5・サイバー・フロントライン

 私は手術台の横に椅子を置いて座った。

 周囲は暗いが、デイビッドの顔は医療機器のモニターから漏れる明かりにぼんやり浮かんでいる。目の焦点が次第に結ばれていく。瞳の動きを確かめながら、じっくり状況を説明した。

 麻酔医が命を狙ったこと、ロボットが何者かに操られて暴走したこと、病院がハッキングされて身代金を要求されていること、そして、重要な医療機器の多くが使用できなくなっていること――。 

 デイビッドは手術台に横になった姿勢のままだ。頭は固定具でがっちり抑えられ、身体を大きく動かすことはできない。頭蓋骨には拳が入りそうな穴をあけたまま、脳の表面が露出している。

 本人もそれを承知している。自分が置かれた状況も、明確に理解できたようだ。

 デイビッドは時々簡潔で的確な質問を返したが、終始私の言葉を冷静に受け止めていた。

 何もかも隠さずに伝え終えて、改めてデイビッドに尋ねた。

「十歳まで日本にいたとはいえ、素晴らしい日本語を話すね」

 デイビッドはかすかに笑った。

 三叉神経誘発電位のモニタリング電極が唇に装着されているために、話しづらそうだ。麻酔の効果もあり、舌がもつれたような口調でゆっくり答える。

「眠ってるときの夢だって日本語で見る方が多いよ。こっちに来てから一年間ずっと日本語ばかりだったから、頭の中はすっかり日本人に切り替わってる」

 思考力は正常だ。

 というより、一般人より極めて知性的で、自分の命がどれほど危険か分かっても取り乱さなかった。10代から軍事研究開発を牽引してきた頭脳なのだから、当然と言えば当然ではある。脳機能のチェックのための動作も正常で、視聴覚や四肢の動きにも目につくような異常はない。

 私が説明をしている間に警察と連絡を終えた迫田がやってきて、少し離れてその内容を聞いていた。

 話が途切れると、迫田が加わった。

「デイビッド、国テロの迫田だ。こんな時になんだが、君の命を狙う組織に心当たりはあるかい?」

 首を固定されていたデイビッドには、暗がりに立つ迫田は見えていなかったようだ。

「え、迫田さん? 手術室にまで入ってたの?」

「君を狙った麻酔医を捕まえるためにね。どうだろう?」

「アラブ系の組織なら、みんな僕を殺したがってるよ。イスラエルのサイバー攻撃ツールは嫌っていうほど作ってきたから。ISの生き残りとかアルカイダとかヒズボラとかタリバンとかエトセトラ、エトセトラ……。暴力ばかりに頼ってる連中には高度なネットスキルはないと思うけど、ISは〝金と女〟でエンジニアを釣っていたし、シリアやイラクにはMITで専門教育を受けたクラッカーだっているはずだから。中国やロシアだって僕を狙ってるかもね。あ、北朝鮮も。しつこい誘いを実力で追い払ったりしてきたから。まあ、敵は地球の半分とちょっと、かな」

 クラッカー――? 私が知らない言葉だ。振り返って迫田に尋ねた。

「クラッカー、って?」

 答えたのはデイビッドだ。

「悪意を持ってシステムに侵入するハッカー。ハッカーは、コンピュータの世界に特別精通した人間をいうんだ。僕はホワイトハッカー。イスラエルに忠誠を誓った愛国者で、お金のためには動かない。愛国者だから、敵が多い。イスラムから見たら完全に〝悪魔の手先〟だろうから」言葉はもつれていても、脳の反応は素早い。「国テロでも調べてるんでしょう? 残念だけど、あなたたち以上の情報は持ってないな。ソフトを組むのは好きだけど、インテリジェンスは僕の仕事じゃないし。モサドかアマンに聞いてみてよ」

 それらがイスラエルの情報機関だということは聞いたことがある。知っているのは名前だけ、だが。

 迫田が答えた。

「もちろん情報交換は進めている。イスラエルからは君の安否を気遣う通信が津波のように流れ込んでいるそうだ」

 デイビッドはまさに、国防組織の中心にいる人間なのだ。この青年を軸に――つまりブレインサイトを中心にして、世界が廻り始めている。

 私はデイビッドに聞いた。

「今、私たちが置かれている状況は分かってもらえたね。事態は緊迫している。君の治療は待てない。だが、手術を決行するのも極めて危険だ……」

 言い淀む私に、デイビッドは平然と言った。

「僕に決めろって?」

「難しい決断だということは分かっている。だが、同意は得たいんだ」

「考える必要はないですよ。脳が変形しているのは見ました。自分でもネットでいろいろ調べたけど、あなたたちの意見は正しいと思う。手術をしなければいつ死ぬか分からない。だから、手術はしてください」

 やはり国家を支える頭脳だ。少しも動揺を見せない。

「任せてもらおう」

「でも、しばらく待てない?」

「待つ? 何を?」

「病院からテロリストを追い出せば、手術室を解放できるんでしょう? 電力や機材も使えるようになるんでしょう? その後なら、手術の成功率も上がるんじゃない? 僕だって、死にたくはないもの」

「追い出すって……それがいつになるから分からないから、私たちも悩んでいるんだ」

「それ、僕がやるから」

「え?」

 意味が分からなかった。

 デイビッドが誰にともなく言った。

「僕の〝お守り〟、誰か持ってきてくれないかな」それも意味が分からない。スタッフにも分からないようだった。「持ってこなかったの? 金属製のアタッシュケース。手術室に置いてあったら安心するから持ってきてって、あれほど頼んだのに」

 ナースの一人が声を上げた。

「あ、あれ! ありますよ! 今、取ってきます」

 デイビッドが私に言う。

「右手だけでいいから、使えるようにできる?」

「何がしたいんだ?」

「キーボード操作」

 ナースが休憩コーナーから小ぶりなジュラルミンケースを運んでくる。開けると、小さなコンピュータが現れた。かじりかけのリンゴのマークがうっすら見える。

「MACを持ってきてたのか」

「〝お守り〟だからね。これさえあれば、僕は僕になれる。いつも触っていないと、不安になるんだ」

 私はMAC BOOK・AIRを受け取って、蓋を開いてデイビッドの横に置いた。画面がすぐに明るくなる。ディスプレイにぼやけた壁紙とパスワードを打ち込むボックスが現れる。壁紙は『ワンピース』らしい。確かにこの青年は、アニメオタクにしか見えない。右手を取ってキーボードに乗せると、確認した。

「見えるかい?」

 首をひねることも出来ないデイビッドは、苦しそうに言った。

「もうちょっと頭に近づけて……あ、行き過ぎ。少し右に回して……その辺りがいいね」

 私が位置を調整する間もすでにデイビッドの指は動いて、起動パスワードを打ち込んでいた。指の動きは極めてスムーズだ。

「指の動きはいいようだね」

 デイビッドはキーを打ち続けながら、意外そうに言った。

「とんでもない。蜂蜜の中で泳いでるみたいだ」心底驚かされた。デイビッドは本気で言っている。普段、どんなスピードでキーを打っているのだろう……? だが、口調が沈む。「ああ、やっぱりワイファイは切られてるね……ま、サイバーテロなら当然か。ねえ、ケースの中にiPhoneが入ってるでしょう? 持たせてくれる?」

 ナースが私の手にiPhoneを手渡す。私はそれをデイビッドに握らせた。

「これでいいかい?」

「今のiPhoneって無駄にでかくなって、片手じゃ使いづらいんだよね……」

 そう言いながらも、デイビッドは素早く操作してiPhoneを私に返した。

「これをどうすればいいんだ?」

「持ってて」言いながら、再びMACを操作する。「ここじゃ電波が届いてないのかな……。携帯電波が来てる場所があるんでしょう? そっちにiPhoneを持っていってくれる? テザリングをオンにしたから」

「ああ、部屋の奥なら」

 迫田がiPhoneを受け取って、休憩コーナーに運んでいった。

 と、デイビッドは嬉しそうな声を上げた。

「お、来たよ! ネットに繋がった。これなら戦える!」

 キーボードを打ち込むたびに、次々と小さな入力画面が開かれていく。

 頭を固定され、脳に穴があいた状態で、テロリストに立ち向かおうというのだ。なんという青年なのだろう。これが本物のハッカーなのか……。

 デイビッドはメールソフトを開くと伊藤に言った。

「伊藤先生、病院専用のメールアドレス、持ってます?」

「あるけど」デイビッドの様々な反応をじっと観察していた伊藤が早口で答える。「エイチ・ハイフン・イトウ・アットマーク・スワンブレイン・ドット・オーアール・ドット・ジェイピーだ」

 デビットは伊藤の言葉を聞きながらアドレスを打ち込んでいく。何らかのファイルを添付してから空メールを発信して、言った。

「今、ちょっとした悪さをするウイルスを送った。メールが届けば侵入ルートが開くよ」

 私は尋ねた。

「ウイルスって、添付ファイルを開かないと感染しないんじゃないのか? 病院は混乱しているはずだから、誰も気づかないんじゃないかな――」

 返事は素早い。

「着信するだけで侵入できるものもあるんだな。プロなら、常識。っていっても、本物のプロ、ね。……おっと、そう簡単にはいかないか。メールは受けつけないね。病院を孤立させたいなら、当然ルータで通信データをブロックするもんね。でも、ファイアウォールでやってるのか、そもそも電源から落としちゃったのか……。どこか一箇所は生かしておかないと、自分たちもネットからシステムをいじれないわけだから……。やっぱりダメか。中からじゃないと潜り込めないね。伊藤先生、カルテを見たりするのに個人のアカウントがあるでしょう?」

「ああ、あるが?」

「ここで、開ける端末ってある?」

「ある」

「どこ?」

「メインディスプレイの横だ。だが、配線が切られているじゃないか?」

「ネット配線は普通、電源とは別の場所に通すから。ノイズを拾わないようにね。有線なら、だけど。試してくれない?」

 伊藤はメインディスプレイへ向かった。その横に、パソコンが組み込まれていた。引き出し状のキーボードを出して電源を入れた。パソコンはバッテリーで起動したようだ。アカウント名とパスワードを打ち込む。

「君が言った通りだ。正常に使えるようだ」

「そこに、USBポートは付いてる?」

「あるが?」

「僕をそっちに連れてって。このMACを繋ぎたい。ケースの中に、USBコードがあるから」

 手術台の移動が始まった。

 暗がりの中で手術台の周囲の機器を片付け、邪魔になるモニタリングセンサーを外していく。動けるスタッフ全員の力を合わせた〝大移動〟だった。

 ケースから出したUSBコードは、中央のリールからを引き伸ばすと2メートルほどの長さになった。片側をMACにつなぎ、もう一方を壁に埋め込んだPCのポートに差し込む。

 途端にデイビッドの指先が目まぐるしく動き始めた。MACの画面が変わり、何行もの文字で埋め尽くされる。その文字が、どんどん上へ流れていった。

 もはや、一般人がコンピュータの画面として思い浮かべるものとは全く違う。ただひたすら羅列される記号の中に、デビットは我々とは別の〝風景〟を見ているようだ。

 私が想像していたハッカーとは別次元だ。まさにプロフェッショナル――いや、それを越えた〝天才〟だ。

 伊藤も呆れたようにつぶやく。

「もうハッキングできたのか?」

「アドミニ――つまり〝管理者〟に化ける方法を探ってる……ルート権限を得ないと自由にプログラムをいじれないから……これがパスワードだろうけど、当然、暗号化されてるよね……」

 言いながら、別のソフトを開く。何十文字ものアルファベットと数字の羅列をペーストする。プログラムを走らせながら言った。

「何をしているんだ?」

「暗号の解析」

 私はMACを覗き込んで言った。

「そんなちっぽけなパソコンだけですぐにできるのか?」

 素人の私に説明する。

「だけ、じゃないから。テザリングでつないだネットを通じてゾンビマシンを走らせてる」

「ゾンビ……?」

「〝トロイの木馬〟を仕込んでるマシン。世界中に3000台以上はあるかな。本人は乗っ取られてることに気づいていないけど、僕が使いたい時は自由に使える。アノン――あ、アノニマスね、あいつらだったらスパムメールとかDoS攻撃とかのつまらないイタズラに悪用する仕組みだけど、僕は仕事を手伝ってもらうだけ。マシンが遊んでる時間をちょっと貸してもらって、さくっと分散コンピューティングを実現してる。3000台から少しずつ能力を借りて、それを合わせて一つの命題に取り組みシステム。今、ネット上のマシンが手分けして暗号を解析してるんだ。ま、使われてる本人には断ってないから、犯罪といえば犯罪だけどね。それでも、一世代前のスパコン程度のパワーが出せる――ほら、もう解析結果が返ってきた」

 MACには15文字程度の文字列が表示されている。表示されているパスワードを元のプログラムに打ち込む。

 すると、画面が変わった。

 とはいっても、文字の内容が別の羅列に変っただけで、私には当然、何の意味は分からない……。

「中に入れたのか?」

「うん……でも……これ、やっぱりMUMPS――Mランゲージだよね……あ、そうか、ここって病院だもんね」

「何かまずいことが?」

 デイビッドは目まぐるしく画面を動かしながら答えた。

「そうじゃない。Mランゲージって、1960年代にマサチューセッツ総合病院で医療情報処理用のアプリケーションを開発するために開発されたプログラミング言語なんだ。でも、一般的じゃない。医療関係者が作った言語だから、論文を書いたりカルテを整理したり、病院間のやりとりには向いてるんだけどね。だから不思議じゃないけど、ビルの管理とかには当然使わない。ここでも使ってないと思う。だとすれば、二つのプログラムを併用していることになる。……テロリストが抑えたのはビルの制御の方だから……うん、ざっと見た限り何もおかしいところはないみたい。Mランゲージのほうはクラッカーにいじられてないみたいだね」

 たったこれだけの時間で、他人が組んだプログラムがハッキングされていないかどうかを判別したようだ。

「じゃあ、ハッキングされたのはもう一種類のプログラム?」

「そうなるね。……多分、どこかに管理用プログラムに繋がってる接点があるはずだよね、きっと……。まるっきり別々じゃ、必要な時に連携が取れないものね。どこだろう……受付のパソコンとかかな……あ、警備室あたりのほうがいいかも。伊藤先生、このパソコンで監視カメラの画像とか見られる?」

 伊藤が答える。

「病室には監視カメラは付いてないが……いや、ICUのカメラだけは見られるな。夜間でも目が離せない患者がいるから」

「そこだ。ちょっと開いてみて」

 伊藤がキーボードを操作すると、壁のPCにICUのモノクロ映像が表示された。

 病室を見下ろす視界に入る2台のベッドには、それぞれ生命維持装置に囲まれた患者が寝かされている。今は異常がなさそうだ。だが、電源を遮断されれば彼らは10分と生きられない。

 デイビッドはMACを操作してうなずいた。

「なるほど、ここで警備室に繋がってるんだね……。先生、ありがとう。入り口が見つかったよ。〝敵〟にとっては裏口だから、たぶん入っても気づかれない。プログラムは〝敵〟がすでに占拠してるから、僕が入り口をこじ開けたことは知られたくないから……かえってラッキーだったかも……」

 言いながら、再び暗号解読ソフトを走らせている。そしてさらにプログラムの奥に侵入していった。

 伊藤がつぶやく。

「病院を解放できるのか?」

 デイビッドは鼻先で笑うように言った。

「だと思うよ。ほら、やっぱりだ。こっちはJAVAを使ってBACnetとLON・WORKSで組んであるね。ごく普通のビル管理システムだ。〝敵〟もいろいろ侵入を防ぐ防壁を固めてから……こっちも出来るだけ姿を隠しながら進まないと……慎重に、慎重に、時間をかけないとね……まずは、相手をよく知らないと……うわ、ルーターは電源から遮断したんだ……これじゃ、こじ開けようがないな……へえ……このシステム、すっごくきれいに作ってある……ああ、それいいアイデアだよね……今度僕も使わせてもらうよ……」

 どうやら、病院の管理システムを作ったプログラマと〝会話〟しているらしい。私は思わず言った。

「プログラムって、そんなに違いがあるのかい?」

 デイビッドは饒舌だった。指の動きも、最初より速くなった気がする。

「当然。人間が作るものだからね。この病院のプログラムは、とてもシンプルで効果的な構造になってる。これって、作るのがすごく難しいんだ。全体を俯瞰しながら細かいところまで神経を行き届かせないと出来ない。がさつな奴が組むと、あっちに付け足し、こっちに付け足しで、コブだらけの醜いモンスターになっちゃう。特に能力が足りない奴は、似たようなプログラムをテンプレートにしてゴチャゴチャと機能を増やしちゃう。だから余計にプログラムが汚れていくんだ。困るのは、それでもそれなりに動いちゃうってことかな。で、ヘンな時にヘンな場所が不具合を起こす。でもこの制作者は、ちゃんと他人から見られることを意識して、誰が見ても分かりやすい〝説明〟をつけてくれてる。ってことは、乗っ取る奴にも分かりやすいってことだけどね……あ、いたいた。薄汚いウイルスをぶち込みやがって……分かりやすいっていえば分かりやすいけど……まるで、アップルストアで喚き立てるどこかの国の連中みたいだな……まあ、こっそり情報を抜こうって仕事じゃないから、姿を隠す必要もないけどね……では、君のお手並みをじっくり拝ませていただきましょうか……おや、そうきたか……それなりに勉強はしてる、ってとこかな……あれ? そこはソースが汚いな。そんなんでいいの?……何これ、全然一貫性がないじゃん……ちゃんと書き換えておけよ、そこは……確かにそんなゴミを突っ込んどけば、プログラムはクラッシュするけどさ……うわ、こんなの、恥ずかしくないのかな……」

 何も言えなかった。

 デイビッドは、文字の羅列だけからシステムを理解し、異質な部分を探りだし、その正体を暴こうとしている。それを、片手で、脳に穴があいた状態でやってのけている。

 国家間の取引やテロの標的にされる頭脳は、その構造自体が普通ではない。

 単に訓練で身に付けた技ではないだろう。おそらく、脳内の神経回路――シナプスの結びつき方が、生まれたときから常人とは根本的に異なっている。

 サヴァン症候群の英国人、ダニエル・タメットは数字を図形や色として認識して、どんなに複雑な計算も暗算で解けるという。形を並べるとその間に別の形が生まれ、それが計算結果を示すというのだ。しかも、結果は常に正しい。その仕組みは、これまでの科学体系では全く説明できていない。人類の長い歴史の中で、一度も行われたことのない計算方法なのだ。だから、本人以外は誰も理解できない。本人でさえ、説明できる言葉を持ち合わせていない。

 そして、ダニエルは言う。

『11は人なつこく、5は騒々しい。4は内気で静かだ』

 彼にとって数字は〝友人〟であり、形だけではなく〝性格〟まで備わっているのだ。

 デイビッドの脳にもそれに近いものを感じる。プログラムを、建築物のように見ている気がする。だとすれば、視覚野で論理的な〝思考〟をしていることになる。

 あまりにも特殊だ。常識的な脳機能の分布図など、適用できるはずがない。私ですら初めて見る、天才の脳だ。

 そして、気づいた。

 その特殊性が、これほど脳が変形しても生命を維持できた理由なのかもしれないのだ。異常なほどの言語野の散らばりは、そもそも生まれた時から持っていた特性なのかもしれない。

 学術的な研究対象としても貴重な存在だ。

 しかし、医師にとっては危険も大きい。

 脳は、外見から機能を判断することができない。内臓など違って、一見、どこを切っても見た目に違いはないからだ。それなのに、生存に不可欠なさまざまな機能が各部分にぎっしり詰め込まれ、互いに作用しあってバランスを保っている。

 ファンクショナルMRIの登場で、脳の活動に関連した血流動態反応を視覚化することができるようになった。言葉を聞いているときに血流が増える部分は言語野だと分かる。音楽を聴いているときは、別の場所の血流が増す。そうやって脳機能の分布図が作られてきた。

 だがその精査には時間がかかるし、遺伝的要素や後天的要因、環境因子も大きく作用する。個人から集めたデータを集積して作った一般的なモデルは存在するが、すべての脳がそこから類推できるという保証もない。

 人間は、〝個性〟を持つ。たとえば、人の心臓は普通は身体の中心より左側に寄っているが、稀にそれが右にある場合も存在するのだ。実害を与えず、異常とまでは言えない個人差――ノーマル・バリエーションだ。

 術前に行ったファンクショナルMRIでの脳の機能マッピングデータはあるが、ナビが使えない以上、手術中にどの領域が重要かを正確に知ることができない。まして、デビットの脳機能の価値は〝創造力〟にある。それは、定性化、定量化に最もなじまない。

 そもそもファンクショナルMRIで捉えられる〝重要領域〟――運動中枢、言語中枢、視覚中枢、感覚中枢などの単純な検査では、〝創造力〟は確認しようがない。より高次の脳機能はいまだ研究途上の分野だ。これまで非重要領域とされていた場所こそが〝創造力〟の源泉になっている可能性すらある。

 デイビッドの脳はすべてが重要領域といっていいだろう。

 今回のように術野が狭く深い場合、非重要領域を切り取って術野を確保することが稀にある。だが、この脳にはどこにもハサミを入れられない……。

 デイビッドが誰にともなくつぶやく。

「はいはい、そういうことね……そんなありふれた技じゃ僕は騙せないよ……おっと、トラップか……そこを踏んだら警告がいくわけね……それなら、こっちから……おや、なかなかやるじゃん……おい、お前、チャンか? そんな無駄な技、他の奴が使ったの見たことないぞ……」

 伊藤が私に近づいてささやいた。

「本当に手術をして大丈夫だと思うか……? 機能分布が常人と明らかに違う。ありきたりの脳機能マッピングでは捕捉できない高次元の働きがあっちこっちに分散しているはずだ……」

 同じ心配をしている。

 私だって迷う。

 だが、許された条件下で全力を尽くす他にない。デイビッドがテロリストを撃退できれば、少しは有利な環境を作れるはずなのだが……。

「もう少し待ってみよう。事態が改善される希望はある」そして、デイビッドに聞いた。「デイビッド、テロリストを追い出すことができそうかい?」

 デイビッドはキーボード上を舞う指先を止めることもなく答えた。病院のシステムを読み、テロリストのハッキングを痕跡を探し出し、対策を練り、実行し、なおかつ私と会話している。

「それをしてるんだけど、ちょっと準備が必要なんだ。追い出す時には瞬時に。しかも、戻って来られないようにしないとね。それも、こっちが裏で動いてることを知られないように。ルーターのブロックの方法を書き換えて……多分こうやって破ろうとしてくるから……こっちに誘い込んで……相手がチャンなら、僕の勝ちに決まってるし……」

 戦っているのだ。戦場は、電子回路の最前線――サイバー・フロントラインだ。

「チャンって……?」

「チャン・ウー。中国のハッカー。でも、腕は大したことはない。中国政府が大げさに宣伝してるだけ。13億人も住んでるのに導師(グル)と呼ばれるようなスーパーハッカーが一人もいないんじゃ、格好がつかないからさ。実際は、アメリカとかから実力者を露骨にリクルートしてる。バブルが弾けた今はともかく、ちょっと前なら金も女もいくらでも出せたからね……」

 だがその相手に、こうして病院を乗っ取られている。

「ハッカーって、相手が誰だか分かるものなのか?」

「トップなら当然。どれだけ気をつけていても、プログラムには〝クセ〟が出るから。指紋みたいなもの――というより、DNAかな」

「だが、何千人もいるんだろう、ハッカーって……」

 デイビッドはクスッと笑った。

「何万か、何十万か――幼稚なスクリプト・キディまで含めたらどれだけいるのか、僕にだって見当もつかない。野球選手だって草野球まで含めたら、もっとたくさんいるんじゃない? でも、トップのメジャーリーガーはひとつまみでしょう? しかも、その人たちはバットを構えただけで誰だか分かるじゃない」

「チャンは、その一人?」

「トップグループに入りたがってる一人、かな」その間も、デイビッドはキーボードを叩き続けている。不意に口調が変わった。「あれ……? これ、変だぞ……くっそ、チャンに化けてたのか……ってことは……ち、エルンストか! 危うく騙されるところだった! お前が相手なら、打つ手はこっちだな……」

 デイビッドの目の色が変わった。

 邪魔はしたくなかったが、聞かずにはいかなかった。

「エルンストって?」

「エルンスト・ロパトコニフ、エストニアのハッカーだよ。エストニアのタリンには旧ソ連のサイバネティクス研究所があってさ、伝統的にITには強いんだ。だけど、エルンストは凶悪だよ。金になるなら、どんな相手にも加担する。チェチェンのマフィアがあいつを利用したくせにギャラを出し渋ったことがあったんだけど、数ヶ月もしないうちに銀行から資金を抜かれて組織が潰れた。マフィアでも手が出せないっていう凶悪さで、ハッカー仲間だって誰もかかわり合いたくない奴だ。他人の手口をまねるのがやたらに巧い、変幻自在の中指野郎。あいつの身代わりにされてFBIに追われるようになった連中も少なくない。ま、そういう情報が流れてるってことは、経歴は全部デタラメかもしれないけど。でも、〝エルンスト〟と呼ばれてるハッカーが実在することは間違いないよ。しばらく姿を現さなかったけど……また誰かに雇われたのかな……?」

 なんだか、とてつもない世界が広がっているようだ。返す言葉もなかった。

 いつの間にか、迫田が私の背後に来ていた。デイビッドの集中力を乱さないように遠慮してか、耳元でささやく。

「どうなんだ? 病院を解放できそうなのか?」

 目の前の〝天才〟がやっていることを、私に解説できるはずはない。サイバーセキュリティーチームを束ねている迫田の方が本職のはずだ。

 だがその小さな声は、デイビッドの耳に入ったらしい。

 デイビッドが指を動かし続けながら言った。

「ねえ、外と連絡が取れる? 病院の様子をチェックしていて欲しいんだけど」

 いきなり言われた迫田が驚いたように答える。

「ああ、できるが……なぜ?」

「もうすぐ準備が終わるから。〝敵〟が侵入した〝穴〟を塞いで、中の異物の機能を一気に止める。また侵入しようとしてきたら、そのルートを使って逆に攻撃を仕掛ける。ハードディスクを黒焦げにしてやる。あ、これは物の例えね。でも、ハードは二度と使えなくなる。で、僕が病院を取り返したら、それを確認して欲しいわけ」

「分かった。すぐに部下に連絡する」

 迫田は休憩コーナーに向かった。オペ室のこちら側は、やはり電波の入りが悪いようだ。

 デイビッドが言う。

「これでルータを遮断できる……あれ? おかしいな……接続を切ったのに……まだ中にいるのか……?」

 ハッカーの出入り口を塞いでも、まだハッキングされ続けているということか?

「追い出せないのか?」

「多分、病院に侵入したメンバーが、僕と同じように直接USBポートを使ってるね。これだけでかい病院だから、使わなくなったまま放置されてる端末がどこかにあるだろうから。使わないから忘れがちだけど、メインのプログラムにダイレクトに繋がってる。そんな端末は侵入口として狙われやすいんだ。こいつはそこから無線で操作してるんだと思う。あ、だから携帯の電波は無効化しなかったのか!」と、デイビッドが小さな声を上げる。「あ、気づかれた……」

 まずい。〝敵〟がデイビッドの侵入を察知したらしい。

 私は尋ねた。

「間に合うのか?」

 デイビッドの指がまた激しく動き始める。

「何が?」

「相手を追い出す前に気付かれたら、まずいんじゃないのか?」

「違う。気付かれないと、まずいの」

「え?」

「罠は仕掛け終えてるから。僕のプログラムを無効化しようとしてあっちがトラップを踏めば、隠れたプログラムが作動する。こうやって、戦っているふりをしながらこっちに誘い込んで……そうそう、いいよいいよ。もう一歩踏み込んでこいよ……おや? お前、エルンストじゃないよな……それじゃ単細胞すぎるだろう……そうか、あいつの役目はシステムを奪うところまでか……」

 互いにプログラムを書き換えながら、鍔迫り合いを繰り返しているらしい。まるで、目新しいおもちゃを前にした子供のような笑顔を浮かべている。

 指先はトラックパッドを操作したりキーボードを打ち込んだり、めまぐるしく動いている。それにつれて、画面の文字も上下に行ったり来たりしている。

 わざわざ正体を明かして、相手をからかっているようだ。

「遊んでいるのか?」

「違うよ。この相手、エルンストじゃないけどそこそこ手強い。ガードが固いんだ。自分が使ってる端末を遮断されないように、あっちこっちのプログラムを書き換えてる。って言っても、マニュアル通りの展開ばかりでアイデアはなさそうだけどね。だからちょっと、熱くなってほしいのさ。ムキになってこっちに向かってくれば、マニュアルを忘れる。〝背中〟が手薄になる。僕のトラップの見た目に騙されて、本質を見抜けなくなる。それが狙い……お、来た来た!」そしてデイビッドは、MACを操作する指を止めた。「フィッシュ・オン! 今、〝敵〟が引っかかった。病院のドアとか、動かせるようになったはずだよ。僕が見張っていれば、もう戻ってこられない」

 私は、ソファーの近くでこちらの様子を伺っていた迫田にうなずいて見せた。

「確かめてくれ!」

 迫田の通話が聞こえる。

「迫田だ。病院のシステムが解放されたはずだ。確認してくれ……そうか、ドアが開くんだな⁉ では、まずマスコミのカメラを避けて警官隊を突入させろ。テロリストを探すんだ。おそらく少人数の部隊だ。手術室の電線が切断されているから、電気工事の業者ようなものに偽装しているはずだ……それは大丈夫。再度侵入されることはない……パニックを起こさないように注意しながら患者たちを外に誘導して……は? 誰がって、デイビッドだよ。……そうだ。手術は進行している。今も、頭に大きな穴が開いている。……それでも彼なら出来るんだ。お前たちは、そんな天才から学んでいたんだよ……」

 私はデイビッドを見た。

 デイビッドはにやりと笑い返し、キーボードから上げた手で親指を立てた。

「これで、生き残れる確率が上がったんでしょう?」

 とてつもない青年だ。

 マスクに隠れて見えはしなかっただろうが、私も笑いかえさずにはいられなかった。

「君は自分の運命を、自ら切り開いたんだ。私たちも、すべてを注ぎ込んで君を助ける」

 伊藤が言った。

「もうバッテリーの心配はない。照明を付けてくれ」

 スタッフが一斉に動き始める。天井のライトが灯され、ブレインサイトに光が溢れた。暗がりに慣れた目には、部屋が爆発したようにすら感じた。

 ひどく眩しい。

 だが、解放された気分だ。病院も間もなく解放されるだろう。デイビッドも、きっと助けられる。

 と、背後から誰かがつぶやく声がした。

「そんなの……いやよ……」私は振りかえった。ナース長だ。「そんなこと……させない……」

 ナース長は、なぜか両手に除細動器のパドルを持っていた。デイビッドが心室細動を起こした時に使った除細動器が、まだ近くに置いてあったのだ。

 だが、なぜ? 何をしようとしている?

 考える間もなかった。

 ナース長は、いきなり私に体当たりしてきた。不意をつかれた私は、よろけて手術台の縁に手をついた。

 まずい! デイビッドを狙っている!

 ナース長の狙いは、デイビッド本人ではなかった。蓋が開いたMACの、リンゴマークの両脇にパドルを当てる。そのまま押して、蓋を閉じる。

 右手がMACに挟まったデイビッドが叫ぶ。

「なに⁉」

 二人を引き離さなければ!

 私が体勢を立て直した瞬間、ナース長はパドルのスイッチを入れていた。電気ショックがMACを直撃する。キーボードの奥で、火花が散るのが見えた。

 私の身体にも衝撃が走った。デイビッドの全身が、固定された頭を支点に跳ね上がる。

 ショックが大きい!

 電圧を上げたのか⁉

 私はナース長の身体を突き飛ばし、デイビッドに寄り添った。

「大丈夫か⁉」

 デイビッドは私に視線を向けた。

「今の……なに……? 息が……苦しいけど……」

 伊藤が素早く心臓マッサージを始めた。体が横向きになっているが、背中は背当てで支えられている。だが、これほど不自然な体勢では、充分な力が入るはずがない。

 伊藤がマッサージを試みながらスタッフに命じる。

「バイタルチェック! ラリンゲルマスクの準備も!」呼吸器系に異常が出た場合に備えたのだ。そして、言った。「迫田さん! ナース長を捕まえて!」

 ラリンゲルマスクは気管挿管をすることなく、気道を確保できる器具だ。マスク型のクッションのような部分と、チューブの部分からできている。シリコン性のマスクを口の中に入れて喉頭蓋谷を覆い、カフを膨らませることにより気管の入り口をシールする。するとチューブ部分が空気の通り道になる。

 気管挿管に比べて挿入が比較的簡単で、挿入の際の循環変動が少ない。覚醒下手術では患者の急変に備えてあらかじめ準備される。

 迫田は伊藤に言われる前に、ナース長に飛びかかろうとしていた。

 ナース長は、無表情にデイビッドを見つめている。パドルを握った両手は、だらんと垂れ下がっていた。

 迫田もそれ以上の危険を感じなかったのか、パドルを奪い取って両肩を掴んだ。

「あんた、なんでこんなことを……?」

 ナース長の視線は虚空を泳いでいた。

「お金がいるのよ……お金がなくちゃ、私……捨てられちゃう……」

 迫田はナース長を休憩コーナーに導いていった。

「話はあっちで聞こう」

 ナース長は逆らわなかった。

 心臓マッサージを続ける伊藤にデイビッドが言う。

「痛いよ……大丈夫……息、出来るようになったかも……」

 伊藤はマッサージをやめた。

「すまない」そしてスタッフに言った。「バイタルは⁉」

 麻酔医の田辺が機器のモニターをチェックして答える。

「ああ……大丈夫なようですね」

「引き続き、密な観察を」

「了解しました」

 またしても危機をかわせたようだ。

 まだ経過を見る必要はあるが、ある程度の会話ができて、痛みを感じ、自発呼吸があるのだから、ダメージは大きくはない。しかし、デイビッドのように脳機能の急激な悪化が懸念される場合は、物理的な衝撃がどんな危険を引き起こすか分からない。

 相変わらず崖っぷちににじり寄っているが、まだ足を踏み外してはいないということか……。

 私はデイビッドに言った。

「大丈夫だ。君はきっと生き延びられる」

 デイビッドは心細そうな声を漏らした。

「死ぬかもしれない……」

「弱気になるな」

 デイビッドの手は、MACの蓋を押し上げていた。

「そうじゃない……MACが死んだんだ……こいつがなければ、戦えない……僕は、無力だ……また、病院が占拠されちゃう……」

 ディスプレイには、何の文字もない。真っ黒だった。

 除細動器から放たれた電圧が、電子回路を焼き切ったようだ。火花が散ったときだろう。

 私は言った。

「壁のPCを直接操作できないか?」

 デイビッドが苦しげな声を絞り出す。

「僕が抑えてなければ、向こうもすぐに対抗策を打ってくる……同じ手は効かないし……間に合わないと思う……」

「だが、試してみないと――」

「まだ、頭がくらくらするんだ……こんなんじゃ、無理……」

 伊藤が苦渋を滲ませてつぶやいた。

「電気を消せ……やはりバッテリーは無駄にできないようだ……」

 ブレインサイトは、再び暗がりに呑み込まれた。

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