は掃いて捨てるほどいる。しかも彼女は、直接デイビッドに危害を加えたわけじゃない。コンピュータを壊しただけだから、器物損壊にしかならない。そこは計算していたようだ。殺すつもりはなかった、とうそぶいている」
「ばかな! 呼吸が停止していたかもしれないんだ。ベテランの看護師に分からないはずがない。手術の失敗は、患者の死を意味する。不整脈もないのに除細動器を使った理由も問われる」
「法律上はどう解釈されるか……。死んだのはたまたまだ、と言い逃れできる余地はある。そもそも使ったのは医療機器だ。殺意は証明できないだろう。少なくとも、人権派の弁護士から見たら〝おいしい仕事〟になる」
「たかがホストに、そこまでするのか……」
「ま、キャリアウーマンてやつに割と多い落とし穴だ」そして、デイビッドの目を覗き込む。「どうだ、気分は?」
デイビッドは寂しそうに言った。口調はまだ苦しげだ。
「みんなが僕を殺したがってるんだね……。ま、こんな仕事してるから……仕方ないのかもしれないけど……」
デイビッドの容態は私から迫田に説明した。
「バイタル――血圧とか脈拍とかの数値は安定して始めた」普通なら患者に聞かせるべきことではないが、すでに何もかも知っているデイビッドには隠しても意味がない。もはやデイビッド自身が、共に戦う〝チーム〟の柱なのだ。「何度も生命の危機に曝されたのに、驚異的だ。だが、危険はさらに高まった。これ以上は絶対に無理はさせられない。ハッカーと戦うのも不可能だ。で、ナース長に金を出すと言ったのは、垂水を脅迫した奴と同じだと思うか?」
「普通ならそう考える。ロボットを乗っ取ったのも、病院をハッキングしたのも、同じ組織だと判断するのが定石だ。手術自体は秘密にはしていないが、デイビッドの素性は少数の人間しか知らない。たとえどこからか情報が漏れていたとしても、複数の犯人が偶然、同時に襲ってくるとは考えにくい」
デイビッドが話に加わる。
「ここはやっぱり……監視されているんだね」
迫田は言った。
「間違いない。こちらの動きが筒抜けになっている」
「どうやって……?」
「あらかじめ盗聴器を仕掛けていたか、あるいは、この中の誰かが持ち込んだのか……。テロリストの手下が他にもいる可能性はある――」
「そんな……」
そして迫田は、手術台を囲んだスタッフを見回す。
「もうみんな、デイビッドがどれだけ重要な人物か分かっているはずだ。これだけは言っておく。理由はどうあれ、テロリストに力を貸せばそれはテロ行為だ。重罪だ。だが、今は調べる機材も人員もない。まだ犯人に手を貸している人間がいるなら、すぐに申し出ろ。解決に役立つ情報を提供するなら、罪を軽くすることも検討しよう。私にはその権限がある。だが万一後でそれが知れたら、どんな理由があれ、情状酌量の余地はない。一生後悔させてやる。私には、そうできる権限もある」
室内が重い沈黙に包まれる。誰も言葉を発しようとはしなかった。
と、デイビッドがつぶやいた。
「あのさ……僕、麻酔で殺されそうになったんでしょう?」
私は言った。
「そうだ」
「なんで助かったの……?」
鋭い質問だ。デイビッドの思考力は回復し始めているようだ。
「私が気づいたからだ。そうでなければ、おそらく死んでいた」
「それって……変じゃない? その時僕が死んでたら、身代金なんて要求できないよ。ロボットの暴走だって、放っておいたら脳を壊されていたかもしれないんでしょう?」
「それはそうだが……。病院を占拠したうえにブレインサイトを封鎖しているから、たとえ死んでもしばらく気づかれないと計算したのだろうと思っていた」
「でも、実際は携帯で外と連絡が取れるんでしょう? 犯人は、携帯電話は規制しないって、わざわざ言ってるんでしょう……? しかも、公安が手術室で見張ってるんだよ。『殺されました』って一言連絡されたら、それでおしまい……。本気で封鎖する気なら、まず携帯を使えなくするように手を打つだろうに」
「それは、ハッキングに必要だったからじゃないのか?」
「携帯の電波は妨害しても、周波数帯域を変えればハッキングはできるよ」
考えてみれば、確かに不自然だが……。
「どういうことだ?」
「自分で言うのも変だけど……犯人の本当の目的は、僕を確実に殺すことじゃないかと思うんだ。身代金は、手に入ればラッキー――みたいな。それとも、犯人の正体を隠すための偽装かも……」
恐るべき青年だ。
自分の命が狙われていることを淡々と認め、他人事のように分析している。
それも、イスラエルというお国柄かもしれない。アイアンドームのような兵器で守りを固めるのは、現実に常にミサイルを撃ち込まれているからだ。仮想の脅威に備えたのではなく、目前の恐怖に立ち向かわなければならないからだ。死と隣り合わせで生きるしかないからだ。
日本とは、安全保障の概念が別次元にある。
迫田が身を乗り出す。
「偽装? 何か思い当たることがあるのか?」
「いろんなことがバラバラに起きているから。そこの二人だって、お互いに僕を狙っていることは知らなかったんでしょう? アスクレピオスの通信回線は軍用で、侵入は僕でも手こずるレベルだよ。スキルが高いし、洗練されていて、病院のハッキングとはクオリティが全然違う。病院の占拠は泥臭すぎて、同じ人間が計画したと思えないんだ。それに、この部屋の電線を物理的に切る必然性って、ある? 破壊工作をする潜入要員が必要だし、そいつらが捕まったら背後関係を白状する危険があるんだよ。病院そのものを人質にしているんだから、お金だけが目的ならそんな手間をかける必要もないと思う。僕が生きていても構わないなら、身代金を準備してる間に手術を続けたっていいわけだし。どうせ手術は何時間もかかるし、どこにも逃げられないんだから」
私もうなずかざるを得ない。
「それはそうだな……」
「そもそも、身代金さえ奪えれば普通は人質を解放するものでしょう? なのに、手術室の機械類を全部止めた。僕が死ぬ可能性がすごく跳ね上がるわけでしょう? 死んじゃったら、元も子もないよ。麻酔、ロボットのハック、電力の遮断、そしてさっきのナース――僕は別々の方向から四回も命を狙われたことになる。これって、何が何でも殺してやろうって証拠じゃない? 念には念を入れて四カ所から襲いかかってきた、みたいな……」
迫田がうなずく。
「警察も自衛隊も総力を挙げて調査しているが、犯人の正体はまだ掴めていない。君が言うような可能性がないわけではないが……。だとしたら、犯人は誰だと考える」
デイビッドの答えは明確だった。
「アクシオム」
「ない、とは言えないな……」迫田が、戸惑う私に説明した。「アクシオムは中国のサイバー攻撃組織だ。これまでは61398部隊が最も有名な組織だったが、中国はその陰に隠れてさらに能力の高い組織を作り上げていた。中国人民解放軍ではなく、国家安全部の管轄下にあるのではないかともいわれている。資金力も情報収集能力もトップレベル。日本の官僚や政治家の中にも、買収されたりハニートラップに引っかかって情報を垂れ流している連中も多い。今回の手術の件も、その辺から漏れたとも考えられる」
「中国にこれほどの攻撃力があったのか?」
答えたのはデイビッドだ。
「能力が足りない分は、アウトソーシング。それがエルンストの役割だと思う。軍用回線を乗っ取ったのは、あいつだね。病院に関してはハッキングのルートを開いただけで、後は人民解放軍に任せたんだと思う。身元の偽装工作は洗練されているけど、侵入してからのプログラム変更が雑過ぎるもの」
迫田が補足する。
「アクシオムは、私たちの〝仮想敵リスト〟のトップにある。デイビッドは軽く見ているようだが、サイバー戦での能力は決して侮れない。上海に拠点を置く61398部隊ですら、英語に堪能でハッキング能力を持つ数千人もの隊員が世界中を攻撃できる体制にある。FBIからの情報では、アクシオムは隠密性や機動性で61398部隊をはるかに凌ぐハッカー集団だという。我々も正確な実態はまだ掴み切れていないんだがね。北朝鮮の121局も決して侮れないが、まだアクシオムには追いつけていない。彼らは開戦時に敵軍に侵入するだけではなく、常に米国の企業や政府機関から情報を盗む長期的な作戦を展開している。当然、日本の民間会社も情報収集や攻撃の対象だ。企業情報は盗まれ続けていると言ってもいい。しかも、いざ武力衝突ということになれば、蓄積した情報を元に原発やライフラインに攻撃を仕掛けてくる。それを防ぐためにも、デイビッドからハッキング技術を学ぶ必要があったんだ」
私にも理解できた。
「では中国は、日本がサイバー戦での能力を上げることを恐れて……?」
迫田がうなずく。
「日本はこれまで、あまりに無防備だった。警察と自衛隊がスキルを世界的なレベルに上げれば、それを民間に広げることも可能だ。公共機関の守りも固められる。防御能力の向上は攻撃力の向上と一体だ。中国は、絶対に防ぎたいだろう。だが一方で、中国はイスラエルから多額の武器を購入してきた。表だってイスラエルと対立することは避けたい。だからこんな手間をかけたんだとも考えられる」
「だが、ハッカー一人を殺したところで大きな流れは止められないんじゃないか?」
「デイビッドは特別だ。国を支える、最も重要な頭脳だからね。8200部隊の戦力が半減すると言っても言い過ぎじゃない。その命が日本で失われれば、イスラエルと日本の関係は悪化する。国家間の協調も滞らざるを得ない。今後、人材交流は危険だと見なされて、日本には最新の情報が入らなくなる。アイアンドームや無人機の技術を手に入れることも難しくなるだろう。隙があれば日本に戦争を仕掛けようと企んでいる中国にとっては、笑いが止まらない展開だ」
「だが、そのために病院まで占拠するか? 重症者を含めて何百人もの病人を人質に取っているんだ。どんな理屈があろうが、徹底的に非難される。死者が出ればなおさらだ。中国の仕業だったと暴かれたら、逆に国際的に孤立するんじゃないか?」
「デイビッドが言った通り、占拠事件や身代金の要求そのものが、公安を欺く偽装工作だという可能性が高い。正体不明のテロリストが1000億円の資金を求めて彼を狙ったが、人質は運悪く死んでしまった……死んだのは偶然だと信じ込ませるために、わざわざマスコミを巻き込んで事を大げさにしたのかもしれない」
デイビッドが言った。
「中国の仕業なら、エルンストが手を貸す理由も分かるね。軍なら金はあるし、出し惜しみしないだろうから」
私は疑問を口にした。
「でも、チャンとかいう中国のハッカーの仕業に偽装しているんだろう? わざと中国がやったと証拠を残しているみたいじゃないか」
デイビッドがクスッと笑う。
「中国の奴ら、何かエルンストが腹を立てるような無礼をやらかしたんじゃないの? 中国人って、金さえ渡せば誰でも言うこと聞かせられると信じ込んでるから。エルンストは無作法な奴には容赦しない。罪を償うべき人間が誰かを、〝ハッカーの手口〟として残していったんだ。そうはいっても、その〝サイン〟を読み取れる人間は世界に数人しかいないんだけどさ」
伊藤が話に加わった。
「だが、手術はどうするんだ? 俺は、正直手を引きたい」
意外な言葉だった。さっきは継続を認めていたはずだ。いったんは外へ出られる希望が見えたとはいえ、現状は元に戻ってしまった。
いや、デイビッドにさらなる電気ショックが加わった分、手術の緊急性は高まっている。彼の脳は、いつ限界を超えてもおかしくはないのだ。
私は言った。
「それは危険だ。全摘出は無理でも、可能な限り腫瘍の体積を減らして脳幹の圧迫を軽減すべきだ。さっきはお前も賛成したじゃないか」
「この状況では無理だ……俺の精神力は、そんなに強くない……」
思いもしなかった弱気な発言だ。
だが、分からないでもない。万全の環境でも難しい手術を、これだけ妨害の中で強行しろというのは理不尽だ。許されるなら、誰だって逃げ出したい。
それでも、脳に爆弾を抱えた患者がここにいる。ある意味、世界の命運を握る頭脳が危機にある。そして、救える可能性を持つのは伊藤だけだ。
逃げ場はない。
「私も手を貸す。無線ゴーグルで同じ術野を見ながら、助言する。二人で対処法を考えよう。結果がどうなろうと、同じ責任を負う。だから、手術を続けてくれ」
この手術を見るのはつらい。脳の映像に包まれるのは苦しい。今でも酒を浴びてすべてを忘れたいのが本音だ。しかも妻を殺した時と同じ腫瘍、同じ術式だ……。
それでも、戦わないわけにはいかない。この天才を――いや、天才であるが故に命を狙われる〝普通の若者〟を、助けないわけにはいかない。それができるのは、私たちだけだ。
デイビッドが言った。
「お願いです。手術を続けて……」
迫田もうなずく。
「伊藤先生、お願いします。今は、あなたの能力にすがるしかないんです」
伊藤は、しばらく床を見つめて返事をしなかった。
怖いのか? 無理もない。
不利な要素が多すぎる。何万という手術を成功させてきた伊藤にとっても、この状況は〝恐怖〟だろう……。並の医師なら、こんな手術を引き受けられはしない。
伊藤は迷っている……。あるいは、己の恐怖と戦っている……。
だが、お願いだ……デイビッドのために、決断してくれ……。
と、いきなり伊藤は声を荒げた。
「そうじゃない! 俺もデイビッドを殺す側にいるんだよ!」
は? 何を言っている?
あまりに意外な言葉だった。
迫田が息を呑んだ。その意味が即座に理解できたようだ。
「まさか……あなたまで……?」
伊藤はがっくりと肩を落とした。
「これだよ……」
伊藤は手術衣の首元から奥に手を差し込んだ。何かを掴み出し、細いコードを引きちぎって迫田に手渡す。小さな、黒いプラスティックの箱だ。身体に直接張り付けてあったらしい。
迫田はうめいた。箱の裏蓋を開けて、小さなボタン型の電池を取り出す。
「盗聴器……この部屋の情報を漏らしていたのは、あなただったんですね……これも人民解放軍の陰謀か……」
伊藤は苦しげに答えた。
「他に方法はなかったんだ……命令に従うしか……」
まさか……。
私は、勘違いをしていた。
迷っていたのではない。伊藤は、医師の魂を〝売った〟のだ……。
私は思わず言った。
「なぜ……?」
伊藤は、吠えるように答えた。
「妻と娘が監禁されているんだ! デイビッドを救ったら、二人が殺される!」
打ちのめされた。
ほんの一瞬でも、伊藤を疑ったことを悔やんだ。
伊藤は、そんな男ではない。
政治に心を砕くことはあっても、医師の誇りを捨てることなどない。私やアイザーに闘争心を燃やし、ひたすら高みを目指してもがいてきた男が、その道を外れるようなことはあり得ない。己の限界を超えることだけに徹したストイックな男が、福山教授の後継者というべき地位を踏みにじることなどあろうはずがない。
魂を〝売った〟のではない。
〝奪われた〟のだ。
なんということだ……伊藤までも……。
そんな状況にありながら、今まで手術を続けるふりをさせられていたのか……。
どこまで卑劣な相手なんだ。許せない……。
迫田は厳しい声で伊藤を追求した。
「それは本当ですね⁉」
「今も二人は監禁されている! 逆らえないんだよ!」
「いつから?」
「もう三日目だ。今朝も二人の画像が送られてきた。両手を縛られて覆面の人間に脅されていた」
「警察には――」
「言えるもんか! 殺されたらどうする⁉」
「周囲の人間は気づいていないんですか?」
「二人は台湾に旅行中なんだよ! 向こうで拉致され、監禁されている。誰が気づくっていうんだ⁉」
「こんな時に、偶然旅行を?」
「台湾の知り合いから、ぜひ来て欲しいと誘われたんだ。新しく作る病院の計画立案を手伝って欲しいとかで……」
伊藤の妻は東大でナース長まで務めた看護師だった。今では現役を退いているはずだが、知識も人脈も豊富に持っている。人民解放軍は、この手術に合わせて誘拐を実行したというのか……。
迫田が重苦しいため息を漏らす。
「……それであなたは、何を命じられたんですか?」
「患者に中心静脈カテーテルを入れろと言われた。後は、決して治療するな、と……」
伊藤は涙を堪えているようだった。
一つの疑問が解けた。
患者に中心静脈カテーテルが入れられていたことに、どうしても納得がいかなかったのだ。
伊藤なら、どんな理屈をつけてでも中心静脈カテを留置させる権限がある。カンファレンスで疑問を持つ者がいても、実績と名声を持つ伊藤に反対意見を唱える度胸はないだろう。そして中心静脈カテは、垂水が麻酔で患者を殺すための〝必須条件〟になっていた。
伊藤が条件を整え、垂水が手を下したのだ。
私が垂水の不審な動きに気づかなければ、そこでデイビッドは殺されていただろう。
とはいえ、術中死に見せかけるためには、証拠は絶対に残せない。逆に言えば、100%確実に殺すことは難しくなる。
だから、バックアッププランとしてアスクレピオスを乗っ取った。ロボットが暴走した時、伊藤は咄嗟に対処法を判断できなくて硬直していたのだと思っていた。違ったようだ。
誰かが再びデイビッドを殺しに来ることを予測して、あえてそれを止めようとしなかったのだ。
さらに、病院の占拠――。
その目的は何か?
第一は電力を奪ってデイビッドの手術を失敗させること。そして、中国軍がデイビッドの命を狙ったことから目を逸らすためだ。
だからすでにデイビッドが死んでいたとしても、病院の占拠は決行されただろう。大掛かりな偽装工作を行うことを前提に、その陰でブレインサイトでの殺人計画が進行していたのだ……。
伊藤はデイビッドが殺されることを知りながら、〝犯人〟に協力し続けていたのだ。
医師としては許されない行為だ。
だが、私には伊藤を非難することができない。
医師も、人間だ。医師の倫理や法律には反しても、人として避けられない選択は、存在する……。
事実、私もそうだった……。
迫田が伊藤に言った。
「ではなぜ、一度は手術を再開したんですか?」
「あいつらはきっと、また襲ってくる……そう思って……その時まで、なんとか時間を稼ごうとした……自分で手を下さなくてもいいように……」
伊藤にはもう、医師に戻ることは期待できない。
迫田が、私にすがるように問いかけた。
「長嶺先生……どうしたらデイビッドを救えるでしょう……?」
それでも、私の考えは変わらない。
「今手術しないと、脳が耐えられないでしょう。とっくに限界は越えているはずです。しかし、手術ができるのは伊藤しかいない。日本中を探しても、です」そして私は伊藤に言った。無駄だと感じていても、他に方法はない。「お前は医師だ。日本一の脳神経外科医だ。福山教授の後継者としての責任を果たせ」
伊藤は、必死に涙をこらえている。人と医師の狭間で、押しつぶされようとしている……。
私も、そうだった……。
私は、医師であることを捨て、〝人〟であることを選んだ。
なのに伊藤に、〝人の心〟を捨てろと要求している。同じ立場に追い込まれた〝あの時〟、伊藤と同じ決断を下した私が、今、彼を否定している……。
伊藤は絞り出すようにうめいた。
「できるわけないだろうが……」
分かっている。そんなことは、分かっている!
それでも、言うしかないんだ!
でなければ、デイビッドは死ぬ……。
「もう、盗聴はされていないんだから――」
伊藤は、苛立ちを爆発させた。
「分かるもんか⁉ これほど大掛かりなテロを仕掛けてくる連中なんだぞ!」
迫田が言った。
「手術をさせるのですか……? 危険では?」
「私が見張ります。無線ゴーグルで顕微鏡の映像を見ていれば、何をやろうとしているかは分かりますから。危険を感じたら、すぐ止めます。他に選択肢はないんです」それができるかどうか、確信など持てない。殺すのは一瞬だ。止める暇などありはしない。だが、伊藤に言った。「お前は医師だ。それを思い出せ」
私は、残酷だ。
医師にとっては、最も厳しい言葉だ。胸に突き刺さる刃だ。
医師を捨てた私が、言って許されることではない……。
だが、伊藤の心を動かせれば手術は続けられる。
伊藤を、医師に戻せさえすれば……。
伊藤がつぶやく。
「家族はどうなるんだよ……殺されるんだぞ……お前は責任を取れるのかよ……」
私は迫田に言った。
「伊藤の家族を全力で守ってください」
「もちろん」
そう言った迫田は、休憩コーナーに向かった。部下へ命令するためだ。通話がかすかに聞こえる。
「迫田だ。内部の情報提供者が発覚した。伊藤医師だ。奥さんと娘さんが現在台湾で拉致されていて、手術を妨害するように脅迫されていた。直ちに捜査を開始するように――」
私はさらに伊藤を説得しようと振り向いた。
私には説得する資格はない。だが、デイビッドを救うためにはやらばければならない。
同時に、ナースが声を上げた。
「先生、何を⁉」
伊藤は、バットに並べられていた頭皮切開用のメスを素早く取り上げていた。メスを私に向かって突き出し、身構える。
「できないんだよ! 俺にはできないんだ!」伊藤は左手にメスを持ち替えた。止める間もなかった。自分の利き腕、右手の手のひらにメスを突き立てる。そして叫んだ。「ぐあああああ!」
メスの先が手のひらに食い込んでいく。自分の利き腕を使えないようにしているのだ。手術ができないように……。
私は腰が抜けたように動けなかった。ただ呆然と、伊藤の行動を見守るしかなかった。
そこまでしてでも、家族を守りたいのだ。
当然だ。
私だ……。私が、伊藤を追い込んだのだ……。
その苦しみを、一番分かっているはずの、私が……。
愛するものを救うためなら――その願いを叶えるためなら、医師の掟に背いてでもやらなければならないことがある……。
それを、知っているのに……。
それを、選んだのに……。
そして、手を下してしまったのに……。
だが、万事休すだ。あれほど深く傷を負った手では、繊細な脳外科手術などできはしない……。
デイビッドは、死ぬ……。
迫田が部屋の奥から叫ぶ。
「何が起きた⁉」
伊藤は、手のひらからぼたぼたと血を流しながら立ち尽くしていた。ナースが駆け寄る。
「先生! なんてことを⁉」
私は、ナースに言った。
「君……処置をしてあげて……」
駆け寄った迫田が言った。
「おい……手術はどうなるんだ⁉」
手術助手たちの顔を見た。
二人とも、顔から血の気が失せている。医療機器のモニターの明かりしかないからそう見えるのではない。怯え切っているのだ。
そもそも、彼らにこの手術を完投する技量があるとも思えない。
私はつぶやいた。
「無理です……伊藤以外の人間に、この手術はできません……」
迫田は私を見つめたまま、何も答えなかった。
暗いブレインサイトが、沈黙に包まれる……。
と、デイビッドのか細い声が聞こえた。
「あなたがやってよ……」
私はデイビッドを見た。
「何だって?」
「あなたが手術をしてよ。伊藤先生より優秀だったんでしょう?」
私は溜息を漏らした。できることなら、そうしたい。消えかかっている目の前の命を、救いたい。
「誰から聞いた?」
「迫田さんから」
私は迫田を見た。迫田がうなずく。
「安心させてやりたかったんだ」
デイビッドが言った。
「ゴッドハンド……なんでしょう? だから今日、呼ばれてきたんでしょう?」
「私はもう医師とは呼べない。免許は持っていても、10年も現場を離れている。こんなに困難な手術など、不可能だ」
背後で、迫田が言った。
「本当に無理ですか?」
まさか、迫田からそのようなことを言われるとは考えてもみなかった。
「あなたまで、何を……。私が長いこと現場を離れていることを……いや、他にもいろいろ問題を抱えていることを、全部知ってるんじゃありませんか?」
公安が私を国家の安全保障に関わる現場に呼ぶ以上、何もかも調べ上げているはずだ。過去のアルコール依存症のことも、あるいは妻を殺したことまでも……。
「それでも、あなたしかいない――と言ったら……?」
まずい。
伊藤に繰り返し言ってきたことを、そのまま返されている。
デイビッドがうめいた。
「それでも、やって欲しい……感じるんだ……僕……もうすぐ限界だって……」
やめてくれ!
私を追い込まないでくれ!
酒が欲しい……。
脳を酒に浸して、何もかも忘れたい……。
伊藤はナースに導かれ、休憩コーナーに向かっていたようだ。不意に振り返って叫んだ。
「こいつはやめておけ! 手術に失敗して自分の嫁を殺した奴だ! だからビビって、医師が続けられなくなったんだ! 脳をいじらせたら、確実に死ぬぞ!」
何も言い返せなかった。
その通りだ。私は、そういう男だ……。
言い返したのは、デイビッドだ。
「でも……ゴッドハンドだったんでしょう……? 何千人も、助けてきたんでしょう……? お願い……僕も助けて……」
やめろ! 追い込むな!
迫田が言った。
「今の話、本当ですか? 奥さんを殺した、とか……」
知っているんじゃないのか? 知らないふりをしているだけか?
私はうなずいた。
正直に話すべきだと思ったのだ。
迫田に、ではない。
こんな私にすらすがり付くしかないデイビッドに、だ。すべてを知った上で、諦めて欲しかった。
私は、人殺しなのだ。本物の殺人者なのだ。
「その通りだ……私は妻を殺した。手術の失敗ではなく、殺すために失敗したように見せかけた……人殺しなんだ……」
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