沈黙に積雪

野森ちえこ

灰色の午後の邂逅

 つむじの少しまえあたりに、ひたりと冷たいものがふれた。

 すぐにまたひとつ、ふたつ、みっつ――

 雨にしては軽く、冷たい。

 首を動かすのもおっくうで、私は膝のうえに視線を落としたままでいた。

 やがて白い結晶がちらちらと視界に映りこんでくる。

 ――雪だ。

 まあ、そうだろうとは思っていたが。


 私の膝に頭をのせている人と雪、どちらが冷たいだろう。

 わからないけれど、このまま私たちを覆い隠すくらい雪が降り積もったら、冷凍保存されたりしないだろうか。

 天然のコールドスリープとかどうだろう。

 ――どうだろうもなにもない。

 そんなSFみたいなこと起こるわけがない。

 だいたい、私が膝まくらをしているこの人はもう死んでいる。


 ずるいな、と思う。

 いつもいつも、間の悪い私はとり残される。


 ビルの屋上で死ぬといったら飛びおりではないのか。すくなくとも私はそのつもりだった。

 それがどうだ。


 飛びおりるのに適した建物――というのもどうかと思うが、高さは十分か、クッションになり得るものはないか、人どおりはどれくらいあるか、屋上など最上階付近まで容易に立ち入れるか――というような、万が一にも命をとりとめないように、そして通行人を巻きこまないようにという条件をすべて満たす建物はそれほど多くない。

 あっちこっち探してようやくみつけた場所だったのに。まさかの先客がいた。


 最初は寝ているのかと思った。

 藤色のハーフコート、肩にかかる黒髪。ジーンズにぴたりと包まれた両足を投げだして、フェンスにもたれるように座っている女の子。そのまわりには、からのワインボトルが二、いや三本か。それからやっぱりからの薬シートが一枚。あと、蓋があいたままのプラスチックのちいさなピルケース。これもからっぽだった。


 邪魔だなと思って、しかたないから場所を変えようかと思って、でもまた探すのも面倒くさいし、さっさと終わらせたいし、まあ寝てるならべつにいいかなと結論づけたのだけど。

 風が吹いたわけでもないのに、なんの拍子にか女の子の身体がごろりと横に倒れた。

 ゴンとなんだかにぶい音がして、それでも起きる気配がない。

 私はようやく、おかしいと思いはじめた。


 厚い雲に覆われた灰色の午後。

 薄汚れた雑居ビルの屋上。

 時間も場所も、女の子がひとりで酒盛りするにはふさわしくないような気がする。

 それよりなにより、静かすぎた。


 そろそろと、なぜだか足音をしのばせて近づいた。

 予感はあった。

 だから悲鳴をあげるようなことはなかった。


 薄くひらいたままの目とくちびる。

 二十歳前後か。私よりいくらか若そうに見える女の子の顔はかすかにほほ笑んでいるようで、しかしそこにはまぎれもない死がはりついていた。

 転がっているワインボトル。からの薬シートとピルケース。自殺だろうか。


 ――ずるい。

 最初に出てきたのが、驚きでも恐怖でもなくやっかみだなんて、さすがにどうなのかと自分でもあきれてしまうけれど。

 そう思わずにはいられなかった。


『死にたい』という願望から『死のう』という目的に変わったのは十日ほどまえだったか。それから身辺整理とか、いろんなことをやっとのことで片づけてここまできたというのに。

 こんなオチ、文句のひとつもつけたくなる。

 なにごとにおいてもトロくて空気が読めなくて、いつもほんとうに間が悪い私は、死ぬこともまともにできないのだろうか。


 ――警察、呼んだほうがいいのかな。


 呼ぶべきなんだろう。でもどうせもう死んでいるのだし、私も自分の目的をはたせばいいのではないかとも思う。私が飛びおりれば、きっとこの彼女も発見されるだろうし。

 そう思いながら――なんでだろう。私は地面に転がっている女の子の頭を膝にのせていた。

 まるでほほ笑んでいるように見えたから。

 死ねたことにホッとしているように見えたから。

 ここにくるまで、いったいどんな人生を歩いてきたのだろう。

 彼女もまた、死に救いをもとめてしまうような人生だったのだろうか。

 そう思ったら、よかったね――と、ちょっと祝福したくなったのだ。

 やっぱりずるいなと、やっかみまじりではあったけれど。


 そうして、雪が降ってきた。


 私の膝のうえで沈黙している彼女の、藤色のコートには白い結晶が積もりはじめている。


 雪には沈黙がよく似合う。

 ぼんやりと、そんな感想が浮かんできた。


 ❅


 私は間が悪い。

 なにごとにおいてもトロくて空気が読めなくて、生きているだけで人に迷惑をかける。

 ずっとそういわれてきたし、自分でもそう思う。

 だけどあの日、私は結局警察に通報した。

 常識とか良心とかではなく、単純に凍えてしまったのだ。

 降り積もる雪に凍死もいいか――なんて思ったのだけど、寒くて痛くて、実行するにはそれこそお酒や睡眠薬の力が必要だと、そう気がついたときにはもう全身の関節がこわばっていて、立ちあがることもできなくなっていた。


 まともに生きられない私は、まともに死ぬこともできなかった。

 自殺を計画実行するには、想像以上におおきなパワーをつかう。

 あの日、私のそれは先客の女の子と白く積もる雪に吸いとられてしまった。

 今度それだけのエネルギーがたまるまでどれくらいかかるだろう。

 そのときまで死ぬ意志を持ちつづけていられたら私の勝ちだ。

 いや、べつに勝負しているわけではないのだけれど。


 この一件で出会ったおせっかいな刑事とその奥さん、さらにはふたりの息子さんと娘さんまでもが毎日なにかしらメッセージを送ってくる。

 お昼なにたべたとか、先生うざいとか、入れかわり立ちかわりどうでもいいことばかり。

 今日もまた、何度目かの通知音が鳴った。

 高校生の娘さんから『いいことありそう!!』というメッセージと共に届いたのは、青い空に浮かぶあざやかな虹色の雲の写真。彩雲というやつだ。


 彼らはきっと、私を生かそうとしている。

 いくらトロくてもそれくらいわかる。

 変な家族だ。

 変な家族だけど。

 どうやら私は、まだしばらく死ねそうにない。



     (了)


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沈黙に積雪 野森ちえこ @nono_chie

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