第7話 土砂降りの雨

〈一〉


 突如、加那祢に襲いかかった事象はあまりにも残酷であった。父の死、友の裏切り、十七の娘は止めどない悲しみの涙と怒りで身を震わせていた。


 その傍では霧丸が絶望の淵にある娘を妙に冷静沈着な面持ちで見据えていた。彼はそろそろ伊佐美がきてもおかしくないと頃合いをみた。


 果たして、社に戻った伊佐美はどのような顔を見せてくれるのか。怒り?悲しみ?そんな柔なもんじゃない。それらを含めて憎悪、嫌悪、悔恨、ありとあらゆる感情を混じえた顔を見せてほしい。


「加那祢、動かない方がいいよ。そのままで」


 霧丸は力なく項垂れた白い首筋に刃を向けていた。言葉通り、加那袮はいっさい身を揺がすことなく、迫りくる恐怖に覚悟した。


 自分の首も父と同じ様に飛ぶのだ。もう終わりにしたい。

 そう諦めかけた瞬間、加那祢の瞼に浮かんだのは

「お兄ちゃん…」

 伊佐美であった。


「じゃぁ、そろそろ」


 霧丸は刀を振り上げた。

 その刹那――

 霧丸は全身の毛が逆立った。これまでに体験したことの無いすさまじい気が迫るのを感じたのだ。


「その子から離れなさい」


 気づいた時にはそのすさまじい気が背後にあった。


 なぜ気付けなかったのか。霧丸は人より動物的本能が強く、五感が鋭かった。

 しかし、今回に限ってはどれも人並みで、背後を取られた。否。常時通り、鋭く全てを捉えていた。

 聴覚は境内を囲う雑木林の葉が互いに擦れあう音を捉えていた。嗅覚も血の匂いとカビついた木材、天井に染みる鼠の尿いばりさえ捉えていた。


 霧丸は猫のように軽やかに飛躍し、距離をとる。己の身体が一部分も欠けていない事を確かめ、初めて眼に浮かんだ、己の屍に笑った。


 一方、僧侶は侘蔵の亡骸、泣き崩れる娘から全てを察した。


 加那袮の縮こまる肩に手をかけ、

「すまない」と一言詫びた。


 加那袮は徐に首を振る。こうして駆けつけてくれた事でさえ救いであった。

 娘の虚な双眸は救いを求める眼差しであった。ふと、加那祢の頭が僧侶の胸になだれる。心身に堪えたのであろう。


 僧侶は気を失った加那祢をそっと床に寝かせ、侘蔵に合掌した。

 そして、この場に似つかわしくない好奇と殺気を放つ霧丸に向かって

「表に出なさい」

 と促した。



〈ニ〉



「へぇ、仕込み刀なんだ」


 霧丸は嬉々として言った。対峙する僧侶が錫杖しゃくじょうを片手に説法でも説くかと思えば、それは刀に化ける錫杖であった。


 霧丸は言葉で説かれるよりそちらの方が断然、解しやすいと言った調子である。


「ところでお坊さんって人殺していいの?地獄に落ちちゃうんじゃないの?」


 まるで人の心に疎く無遠慮な子供の言い草で僧侶はフッと笑った。

 僧侶は徐に双眸を閉ざした。


 殺生は仏の教えに反している。

 しかし、と僧侶は瞼を持ち上げ、己の足を見た。

 幾つもの骸が血海の底から、うじゃうじゃと己の足に絡みついてるではないか。


 僧侶は今一度、笑う。


「私の地獄道行きは、とうの昔に決まっている」

「…へぇ」


 霧丸の好奇を示す嘆息を最後に男達は静寂に身を置いた。



〈三〉



 師のない霧丸の構えは隙もあれば守りも堅い。剣の教えを受けた者が対峙すれば、それを気味悪がり、どうも遣り難いと執拗に様子を伺うだろう。ただ、そうしている間に切られていたりする。


 己の利点をある程度噛み締めている霧丸ではあったが初めて感ずる強者の風格に多少、臆してる己の心に気づいた。

 しかし、気付けたことが吉と出る。返って獣の心を煽ったのだ。


 互いに睨みを効かす中、刻一刻と時は過ぎている。すると、静寂に男のけたたましい声が響いた。


「霧丸!!!」


 伊佐美であった。ようやく現れた伊佐美に霧丸は

「伊佐美〜、遅いよ」

 と人懐っこい笑いを浮かべる。

 その顔は皮肉と捉えることもできよう。


 伊佐美は霧丸と僧侶が対峙してる状況から侘蔵と加那袮の安否を優先した。


「伊佐美」

「なんだ、坊主」


 傍を過ぎていく伊佐美に僧侶は目配せた。


「気を保て」


 伊佐美はその一言で察した。これから己に襲いかかる絶望に覚悟を決め、ああ、と一言溢し、社へ駆けていく。



〈四〉




 どちらの剣捌けんさばきが優位か。無論、剣の教えを受けた僧侶であろう。案の定、隙を見遣り、迫り来る僧侶の刀に霧丸は後退していくばかりであった。所詮は野良猫との戯れなのだ。

 しかし、野良猫の獲物を逃さんとする図太さを侮ってはいけない。霧丸は愉しげに八重歯を覗かせ、飛躍する。右へ左へ煽り立てる。僧侶の目に迷いをもたらそうとする策であろうか。

 しかし、僧侶はじっと正面を見据えたまま隙のない構えを保っていた。僧侶の目は十分に霧丸を捉えていた。


 ある程度恒常性を持たせた後、霧丸は突然に躍動を切り替え、僧侶の背後へ飛んだ。無論、僧侶の視野からは霧丸が消えた。

 霧丸は空中に浮く間、隙のある坊主頭に一刀入れてやろうと刀を振り上げる。と同時に僧侶のすさまじい気迫を持った眼が霧丸を捉えた。


 霧丸は刀を振り上げる事が出来なかった。この時、霧丸は自身が僧侶より劣る種であると感じ得たのだ。身軽に飛躍する猫こそ、最強であろうと信ずる心が砕ける瞬間であった。

 真の最強とは、動じる事なく、その場にずっしりと身構える、この男の眼に宿る虎なのだ。


 霧丸が地に足をつけた時、僧侶の一刀が霧丸の胸を裂いた。


「ありゃ」

 と間抜けな声を溢し、己の胸に一直線に浮かび上がる赤い線をなぞる。指先に伝う生血を舌で拭うと、まるで生気が戻った様に大口を開けて笑った。


 ――激る激る。己を打ち負かす存在が目の前にあるとは!


 悦とも狂いとも言える笑い声が夜闇に響いた。

 すると、更なる雄叫びが重なる。


「霧丸!!!」


 伊佐美の怒気を帯びた声に霧丸の笑いがピタリと止まった。


「おい、坊主!」


 伊佐美は刀を構える僧侶に

「こいつは俺がやる」と下がる様、促した。


 僧侶は伊佐美の怒りで震える拳を眼に捉え、徐に構えを解き、後退した。


「伊佐美に俺は殺れないよ」


 霧丸は妙に明るげな口調で言った。刀を投げ捨て、余裕な面持ちで夜空を仰いでいる。鼻をひくつかせ、降雨こううの香りに眉を持ち上げた。


「なぜ言い切れる」


 伊佐美は霧丸の胸ぐらを掴み上げた。

 瞳孔の開ききった双眸に霧丸は何ともない顔で

「だって伊佐美、オレを恐れてるじゃん」

 と口にする。


 胸ぐらを掴む手が徐に震え出した。霧丸は嘲る様にニヤリと片頬を持ち上げる。

 その刹那、霧丸の頬に拳が飛んだ。



〈五〉



 降雨こううはあっという間に境内の土を色濃くし、土が跳ねる程に土砂降りとなった。


「俺はお前を兄弟だと信じていた!」


 伊佐美の怒りとも悲しみとも表せる声が雨音に混じり響いた。

 吹き飛ばされた霧丸は地に横たえ、その上では伊佐美が胸ぐらを掴んだまま、

「加那祢、蒼紫と同じ様に弟としてお前の成長を見守ってやりたいと思ったんだよ!」

 と霧丸の顔に吐き捨てた。


 父を殺され、妹を脅されても尚、未だ伊佐美の心は霧丸を切り捨てる事ができなかった。

 すると、霧丸は呆れた様に笑う。


「伊佐美は本当に情に弱いね」


 その瞬間、伊佐美は脇腹に鋭い痛みを感じた。恐る恐る、手で確かめると短刀の柄に触れた。

 霧丸は腰を持ち上げ、雨空に顔を向ける。胸元に一線に裂かれた傷口から伝う生血は雨に洗われていく。


「オレはお前たち家族きょうだいが好きなんだ!」


 霧丸は激しく打ち付ける雨音に叫んだ。

 そして、地に横たえ、痛みに悶える伊佐美に笑いかけた。


「だから壊したい」


 霧丸は伊佐美の顔を覗く。


「伊佐美、オレが憎い?」


 伊佐美は荒く息を吐きながら

「…ああ!殺してやりたい…!」

 と、叫んだ。


 すると、霧丸は安堵した様に微笑む。


「良かった。その憎しみ忘れないでね」

 またね、と背を向ける。


「まて!霧丸!」


 伊佐美は矢のように降り注ぐ雨の中、声にならない声で叫ぶ。手を伸ばそうとも届くことはない。薄れゆく視界で遠のく背中をじっと捉え続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る