第8話 語れる者語れない者

〈一〉


 縁側で膝を組む父の丸い背中はひどく懐かしかった。傍に銚子ちょうしを控え、片手に徳利を乗せたその姿に、何か悲しい事でもあったのだろう、と伊佐美はその隣に腰を下ろした。


「親父」


 口にすると、これまた懐かしい響きの様に感じる。すると、侘蔵は伊佐美に目配せ、何とも悲しげに笑った。

 泣いたのか?それとも酒のせいなのか?心なしか目が赤い。


「親父、俺…」


 伊佐美は何か言おうとした。しかし、乾いた息が溢れるだけだった。頭の中は妙にボヤついており、はて何を伝えたかったか、すっかりと忘れてしまった。


 また思い出した時に言えば良い。


 そうして伊佐美は口を閉ざした。

 父と二人、肩を並べて見る月は丸く温かであった。ふと、父に目配せると何とも心地良さそうに酒を飲み、月を見ている。不思議と伊佐美の顔は柔んだ。


 すると徐に侘蔵は立ち上がる。伊佐美は上目遣いに父を見る。侘蔵の手が伊佐美の頭にぽんと置かれた。撫でるとはまた異なった愛撫を伊佐美は黙って受け止めた。骨太い大きな手は母とは異なった温かさを持っている。


 侘蔵は伊佐美に微笑んだ。その顔は悲しげで伊佐美の胸を痛くつく。

 その後、侘蔵は背を向け、歩き出す。


「親父、待ってくれ」


 長く黒い廊下を進んでいく、父の背に必死に手を伸ばす。父は息子の呼びかけに振り向くことも無く、闇に溶けていった。



〈二〉



 伊佐美が目覚めた時、それは侘蔵の葬儀を終えて二日目のことだった。

 目覚め早々、初めに見たものは書物に目を投じる僧侶であった。


「坊主」

 自分でも驚くほどのしゃがれ声であった。

 すると、僧侶は書物を閉じ、伊佐美に目配せた。


「お前の治癒力は大したものだ」

 と感嘆と安堵が混じった息をつく。


「思いの外、傷が浅かったのも幸いだ」


 伊佐美は蒲団に手を忍ばせ、脇腹に触れた。痛みは大したことなく、霧丸の手加減で命救われたと思うと返って悔しさが込み上げた。

 歯をぎりぎりと噛み締めるのも束の間、突然に

「加那祢と蒼紫は!?」

 と伊佐美は僧侶に迫った。


 僧侶は落ち着いた声で

「畑仕事をしている」


 伊佐美は力が抜けた様に倒れ込んだ。


「俺はどのくらい寝てた」

「三日だ」

「そうか」


 天井を仰ぎながら、嘆息をつく。

 自分が昏睡状態の間、妹弟は様々な思いを抱えながらも日常を怠らず、過ごしていたのだ。伊佐美は惨めに感じた。


 すると、静かな声で

「実に強い子たちだ」

 と僧侶はいった。

 今朝、家をでる際に見せた加那祢の屈託のない笑顔が彷彿ほうふつする。


「だが、心的な傷になっていることには変わりない」


 その言葉に伊佐美は父、侘蔵の死が現実であった事を痛感した。


「親父は死んだのだな」


 今しがた、見た夢で侘蔵は伊佐美から離れていった。なぜ、あの背中に追えなかったのか。なぜ、悲哀に満ちた父の顔に『すまない』『ありがとう』の言葉が出なかったのか。伊佐美の頭は父に対する思いが駆け巡っていた。


「俺は甘い!あまりにも甘すぎる!」


 意識を失い床に臥せる妹と首をとられた父を前に復讐心のみを激らせる事がなぜ出来なかった?


「親父を殺したやつに情けをかけた!」


 伊佐美の顔は涙でぐしゃぐしゃである。僧侶は男の悔恨に大人しく耳を傾けている。


「もし、あの時復讐だけを心に抱いていれば殺せたんだ!」


 ――俺はお前を兄弟だと思っていた!

 霧丸の情に訴えかけた言葉は愚鈍であったと伊佐美は思った。


「伊佐美」


 突如、僧侶が優しく名を呼んだ。その声に伊佐美は僧侶へ目配せる。すると、不思議な事に心で激しく渦巻いていたものが緩やかに、やがて静止した。

 すると僧侶は言う。


「あの時、お前はそれが正しいと思ったのだろう。過ぎた事を悔やんでも戻りはしない。過去に希望を抱くな」


 伊佐美はぎゅっと唇を噛み締める。

 以前、僧侶に問うた応えが、母が示した応えが、己の心にある黒雲こくうんを鎮めようとしてある。


「前を見ろ。霧丸がなぜお前を生かしたか。これからお前がどうあるべきか、考えるのだ」



〈三〉



 しばらくの間、二人は黙りこくった。伊佐美は天井を仰ぎ、僧侶は瞼を落とし、静寂に心を澄ませた。


 すると突然、

「坊主」と伊佐美が口を開いた。

 僧侶は瞼を持ち上げ、渇いた瞳に目をやる。


「お前は霧丸を殺す気でいただろ。なぜ、一度刀を手放し、僧侶になったお前がその考えに至った」


 伊佐美は、かつて戦地に赴いた者がのちに僧侶となり、刀を置くわけを戦でいくつもの人を殺めた、その償いであると信じていた。

 すると僧侶は遠くを見据えながら言った。


「この世には言葉で語り合う事ができる者と語る事が出来ない者がいる」


 伊佐美は僧侶の言葉を大人しく傾聴する。


「あの時、私は霧丸が後者側の人間だと判断した」


 僧侶が目にした霧丸は本能的に争いを好み、己より強き者に噛みつこうとする、全てが危うい、決して言葉では説き伏せる事が出来ない獣であった。


「刀でしか術がなかったのだ」


 そう言って口を閉ざした。

 伊佐美はその応えに納得した。


「兄ちゃん!」


 すると突然、玄関口から声が上がる。伊佐美と僧侶が目配せると、そこには頬を土で擦った蒼紫がいた。まるで霊を見た様に驚いた顔をしている。


「姉ちゃん!兄ちゃん起きた!」


 蒼紫は外に顔を出し、加那祢に呼びかけると

「えっ本当に!?」と目を丸くした加那祢が駆けてきた。


 加那祢は上半身を起こした伊佐美を認めると涙をぽろぽろと流した。


「良かった!!生きてて」


 妹弟は土汚れを気に留めず、伊佐美に抱きつく。すると伊佐美は「いてっ」と脇腹を抑えた。いくら傷が臓器に達していないとはいえ、刀が肉体を貫いた事実には変わりない。


「ごめん!兄ちゃん!」


 申し訳なさそうに眉を下げる蒼紫と心配そうに涙ぐむ加那祢に伊佐美は

「俺がお前たちを残して死ぬわけがねぇだろ」

 と歯に噛んでみせる。


 強がりを見せてしまうのが兄というものなのだろうか、と僧侶は温かな眼差しでそっと見守った。



〈四〉



 翌日、伊佐美は妹弟の心配をよそに鍬を持ち、畑仕事に投じていた。病み上がりの肉体であるのに、活力漲った様子で動き回る伊佐美を僧侶は眉一つ動かさず見ていた。


 こうして体を動かす事で、未だ頭の中に渦巻く複雑なかたまりを忘れようとしている。僧侶は伊佐美をこの様にみた。


「眠れないのか」


 夜明け前、まだ日が登らず静けさに包まれた玄関口で僧侶が身支度をしていると伊佐美が見送りにやってきた。

 伊佐美は頭を掻きながら

「いや、まぁ。寝過ぎたからなのか…それとも考え過ぎってか…否定のしようがねえ」

 と困惑した様子である。

「共に行くか」


 僧侶は伊佐美を誘う。しかし、伊佐美はまだ十分に傷が癒えてない体に良いか、と悩んだ。


 すると僧侶は

「滝浴びは傷に触るだろう」と伊佐美の心を察した。


「別の修行もある。興味があるなら着いてきなさい」


 僅かに口元を緩めるだけの笑みを見せ、僧侶は家を出る。

 伊佐美は一切の迷いなく、僧侶の後に着いて行った。


 向かう先は滝場であった。

 滝浴び以外の修行があると言ったが一体何をするのか、と伊佐美は僧侶を見張った。

 徐に僧侶は地べたにあぐらをかいた。背筋を真っ直ぐ伸ばし、両腕はあぐらをかいた足の上に両手で丸を描いている。


「座禅だ」

 と僧侶は伊佐美に同じ姿勢をとる様促した。伊佐美は素直に僧侶の向かいで座禅を組んだ。


「瞳は閉ざさず、薄らと私の手を覗き見なさい」


 伊佐美は言われた通りに半目に丸を見た。


「眠くなりそうだな」

 と笑って見せる。

 すると僧侶も静かに笑いながら

「であろう。私も初めの頃はよく警策きょうさくを受けたものだ」

 と身の上話を溢した。


 伊佐美は未だ僧侶の名を知らなければ、故郷くにもとも知らなかった。以前、この場所で聞いた応えもまともに聞いていない。


 そこで僧侶に問いかける。

「お前はなぜ僧侶になったんだ?」

「寺で育ったからだ」


 即答であった。しかし、すぐに

「正確に言えば、十二の時、僧侶に拾われた」と付け加える。


 想定外の応えに伊佐美は思わず目を開けてしまった。しかし、僧侶が薄らと瞼を持ち上げているのを認め、薄目に戻す。


「それ以前は」とさらに問い詰めると僧侶はすぐに言葉を返すことはなかった。深入りし過ぎたか、と嫌な汗が額を伝った。

しばらくして、僧侶は

「物心ついた時には山賊の一人だった」と言った。


「…すまん」


 伊佐美が謝ると僧侶は笑う。


「謝る必要はない。返って掘り返してくれてありがたい」

 と白い歯を覗かせた。

 いつの間にか、二人は互いの瞳を真っ直ぐ見つめていた。


「霧丸に宿る獣心じゅうしんは山賊の頃の私によく似ている」


 僧侶は懐かしむ様に目を細める。


「言葉で語れず、刀でしか語る方法を知らなかった」


 脳裏によぎる、霧丸と対峙した際に感じた獣の魂。

 強者を打ち負かしたい。言葉はいらない。この刀に全てが込められているのだ。語りかけてくる眼が幼き頃の自分と重なる。


「だが、環境は人を変える」


 伊佐美の目に写る僧侶は穏やかな表情をしていた。

 僧侶にとって環境の変化がどれほど絶大であったか、その顔を見ればよく伝ってくる。


「霧丸にとって俺たちと過ごした環境は悪かったのかな」

「それは違うと断言できる」


 即答であった。それほど言葉に自信がある様だ。

 僧侶の眼力の強い眼差しが伊佐美に注がれる。


「お前たち家族は温い」


 伊佐美はハッと目を見開いた。

 ただ一言、嬉しい。

 その感情が伊佐美の心を占めた。



〈六〉



 一日一日と日が過ぎていく中、僧侶が目にする家族の姿は、あの日の騒動が幻に感ぜられるほどに平穏であった。

 しかし、その輪に父、侘蔵の姿がない事、村で一人の生娘が霧丸と共に消えたという話を聞くと、やはりあの日の出来事は現実であったのだと痛感せざる終えない。


 父の死、友の裏切り。それらをまだ心が成熟とは言えないうちに経験したこの家族の行先はいかようか。僧侶は不思議と憂いていなかった。

 この家族ならば、互いに支え合い、乗り越えていく力がある。

 そう、思った僧侶はいよいよ次の旅路へでる事を決意した。




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