第5話 狂い人情
〈一〉
翌日、訃報を受けた寺院から検僧がやってきた。手筈通り、僧侶が一筆した証書を提出し、その筋が認められ、菊江の骸は旦那寺で埋葬する事になった。葬儀は粛々と行われ、昼頃には村の皆が畑仕事、機織りと、日常的な営みが戻っていた。
「あっという間に終わってしまったね」
娘二人は田畑の続く道を歩きながら、互いに感傷に浸る心を労わりあっていた。
加那祢は母の葬儀とは異なった簡素で形式的に終わってしまった菊江の葬儀にどこか心侘しいものを感じた。
「そやね…家族がないと、あんまり真面目にできんのね。でも、村の人たちで精一杯やった方やと思うわ」
「うん」
菖蒲の言葉の通りだ。質素ではあったものの葬儀は執り行われ、菊江の骸を弔うことが出来た。それは村の者たちの人情深さあっての事。
加那祢は父の事も相まって、故郷もとがこの村で良かったと感ぜざる終えなかった。
しかし、加那は解せないことがあった。
「霧ちゃん、どうして菊江さんのこと殺めてしまったのだろう…」
加那袮はぼそりと呟いた。途端にハッと口を抑える。
すると菖蒲は太い眉を下げ、微笑した。
「村の人たちも霧丸さんのこと疑ってるから気にする事ないよ」
菖蒲は仕方がないというように笑った。加那袮も同じく微笑するが、顔が強張る。
『俺がやったから』
そう言って微笑する霧丸の顔が脳裏に浮かんだ。
村の人たちからすれば、まだ疑心に過ぎない。しかし、自供された加那祢にとっては確信なのだ。
「霧ちゃんにとって菊江さん、唯一の家族なのに…大切で仕方がないはずのに…」
いくら恨めしく感じようとも己の手で殺めてやろうなど決して思わないはず。家族、ましてや姉弟なのだ。共に支え合って生きた家族を殺める動機があるのだろうか。
「本当にそうやろか」
「え?」
加那祢の心を見透かした様な台詞であった。
菖蒲は遠くを見据えながら、
「菊江さん、よく村の男の人、家に入れてたんよ」
加那祢ちゃん、知らんかったでしょう?と己だけが知る秘密を晒した快感に浸るかの如く、恍惚とした眼差しを加那祢に向けた。
「家がすぐ隣だから知ってんよ」
まるで、戦地に赴いた旦那を健気に根気強く待ち続ける女房の様な身構えだ。
加那祢は胸底から何やらむず痒いものが湧き上がってくる感覚に己の身でありながら恐怖を感じた。
わたし、菖蒲ちゃんに嫉妬してるんだ。
そう気づいた時、何と惨めで卑しい心だろうと思いながらも、その嫉妬心を鎮める方法が霧丸の自供を聞いたのが自分のみであると信ずる心と『俺を救えるのは加那祢だけだよ』という言葉を想起することだった。
しかし、菖蒲にも絶対的な優位に立てる事象があるというのか。
「加那祢ちゃんが見てた菊江さんなんてほんの一部でしかないんよ」
菖蒲の内に秘めていた毒が滴る様である。加那袮がその毒を拒もうとも、もう手遅れであった。
「加那祢ちゃんが見てた霧丸さんって本当の霧丸さんやったんかな?」
「どう言う事」
「加那祢ちゃんの目には悲しそうに見えてたんでしょう。うちの目には
『いつか菊江を殺してやる』
っていう狂気を秘めてる様に感じたわ」
普段の菖蒲からは想像もつかぬほど棘のある声色とカッと見開いた瞳に加那袮の額に汗が浮かぶ。
すると、菖蒲はふわりと顔を綻ばせた。
「可哀想な人なんよ」
のびやかな声色が返って耳を痛く刺す。
「話し過ぎたね。そろそろ家に帰らんと」
菖蒲は踵を返し、
「加那祢ちゃん、またね」
と肩越しで別れを告げた。
加那袮は遠のく菖蒲の背中を眺めながら『またね』の意味合いが明日や明後日の近い将来に向けたものではない気がした。
〈二〉
「すみませんでした」
伊佐美は頭を垂れ下げた。そんな兄の姿に蒼紫は困惑の表情である。
村へ下りるという伊佐美に同行し、自分達に怯える村人から食糧をゆするかと思えば、この有様だ。
どの様な心境の変化だ?
蒼紫が唖然としていると突然、伊佐美の腕が蒼紫の首根っこを掴んだ。気づいた時には己も地を睨みやり、謝罪の姿勢をとっていた。
「これまでの悪事、畑仕事の手伝いで償わせてくれないか」
蒼紫は伊佐美の顔をチラリと覗いた。眉を顰め、口を固く結んだ横顔は己の罪を噛み締めているようであった。
途端に蒼紫の双眸から涙が溢れた。
〈三〉
なぜ兄はいつも頭にコブを作るのだろうか。
蒼紫は幼心にも頭にコブが乗る兄を気の毒に感じた。
落ち葉を掃く兄の頭上には、食べ頃の柿がぶら下がっている。その柿は、まるで自分達を嘲る様にゆらゆらと芳香を漂わせていた。
先刻、蒼紫は伊佐美と霧丸と共に木枝を振りながら人家を闊歩していた。とある邸に差し掛かると、秋の甘い香りが鼻腔をくすぐった。その誘惑に誰よりも早く乗ったのは霧丸であった。
木登りを得意とする霧丸は伊佐美と蒼紫を木の下に着かせ、自分は木に登り、柿を落とすから受け取れと言う。
その誘いに伊佐美は首を振った。しかし、霧丸は猿の様に素早く木に登り、柿に手を伸ばす。悪事を止めようと木の下へ駆け寄る伊佐美。それは自然と霧丸が提言した体と同じになっていた。伊佐美は落下する柿を手に取るしかなかった。
二つ、三つ、腕に収めたところで霧丸は遠くの方で主人の姿を捉えたのだろう。逃げるぞと声を上げ、誰よりも足速に去っていった。
蒼紫も続いて逃げようとするが、兄、伊佐美は唇をぎゅっと噛み締め、木の下で足を貼り付けていた。その足は震えていて、恐れで動かぬか、と思ったが、己の意志で押さえつけている様であった。
「こらっ」
怒鳴りと共に兄の頭に拳が打ちつけられた。幸い、蒼紫は柿を手に持っていなかった為、鋭く睨まれただけだった。
その後、主人は柿を没収し、箒を手渡した。庭の落ち葉を集め、己の行いを顧みろとのことだ。
「何で俺らが怒られるの?謝るの?霧丸がやったのに」
「俺らも同じなんだよ」
蒼紫は兄の背中を眺めながら首を傾げた。すると伊佐美は手を止め、柿の木を見上げた。
「俺らは霧丸を止められなかった。この木の下で霧丸が落とす柿を手に取った時点で共犯なんだよ」
兄の顔は何とも爽やかで雲一つない空と等しく、目が釘付けになった。
「せめて俺たちだけでも償おうぜ」
伊佐美はニカッと歯をのぞかせた。
蒼紫はその笑顔に自然と箒を握る手の力が漲った。
伊佐美と蒼紫は黙々と落ち葉をかき集めた。しばらくして、落ち葉が小山となった時、縁側の方から
「伊佐美ちゃん、蒼紫ちゃん」
と年増の声がする。
「あ、おばさん」
この邸の主人の女房であった。目尻に皺を寄せ、二人に手招きしている。伊佐美と蒼紫は互いに顔を見合わせ、手招きに従った。
「お庭のお掃除ありがとうね。これ、うちの人には内緒だけど…」
「「干し柿!」」
ざるに乗った旨味を凝縮した柿に伊佐美と蒼紫は嬉々とした声を上げる。
「ありがとう!おばさん!」
とんだ褒美に二人の心はこの上ない充足感に満ちた。
「ほらな、良いことがあるもんだろ?」
干し柿を頬張りながら言う兄に蒼紫は大きく頷いた。
〈四〉
気づけば、蒼紫も口を固く結び、地をじっと見つめていた。もう伊佐美が手で押さえつける必要も無く、己の意志で頭を垂れている。
すると、頭上からしゃがれ声が言う。
「お前ら、戦から戻って力が有り余ってんだろ」
顔上げろ、と促す声に二人はゆっくりと顔を上げた。
「昨夜、侘蔵が泣きながら言ってたぞ。お前らのことが大事だって」
伊佐美と蒼紫は同時に目を見開いた。
「親父が?」
と吐息混じりに伊佐美が言う。
「おおよ、親としてお前らのこと自分の手でケジメつけるって村ん中、包丁持ちながら歩いてたんだ。話を聞けばなんだ、あいつは飛んだ親バカもんだよ」
男は口元の皺を一層と深く刻んだ。
「あの親バカもんの子が悪鬼なわけがねぇな」
伊佐美はぎゅっと唇を噛み締める。でなければ双眸から涙が溢れてしまう。
「親父に感謝しろよ」
伊佐美と蒼紫は今一度、深く頭を下げた。
〈五〉
陽が山の谷間に隠れ始めている。斜面に差す光を浴びながら僧侶は山を下っていた。葬儀の手配を終えたのち、
この村を訪れてだいぶ日が過ぎた。しかし、これまで様々な村を訪ねたが、これほど短期間で情深く関係を築き上げたことはない。
己の心を案じて近々、この村を出ようかと考えたものの世話になった加那祢や侘蔵、伊佐美や蒼紫の行く末が気掛かりであった。
しかし昨日、二人の男は心を決めたようだ。今日あたり何か動きがあるのではなかろうか、と予感する。
もうしばらく様子を見るか。
そう考えているうちに山を降り終え、田畑を歩いていた。人家では夕餉の香りが立ち、自然と腹が鳴る。
「加那祢」
「あっお坊さん」
玄関口で顔を合わせた加那祢はひどく驚いた顔をしていた。
「どこかへ行くのか」
僧侶がそう問いただすと、加那祢は瞳をあちこちに飛ばしながら、
「えっと…お父さん!迎えに行ってくるね!」
と言葉を詰まらせながら言った。
僧侶は加那祢の異変に勘づいた。
「共に行こうか」
と提案してみるが、娘は逃げる様に僧侶の脇をくぐり抜けた。
「大丈夫だよ!もう酔いも覚めてるだろうし、ご飯の準備してあるから先に食べてて!」
「…そうか」
「じゃぁ、また後で」
娘はいつもより一層と甲高い声で言った。
僧侶は心につっかえるものが水を流せば取り除けるものではない気がした。しばらく、娘の背を見守った。
〈六〉
伊佐美は己の心臓の鼓動に驚いた。
襖越しで寝ているであろう父と顔を合わせるのが、こんなにも気の張る事だとは思いもしなかった。
畑仕事を終えた伊佐美と蒼紫は村人たちから厚くもてなしを受けていた。もとより仕事熱心な若者二人が手伝うとなれば、二日分の仕事が一日で済んでしまう。
心を改めた二人を快く思った村人たちは、各々、温かな飯や酒を持ち寄り、宴会さながらであった。
伊佐美は昨夜からこの邸で酒を飲み、泥酔した挙句、一室で眠りについているという父と対面を果たそうとしている。
父の本音を聞いた伊佐美は直接、謝罪をしたいと思い、なおかつ感謝を述べたいと思った。
ふう、と一息つき、襖に手を掛けた。
部屋を覗いた伊佐美は目を見張った。一歩後ろに下がり、声を上げる。
「おじさーん!親父いねぇけど!」
座敷には布団が敷かれており、人が布団を剥いだ様な痕跡だけが残っていた。
「ありゃいねぇか?酔い潰れてたはずなんだが」
同じく座敷を覗いた男からはプンプンと酒の匂いが香っていた。伊佐美はムッと眉を顰める。誠に遺憾ながら、伊佐美は
「帰ったのかもしれん!」
そう言って男はふらふらと賑やかな衆に混じっていった。
伊佐美は解せない様子で小首を傾げながらも
「伊佐美ちゃん!ほらっ、これも食べ!」
と腕を引かれ、
「伊佐美!あんたにこれよく似合うと思うから着替えなさいな」
と小袖をあてがわれ、忙しなかった。
「お、おう、ありがとう」
村人たちの厚意はありがたく心に染みる。伊佐美は人の温かさに泣きそうになった。
「蒼紫ちゃん、なよやかなだから小花を散らした小袖が似合いそうね」
「あはは、ありがとうございます」
女たちに囲まれ、逃げ道なく、苦笑する蒼紫ではあったが、伊佐美と同じく人の温さに心がほぐされていた。
〈七〉
社で飛び回る猫がいる。軽やかに身を持ち上げ、音もなく地に足をつく。遠目で見れば猫だ。近目で見ても人に化けた猫だ。肩で揺れるふわりとした髪の毛と丸く大きな吊り上がった瞳。
霧丸は月の光が注ぐ穴を見上げ、八重歯を覗かせた。
「加那祢、まだかなぁ」
明るげな声が肢体と同じく跳ねていた。
「加那祢どんな顔するんだろうなぁ」
霧丸は片手に持つ刀で床にうつぶす柔らかなブツを突いた。すると、ころりと音を立ててその一部が分離した。正確に言えば、もとより離れてしまったもので、突いたことでさらに隙間が出来たということだ。
徐に霧丸は肩を震わせた。腹の底で抑える様に笑っていた。
〈八〉
加那祢は闇にそそり立つ社殿を目前に足を止めた。思い返せば、陽が沈んだ時刻に境内にいたことがない。それは、いつも兄、伊佐美から先に蒼紫と家に帰れと言われていたからだ。
どんな時も妹弟を気にかける兄。それでいて、霧丸を放って置けない兄。
嘘が下手で口が悪い
そんなお兄ちゃんみたいに心優しくなりたい。
「大丈夫。今度は私が霧ちゃんを救うから」
加那祢は闇に溶ける社殿に足を運んだ。
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