第6話 愛憎の先

〈一〉


 この女は気が狂ってる。


「霧…もっと…」


 頭上から降り注ぐ女の吐息混じりの声。

 その声に従って柔な膨らみを持った山のいただき、膨れた突起を一層強く喰むとさらに声高な息が上がった。


「そう…偉いよ、霧」


 湿っぽい声が耳を濡らす。

 顔を持ち上げ、月明かりに照らされたその顔を見ると、目尻の吊った大きな瞳が綻んでいた。


 いや、この女だけじゃない。

 姉弟きょうだい揃って気が狂ってんだ。



〈二〉



 が煩わしい。こんなにも駆けたのは関ヶ原以来だ。

 僧侶は息上がることなく、村の広場へ駆けてきた。広場に面する人家のうち、人の賑わいが漏れる邸へ目を見張った。


「あら、お坊さんどうしたんだい」

「夜分に無礼。加那祢が侘蔵を迎えに訪ねると聞いたのだが」


 一層と賑わう声が増す玄関口で僧侶は問うた。すると女主人は細い眉を顰め、首を傾げる。


「ん〜?加那祢ちゃん、葬儀以来見てないけど…」

「なんだと」

「侘蔵さんも寝てるかと思ったらいなくなっていてね。帰ったんじゃないかしら」


 僧侶の脳裏に加那祢の欺瞞ぎまんかんばせが浮かぶ。


「失礼した」


 丁寧に頭を下げ、去っていく僧侶に女主人もそれに倣ってこうべを垂らした。


 やはり勘づいた通りであった。己に偽るわけは、おそらく騒動に巻き込まぬ為のこと。そうなれば、行先はあそこしかない。


 僧侶は闇に気高く据える、東山を見据えた。



〈三〉



「霧ちゃん…どういうこと…」


 加那祢の震える唇から、か細い声が洩れる。

 これは夢だろうか。

 そう願いたい心が強くなるほど、現実がどっと押し寄せてくる。鼻腔をなぶる血の匂いが、首を切り離された体が、黒ずんだ顔が父であることがーー。

 加那祢は目に映る光景に放心状態であった。あまりにも突然の事に涙も出ない。


「加那祢の目に映る通りだよ」

「なんで…」


 霧丸の明るげな声色がさらに加那祢をいたぶる。


「なんでお父ちゃんを殺したの!!!」


 ついに加那祢の双眸から涙が溢れた。父を殺めた男を睨むその瞳は怒りで真っ赤に染まっていた。その顔を目にした霧丸は次第に頬を緩め、恍惚とした眼差しを真っ赤な瞳に注いだ。


「加那祢、可哀想だね…でも可愛いね」

「触らないで!」


 加那祢は頬に触れようとする霧丸の手を穢れを祓うように強く叩いた。


「酷いなぁ。加那祢は俺のこと救ってくれるんでしょ?」


 霧丸は赤くなった手の甲を撫でながら首を傾げる。顔は幼子の様におどけていた。


「俺ね、昔から加那祢の悲しそうな顔が好きなんだ」


 徐に霧丸は語り出した。慢心に満ちた声色に加那祢の内部で怒りと悲しみが沸々と湧き上がる。


「加那祢さ、俺が家に帰りたくないって駄々こねた時、いつもそうやって悲しい顔してただろう?」


 加那祢はその時抱いた思いを顧みた。両親を失った霧丸にとって自分達と過ごす時間は心の拠り所だったのではなかろうか。

 家に帰れば姉と二人、広い邸で食事をするのだろう。温かな食事が準備されている事は間違いない。ただ、その温さが霧丸のぽっかりと空いた心の隙間を温めるかは定かでない。


 霧丸の心を思うと加那祢の顔は自然と悲しげになる。


「俺はその顔が堪らなく好きなんだよ」


 霧丸は八重歯を覗かせ、笑った。


「霧ちゃん、可笑しいよ…菊江さんも殺して…お父ちゃんも殺して…!」

「加那祢ごめんね」


 加那祢の声に被せる様に霧丸は言った。


「俺、加那祢に嘘ついてるんだ」


 加那祢の心臓がドクっと脈打った。霧丸の言葉を拒む様に首を振る。これ以上の絶望を予感したのだ。この男はどこまで人を苦しめる気なのか。段々と増してゆく綻びは何だ。


 加那祢の身が酷く震えた。霧丸の光を閉ざした虚ろな瞳が怖い。


 加那祢の恐れを他所に霧丸は言った。


「あの女殺ったの俺じゃないの」


 加那祢はぎゅっと瞼を閉じ、耳を塞ごうとする。

 その時――

「ごめんなぁ、加那祢ちゃん」

 風鈴の音が耳元に囁いた。


「うちなんよ、菊江さん殺ったの」


 加那祢は膝から崩れ落ちた。恐る恐る首を捻ると、

「菖蒲ちゃん…」

 太い眉を一層と下げた、菖蒲の顔があった。



〈四〉



「誰か来たのか」


 伊佐美は座敷に戻ってきた女主人に目をやる。


 酒を好まない伊佐美にとって、この宴の席は居心地が悪かった。飯をたらふく平らげ、そろそろおいとましようとしていた矢先、人の訪問があり、しばし時を待ったのだ。


「そう、あんたん家で世話してるお坊さんでね、加那祢ちゃん探してるみたいだったのよ」


 伊佐美は訝しげに首を傾げる。


「なんで加那祢が?」

「侘蔵さん迎えに行くって言ってたらしいの」

「は」


 伊佐美は侘蔵すら目にしていなければ、加那祢も目にしていない。自分は昼過ぎからこの時間まで一切、ここら一帯を離れていない。もし、加那祢が来ていたならば、顔を合わせるだろう。


 妙な胸騒ぎがする。


「おい!まだ坊主いんのか!?」

「もういないわよ、走って行っちゃったわよ」


 途端に伊佐美はハッとした。

 今朝、詳細を省いて村へ下りることを伝えた時、霧丸は殺気を漂わせて言ったのだ。

『遅くに帰ってきてね。女を呼んでるんだ』


「くそっ!俺はなんて馬鹿なんだ…!」


 伊佐美は霧丸に見せた僅かな気の緩みに己を罵った。


「蒼紫!行くぞ!」


 女に囲まれ、くたびれていた蒼紫は突然のことに

「え!?兄ちゃんどこへ!」

 と兄の背に問いかける。


「加那祢と親父が危ねぇ!」


 伊佐美は蒼紫の返事を待つ前に駆け出していた。



〈五〉



「何でよ菖蒲ちゃん…」


 加那祢は菖蒲の袂に縋った。

 父の居場所と本音を言伝る為に息を切らして走ってきた菖蒲ちゃんは?

 菊江の葬儀の手筈をお坊さんに頼んだ菖蒲ちゃんは?

 友達でしょうと共に笑い合った菖蒲ちゃんは?


「うちな、加那祢ちゃんのそういうとこ好かんの」


 菖蒲は棘のある口調で言い放ち、袂を翻した。


「可哀想、悲しい。口だけ?心に思うだけ?みんなそうなんよ。口にしただけ己の善意を示すんよ。したたかやわ」


 加那祢を見下ろす菖蒲の目は酷く角が立っていた。己に向けられた怒気が伝ってくる。


「だから言うたんよ。加那祢ちゃんが見てる菊江さんと霧丸さんは真実の姿やったんかなって」


 加那祢は言葉が出なかった。しかし、菖蒲は応えを待っている。加那祢は分かっていた。どんな言葉を紡ごうと菖蒲は捻じ伏せる様に次の言葉を刺すのだ。


 その痛みを覚悟で震える唇を動かした。


「霧ちゃんと菊江さんは…二人で支え合って生きてきたんだよね」


 加那祢は霧丸に目配せた。すると霧丸は加那祢を憐れむ様に苦笑した。


「菊江さん、霧丸さんのこと欲を満たす為に使ってたんよ」


 菖蒲の眼差しも加那祢を心底、憐れんでいた。



〈六〉



「霧丸さん、おかえり」


 夜の鎮まりに風鈴の音が鳴った。

 霧丸が家の前で立ち尽くしていたところ、傍から声をかけてきた娘がいた。


「ああ〜、えっと誰だっけ」

「ひどいわぁ、ご近所さんなんよ」


 霧丸がおどけたように小首を傾げると、娘は霧丸の肩を柔く叩いた。霧丸は触れられた肩をギョッと睨み、娘に目配せた。


「嘘だよ、加那祢のトモダチでしょう」


 霧丸は関心の無い事は一切記憶に残さない質である。最も人の名が記憶に値しないそうな。


「棘に触れた気分やわ」

 菖蒲です、と娘は行儀良く頭を下げた。


 霧丸にとって、娘の登場は想定外だ。早いところ立ち去ってほしい。


「で、俺に何か用?」


 煩わしいと思う感情がダダ漏れの声色だ。


 すると、菖蒲は突き放すわけにいかないと思わせる為に準備していた台詞を呟いた。


「ようやく解放されたのに、やっぱり姉弟かぞくなんですね」


 霧丸は伺う様に片眉を持ち上げた。先刻の言葉を思い出した。

『ご近所さんなんよ』


 なるほど、こいつ俺ら姉弟のこと知ってんな。


 霧丸は口だけで笑った。


「これから断ち切るんだよ」

「霧丸さん、可哀想」


 菖蒲の言葉に霧丸は思わず目を見張った。どうも遣り難いおんなだ。加那祢と同じ年であるはずなのに、まるで世の酸いも甘いも吸い尽くした澄まし顔をしている。


 虚勢だろうか?


 霧丸は勘繰るのをやめた。


「自分の手で断ち切らんといけないこと?」

「へぇ、つまり?」


 この娘は己の敵では無い。ましてや味方。虚偽は無いと見た。


「もうあの身体に触れるのも耐え難いのかと」


 この時、霧丸の脳裏ではこの娘を手駒としたはかりごとの全体像が出来上がっていた。


「うちがやりましょか」


 無論、すでに駒は進んでいた。



 ***



「霧…!」


 行燈も点けず、月の光だけが注ぐ座敷に姉、菊江はいた。


「おかえり!霧!会いたかったわ」


 菊江は霧丸に抱きついた。その抱擁は胸の膨らみを態とらしく押し付け、下部を密着させた、男にする抱擁であった。


「よしよし。姉ちゃんは俺がいないと駄目だね」


 霧丸は片手で菊江の髪を撫でた。


「そうよ。私はあんたがいないと駄目なの。駄目なお姉ちゃんなの。だからね、姉弟で支え合わないといけないの。わかる?霧」


 菊江は恍惚とした眼差しで霧丸を見つめる。


 鼻がぶつかり合う距離で

「うん。姉ちゃんの言ってる事、わかるよ」

 と霧丸は柔らかな口調で言う。


 すると突然、菊江は自身の熟れた桃の様な唇を霧丸の唇にあてがった。

 暗闇で菊江の吐息と水音が溢れる。


「霧、触って…」


 菊江のなよやかな手が霧丸の手を掴み、己の膨らみに運ぶ。霧丸は柔らかな膨らみを揉み上げ、菊江を襖に押しつけた。


 その瞬間、菊江の胸が赤に染まった。


「き…り…?」


 己の身に何が起きたのか、認知する余裕もない程に脳の回路は鈍くなっていた。酷い悪寒に身が震える。すると、温かな霧丸の手が頬を優しく撫でた。


「姉ちゃん、もう大丈夫だよ。これで駄目な姉ちゃんじゃなくなる」


 菊江は薄れゆく視界で霧丸の綻びを恍惚と眺めた。


「もう、俺に姉ちゃんは必要ないんだ」


 霧丸は座敷に臥す姉の屍に言い捨てた。



 ***



「メッタ刺しだね」

「顔は避けたんよ。綺麗やから、せめてもの情け」


 心臓を一差し。

 それすら見事であるのに、それで終わりかと思えば、二つ、三つと土を耕す様に刺していく様は流石の霧丸も苦笑した。


 しかし、過ぎた事に執着しない霧丸はけろりと表情を変えた。


「とりあえず、俺が殺ったって事で」

 てか、みんな俺を疑うか、と天を仰ぎ、首をかく霧丸。

 菖蒲はそんな霧丸を朗らかな顔で見守っていた。


「でも、あんたが殺ってくれて良かったよ」


 霧丸は八重歯を覗かせた。その無邪気な笑顔と称賛に菖蒲は生娘らしく綻んだ。


 一方、霧丸はこれから目の当たりにするであろう加那祢の絶望に満ちた顔を想像し、心躍っていた。


「あ、加那祢のトモダチなんだよね?絶交させちゃうと思うけど良い?」


 霧丸が唐突に思い出した様に言う。

 すると菖蒲は

「構わんよ〜」と太い眉を下げた。





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