第9話 旅立ちの朝

〈一〉


「加那祢と蒼紫を頼む」


 勇ましくも丁重な男の座礼を前に僧侶の心中はこうだ。

 ――これは参った。


 旅立ちの前夜、皆にその旨とこれまでの厚意に対する礼を伝えようとした僧侶であったのだが、

「旅に出る」と僧侶にだけ打ち明けた男が、目の前で頭を垂らす伊佐美である。


「復讐を果たすのか」

「ああ」


 おおよそ検討はついていた。あの日の出来事と決別し、このまま家族三人で平穏な暮らしを送る事は特にこういった伊佐美の様な男には無理であろう。


「憎しみは更なる憎しみを生む」


 僧侶が諭すと

「いや、違う」

 伊佐美は否定してみせた。


「憎しみの連鎖はこれで終わるんだよ。あいつに執着するものは何もねぇ。唯一血の分けた姉弟きょうだい、菊江は死んだ」


 憎しみが生まれるわけを執着と捉えたか。

「ならば」と僧侶は伊佐美を冷視する。


「もし、お前が死んだら妹弟きょうだいが報復すると思わないか」

「俺は死なねぇ!」


 伊佐美の熱き眼光が僧侶を睨み返す。


「その為に俺は二年、修行にでる。一年じゃぁ足りねぇ。石の上にも三年じゃぁ長すぎる。俺は二年だ。二年で恐れをなくす!」


 僧侶は伊佐美が生半可な気持ちで口にしていないと、傾聴した。


「俺はようやく気づいたんだ。あいつを恐れるわけが。あいつには恐れがねぇ。何かを失う恐怖も己の身が滅ぶ恐怖も」


 地についた手が拳となり、強く震えている。


「俺には加那祢や蒼紫、失うのが惜しい存在がある。あいつらを守る為にも生に執着する必要がある。だから死を恐れるし、俺から大切なものを奪おうとするあいつが怖ぇんだ」


 伊佐美が紡ぐ言葉一つ一つに僧侶は驚いた。目覚めてから今日こんにちまで幾度も己に問いただしたのだろう。そして今、己の確かな答えに到達したのだ。


「俺はこうした執着をなくさねぇと大切なもんを守れねぇ気がするんだ」


 僧侶は不思議と口が緩んだ。

 感情的で行動っ早い男ではあるが、それなりに考える頭を持っている。学を磨けばさらに、秀才となろう。


「行く当てはあるのか」

「ない!」


 即答であった。しかし、男の熱き眼は揺るぎない。


「だから頼みがある」


 伊佐美は今一度、居住まいを正した。そして、地に額を押し付ける。


「お前の師を教えてくれ」


 一瞬、僧侶の片眉が上がる。


「なぜ」

 と落ち着いた声ではあるが、少し怒気のこもった声色で問うた。


「お前が刀を構えた時、とてつもない殺気が体に纏わりついた。ただ、お前の殺気には温かさがあるんだ。なんていうか、礼儀…敵に対して尊敬の念を抱く様な」


 伊佐美は己の知る言葉で精一杯に伝えた。


「俺はお前のようになりたい」


 男の熱き眼差しにメラメラと炎の揺らめきが見えた。僧侶はいよいよ伊佐美の覚悟を真摯に受け止めなければならないと思った。


「私の師は――」



〈二〉



 静寂の夜。僧侶の声はそよ風に乗って、伊佐美の耳に到達した。


「死んだ」


 なんとも虚しい響きを帯びている。

 伊佐美は眉を下げ、

「そうか…」と一言溢した。


 希望の灯火が緩やかに消えかけた瞬間、

「だが、剣の道を極めたいというなら、ある一門を紹介しよう」


 僧侶の心は伊佐美に対する仁心じんしんで膨れていた。


「私の師も、私自身もそこで剣を学んだ」

「どこだ…?」

 伊佐美はごくりと唾を飲んだ。

 僧侶は静かな声で言った。


「柳生」


 その一門の名を知らぬものは、よほど剣に縁のないものと言えよう。

 柳生家とは柳生新陰流の流祖、柳生石舟斎を筆頭に剣豪、兵法家として名を馳せる一族である。その実力は徳川将軍家の兵法指南役を務めるほどに認められているそうな。


 伊佐美は微かに肝を摘まれた気がした。それほどにその名は高みで尊いのだ。


「こうして私が紹介状を書いたとて、即入門という運びにはならないと思いなさい」


 翌朝、まだ日が昇らないうちに伊佐美は身支度を済ませ、旅立とうとした。無論、加那祢や蒼紫には黙って行くつもりだ。


 僧侶は紹介文を書き留めたふみを筒に入れ、伊佐美に授けた。伊佐美が筒を手に取ろうとすると僧侶の握力が強まる。


「あちらは兵法家、剣術家としてのやり方でお前を試す」


 覚悟を問う為の力比べの様だ。

 僧侶は伊佐美の双眸に冷酷かつ心底には温かさの宿った眼差しを向ける。


「覚悟は良いか」

「ああ」


 伊佐美は真っ直ぐに僧侶の眼を見て応えた。


「二年か。こんなにも長く同じ地にとどまるのは初めてだ」


 僧侶は口元に微笑を添えていった。伊佐美の願いを聞き受けたのだ。


「恩に着る」


 伊佐美は深く頭を下げた。

 去っていく男の背に僧侶は合掌する。



〈三〉



「え!お兄ちゃん私たちに黙って旅に出た!?」


 伊佐美が旅立ったのち、加那祢や蒼紫が目覚め始めた。兄の姿がない事を確かめた二人に僧侶は

「武者修行に出たそうな」

 とただ一言伝えた。


 突然の事に加那祢が驚愕するのも無理はない。


「お兄ちゃん、私たちを置いて勝手すぎる!」

 と兄の身勝手さを責め立てるかと思えば

「まだ、傷も十分に癒えてないのに…大丈夫かな…」

 と憂いたり、加那祢の心は騒がしかった。それほど彼女にとって兄、伊佐美は大切なのだ。


 そんな中、蒼紫だけは妙に落ち着き払った顔をしていた。歳に似合わないかんばせに僧侶の視線も自然と向く。


 その晩の事である――。


 僧侶は昨夜と同じように男に平伏された。


「姉ちゃんを頼む!」


 兄弟とはよく似るものだ、と納得せざる終えない。


「伊佐美を追うのか」

 と僧侶が聞くと、蒼紫は首を横に振った。


「俺は京へ行く」


 想定外の応えに僧侶は僅かに眉を動かした。

 なぜ、京へ向かうのか、僧侶が聞こうとすると蒼紫は自ずから語った。


「実は俺、あの日霧丸と話したんだ。神社へ向かう途中に霧丸と鉢合わせになって…」


 蒼紫はあの日の出来事を思い出すかのように空を仰いだ。


 兄、伊佐美が駆けていったのち蒼紫も直ぐに追うつもりだったが、取り巻きから上手いこと逃れられず、遅れてしまったようだ。


 地を激しく打ち付ける雨に濡れながら神社へ向かっていた。

 すると、向かいから人がやってくる。蒼紫が目を細め、凝視するとそれは霧丸であった。


 途端にとてつもない緊張が走る。

 すると霧丸は蒼紫の傍を何ともなしに通り過ぎた。しかし、その去り際、

『俺は京に行く。もし伊佐美が生きてたら伝えておいてね』

 と言伝たそうな。


「兄ちゃんが二年間、修行に費やす間に俺は先に京に行って、あいつの監視をしておく」


 蒼紫の瞳も伊佐美とよく似た情熱を帯びていた。


「俺に霧丸を倒せるほどの力はない。勇気もない」


 彼にとってそれは最大の引け目であった。兄、伊佐美の様な頑丈な肉体もなく、精神においても極力霧丸からは距離を置きたいと思っている。


「けど、兄ちゃんなら出来る」


 蒼紫は伊佐美に託したのだ。


「だから坊さん。姉ちゃんを頼む」


 僧侶はもはや止める余地はないとみた。


「承知した」


 僧侶の快諾に蒼紫はパッと顔を綻ばせ、

「ありがとう!」


 その顔は十五の歳らしく幼げであった。

 こうしてまた、男が一人旅立った。


「蒼紫まで!?」


 加那祢の驚愕も無理はない。

 二日連続で兄弟が故郷に自分を置いて旅立ったのだ。


「いくらお父ちゃんの仇を討ちたいからって勝手すぎるよ」


 加那祢自身も父の死を素直に受け止めたわけではない。腹の底では霧丸を許さない気持ちで怒りの炎が燃え上がっているのだ。


 しかし、復讐したところで父は帰ってこない。ならば、家族きょうだいで新たな一歩を踏み出そうとした矢先にこの様な始末とは――


「もうこうなったら私も行く!」


 僧侶は娘の言葉にたいして驚きもしなかった。何となしにそう口にすると思っていたのだ。

 しかし、僧侶はこれまでの様に快く受け止める事が出来なかった。大合戦が終わり、敗北した西軍では主人を失った武士、つまり牢人たちが明日の暮らしの為に窃盗、強請に躊躇ちゅうちょないのである。

 各国でその傾向があるとすれば、娘一人旅がどれほど危険なことか。


「加那祢、勢いだけでは」

「勢いだけじゃないの!」


 加那祢の心からの叫びに僧侶は目を丸くした。何か思う事があるのだろう、目を見張ると、娘は胸の内を語った。


「私も霧ちゃんのことは許せない。けど、仇なんて取らなくていい」

 それに、と加那祢は伏目になる。


「お兄ちゃんは優しいから。きっと修行して強くなっても霧ちゃんを殺せない」


 加那祢の心に伊佐美は心優しき兄としてあり続けている。


「私はお兄ちゃん、蒼紫、それから霧ちゃんと菖蒲ちゃん、みんなを連れて帰る」


 僧侶は娘の純情な思いを憂いた。一度、憎しみを持った者同士が和解するにはそれなりの示しが必要になる。伊佐美が霧丸に望む示しが死のみである事を娘は理解していない。


 しかし、僧侶は不思議と娘の健気な思いを聞き受けたい様な気がした。


「だからお坊さん」

 と娘の艶やかな煌めきを放った瞳が拍車をかける。


「修行のお供に私を連れて行って!」



〈三〉



 木漏れ日差す山道にて、旅装束を纏った娘は連れがある事を忘れるほどに活力溢れる歩行ぷりである。


「お坊さーん!今日中に山越えましょーう!」


 娘は自分より後を歩く僧侶に手を振った。坂の途中で加那祢の溌剌とした声を聞いた僧侶は応える様に微笑する。


「その歩調ならば行けるであろう」

「うん!全然体力は余裕ある!」

「そうか」


 加那祢は僧侶に微笑し、進むべき道へ踵を返した。背にある故郷を振り返ることはない。次に故郷へ帰る時は共に故郷くにで育た兄弟、友人を連れているであろう。


 奈良の南下に位置するこの地は京へ向かう為に奈良、中心部を超えなければならない。

 ふと、僧侶は口にした。

「一つ、京へ行く際に寄りたいところがあります」


 加那祢は首を傾げ

「どちらへ?」と伺う。


円六寺えんろくじに…私が育った寺院です」




「うん!行こう!」


 加那祢はこの旅路には寄り道も必要だと考えている。17年間、同じ地で生きてきた娘には別の地へ足を運ぶ事が喜ばしくて堪らないのだ。


 一人で旅をするには心細いものの、こうして心強く、頼りになる僧侶が旅路にお供してくれる。

 しばらくの付き合いになるであろう。そこで、ふと加那祢は思った。


「私、お坊さんのお名前知らないや」


 僧侶は不思議にも思わなかった。隠していたわけではないが、初めから『お坊さん』と呼ばれていたのだから対して気になりもしなかった。


「今更だけどお名前なんて言うの?」


 僧侶は娘の問いかける丸い瞳に

尚実なおざねだ」


「なおざね…さん、ね…なおざねさん…」


 加那祢はその名で呼ぶ事を口慣らす様にもごもごと復唱した。

 そうそう名を呼ばれることはない。強いて言えば老師か同じ修行僧ぐらいである。


「うん!」


 娘は得心した様に頷く。そして尚実に親しみのある笑顔を向けた。


「尚実さん、よろしくね!」


 そして娘は駆け出した。尚実は駆けていく娘の背にふと笑った。

 まるで伊佐美と蒼紫の様である。


 これから長い旅路が始まる。彼女の煌めいた瞳が目にするものは美しいものばかりではない。しかし、彼女の身に危険が及ばぬ様、己の命をかけて、家族きょうだいのもとへ連れて行こう。


 僧侶は空を仰いだ。


「伊佐美、お前が切り開く道を必然的に妹弟きょうだいは歩むのだ」


 錫杖のシャンシャンとした鈴音が山道をかけた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美坊主の旅路にて 今衣 舞衣子 @imaimai_ko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ