第4話 父の本音

〈一〉


 加那祢は足がもつれるほどに走っていた。田畑でんぱたの移ろいに目もくれず、人家じんかから婆が顔を出し、加那祢ちゃんと声を掛けようとも今はちょっとと途切れ途切れの息で一言詫びて過ぎていく。

 家の前にたどり着く頃にはほぼ歩行と変わりなかった。


「お父ちゃん!」


 勢いのままに戸を開け、叫ぶと家はしんと静まっていた。布団はもぬけの殻で、加那袮の脳裏に不吉な予感が走った。

 しかし、よく目を凝らして見ると隅の方で突っ伏している父の背があった。途端に安堵の息が溢れる。


「お父ちゃん、何してるの…?」


 加那祢は父の背に問いかけた。振り返ることも返事もなく、その背中は小刻みに震えている。加那袮は恐る恐る侘蔵の顔を覗いた。


「子の過ちは親が止めるもんだ」

「え…?」


 怒りと悲しみに揺れた瞳はじっと手に握る包丁に向けられていた。


「伊佐美と蒼紫は俺が殺してやる」

「お父ちゃん!」


 加那袮は家を出ようとする侘蔵の背に縋りついた。微かに漂う酒気と赤を帯びた瞳に父が邪鬼に乗っ取られてしまっているかの様に感じた。


「やめてよ!お兄ちゃんも蒼紫も悪い事だって気づいてる!でも…」


 途端に加那袮の脳裏に菊江の青白い脚がぎる。


「霧ちゃんに唆されてるんだよ…」


 加那袮は言葉にした途端、後悔した。霧丸が菊江を殺めたのは憶測でしかない。父の怒りの矛先を兄弟から遠ざけたい一心で口にした言葉は加那袮の心に多大なる罪悪感を抱かせた。


「だったら、親のいねぇあいつもろとも俺がけじめをつける」

「お父ちゃん!!!」


 侘蔵の怒りは鳴り止まない。

 侘蔵は加那袮を払いのけ、家を出た。再び静寂を取り戻した家で、ひとり残された加那袮はギュッと唇を噛み締め、涙を堪える。

 人に世話を焼きすぎる温厚な父が、あんなにも理性のタガが外れた状態になってしまうのか。初めて目にする父の姿にどうしようもない悲しみが込み上げてくる。

 しかし、今は感情的になっている場合じゃない。


「早く伝えなきゃ」


 おそらく、侘蔵は伊佐美たちの居場所を知らない。闇雲に村を彷徨うだろう。仮に知っていたとしても今の侘蔵の足取りならば、先を越せる。

 加那袮は伊佐美たちに伝えるべく、もう一度、足を走らせた。



 〈二〉



 社を覗くと、そこには誰もいなかった。天井に空いた丸い穴から差す光を頼りに先刻に倣って凝視したが人の気配はなく、木の葉の音が耳を掠めるだけだった。


 かつて大人の忠告を余所に遊戯場としていたこの場所は、あの頃の様な秘めた輝かしさはなく、人からも神からも見放された侘しさしか感じられない。


 加那音は幼き頃を懐かしむ様に柱をそっと撫でた。

 すると、何の前触れもなく

「加那袮?」

 と名を呼ばれた。

 その声は反射的に加那袮の肩をビクつかせた。脳裏でその声と顔が合致した時、顔を上げると想像通り、霧丸がいた。


「霧ちゃん…」


 久しく目にした霧丸は伊佐美や蒼紫同様、胸底にそっと殺気を寝かせているようであった。

 しかし、ふと綻ばせた顔は以前と変わらず、

「加那祢、会いたかったよ」

 と言われると、加那祢の心は堪らなくなった。


 加那祢は霧丸を受け入れてしまう柔な心を咎めた。今一度、菊江の青白い脚と怒りを震わせた父を心に浮かべる。すると心底から沸々と込み上げてくるものがあった。


「菊江さんが殺された」


 矢を放つ様に言った。加那祢の目に写る霧丸は、今この場で初めて姉の死を知らされた様にひどく驚いた顔をしていた。しかし、加那祢は霧丸の眉尻が微かにピクつく瞬間を見逃さなかった。


 白々しいかんばせを疑って

「霧ちゃん、何も知らないの…?」

 と恐る恐る伺う。

 すると霧丸の顔が綻びに変わった。


「知ってるよ」


 途端に加那祢の顔は強張った。不思議なことに霧丸の顔は春の陽光を浴びるかの如く恍惚と穏やかであった。

 さらに霧丸は加那祢の顔色の変化を愉しむ様に

「俺がやったから」

 と微笑む。

「何でそんなこと…」


 加那祢の問いかけに霧丸は目を糸の様に細め、口には三日月を添えるだけで、言葉を紡ぐことはなかった。


「憎しみからは何も生まれないよ…」


 口にしながらも言葉に確かな自信が持てず、語尾は頼りなく消え入った。父が伊佐美や蒼紫に抱く殺意と怒りは憎しみが根源にあって生まれたものではないか。さらにその先をいえば子を正そうとする愛あってのこと。

 しかし、子を己の手で殺めたところでその先にあるものはなんだ。はたして父の思いは昇華されるのだろうか?


 と、突然に霧丸は加那祢の頬を撫でた。加那祢は伏せていた顔を上げ、目の前の男を見る。憐れむ様な眼差しがそこにあった。


「加那祢、そんなことないよ」


 霧丸は両手を広げ、光刺す穴のもとへ身を送り、空を仰いだ。


「俺、今凄く嬉しいんだ。ようやく呪縛から解かれた気がするんだ」


 ああ、霧ちゃんはこのまま光の道に身を委ね、天に昇ってしまう。


「霧ちゃん可笑しいよ」


 加那祢は霧丸の腕を引いた。霧丸の澄み切った瞳が加那祢に向く。


「霧ちゃんいつも悲しそう」


 憐れみだ。今しがた霧丸が加那祢に向けた瞳と同じ瞳を向けていた。すると、霧丸の眉が下がる。


「加那祢は俺が怖くない?」

「うん。霧ちゃんに恐怖を感じたことなんてない」


 加那祢は頷いた。真意であった。血を分けた姉弟を殺めようとも、その手が赤く染まろうとも、加那祢が霧丸に抱く思いは慈悲だ。


 霧丸はふっと微笑んだ。茜色の陽光が霧丸を包み込んだ。


「加那祢、そろそろ日が暮れる。帰りが危なくなるから帰りな」


 心なしか、霧丸の瞳が潤んでいる。


「加那祢、俺を救えるのは加那祢だけだよ」


 霧丸はいとも簡単に加那祢の体を包み込んだ。加那祢の耳元で鳴る霧丸の鼓動は早く、間近で人の命を感じ得た。


「また明日、日暮れ前に来てくれる?」


 震えた声で言う霧丸に、加那祢は何度か頷く。一層と強くなる抱擁。加那祢が霧丸の背中に腕を回す余裕はなかった。



〈三〉



 日が暮れた頃、僧侶は下宿屋に向かって田園の続く道を歩いていた。すると、分かれ道の合流地点で加那祢と鉢合わせ、互いに「あ」と言葉を洩らした。


「お坊さん、今日も修行お疲れ様」


 加那祢は微笑を添えていった。しかし、僧侶には伸びぬ糸を引く様に頬を持ち上げ、疲労に満ちた顔に感じた。


「加那祢さんもこの時間までお疲れ様です」


 行儀よく頭を下げる僧侶に加那祢は首を振る。


「ううん。わたしは今日、畑仕事もほっぽって、お父ちゃんも……あ!」


 加那祢は思い出した様に声を上げる。


「そうだ!お父ちゃんのこと忘れてた!」


 加那祢の頭は霧丸の事でいっぱいになっていた。

 途端に加那祢は

「お坊さん!ごめんなさい!家の問題に巻き込むつもりはなかったんだけど、お父ちゃんがお兄ちゃんと蒼紫を自分の手で殺めるって!」

 と僧侶に助けを乞う。


 すると僧侶が口を開くより先に

「加那祢ちゃん」

 と叫ぶ声が聞こえた。


 双方とも声のする方へ顔を向けた。すると、こちらに向かって駆けてくる人の影があった。加那祢は目を細め、焦点を合わせる。


「菖蒲ちゃん…?」

「加那祢ちゃん!」


 息を切らしてやってきた菖蒲は一息つき、言葉を紡ごうとするが、声が出ない様で苦しい顔で加那祢に目配せた。

 加那祢は菖蒲の背を摩り、言葉を待つ。


 しばらくして、菖蒲は途切れ途切れに

「加那祢ちゃんの…お父さんのこと」

 と言った。


「お父ちゃんがどうしたの!?」


 加那祢の脳裏に不吉な予感が走る。菖蒲は息を整え、はっきりとした声色で言った。


「包丁持って広場、歩いてたんよ。でも、村の人たちがわけを聞いて話してるうちに泣き崩れて、それで今、うちのお父さん、おじさんたちとお酒飲んでるの。加那祢ちゃんのお父さん泣きながら言っとった。加那祢が自分のことを止めようと探してるって、それでうち、加那祢ちゃんに伝えに来たんよ」


 加那祢の大きく見開いた双眸から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 震える声で「本当に…?」と執拗に聞くと菖蒲は「うん」と微笑んだ。


「加那祢ちゃんのお父さん言っとったよ。伊佐美さんと蒼紫さんのこと」



 〈四〉



 村の広場に一等大きな茅葺き屋根のやしきがある。その邸から男達の声が洩れ聞こえていた。大抵、男たちが酒を飲み交わす時、この座敷が宴場となっていた。

 今宵は一人の男を労わる為に男たちが各々、酒を持ち寄り、肩を寄せ合っている。実は酒を飲みたいが為に集う者もあった。


「俺はな、俺の息子が何よりも大事なんだ。己を犠牲にして欲しくねぇんだよ!」


 侘蔵は顔を真っ赤にして酒を煽りながら言った。村の男たちも心地良さげに、おうよおうよ、と適度に労りの言葉をかける。

 そのうち饒舌な一人の男が言った。


「おうよ、侘蔵の思い、分かるぞ。だがな、良いことじゃねぇか。人の為に生きるってのは」


 男の言葉に侘蔵は涙ぐみながら、

「違ぇんだ」と真っ赤な顔を横に振る。


「それがたとえ人の道理だと、尊いことだとしても、俺は俺の息子が一番なんだよう」


 そう言って侘蔵は裾で己の涙を荒く拭った。

 誰一人、気の利いた返答をすることができず、

「おいそれ、呑め」

 と酒を注ぐのであった。


 村の男たちは侘蔵の事をただの息子思いの良いやつじゃねぇか、と包丁を片手に息子たちの行方を探っていた姿を哀れに思った。

 今夜は目一杯酒を飲もう。

 それが唯一、村の男たちが出来る、精一杯の労りであった。



〈五〉



「おじさんに伊佐美さんたちを殺めることなんて出来んよ、加那祢ちゃん」


 父の本音を聞いた加那祢は涙ぐみながら何度も頷いた。

 勘当だの己の手でけじめをつけるだの口にはしていたものの真意ではなかったのだ。父なりの見栄だったのであろう。


「菖蒲ちゃん、伝えに来てくれてありがとう…」


 加那祢は友の粋な計らいに深く頭を下げた。すると菖蒲は太い眉を一瞬持ち上げ、綻んだ。


「ええのよ。あたしたち、友達でしょう」


 二人の娘は目を交わし、笑い合った。


 そんな二人の目配せを邪魔せぬ様、僧侶は慎み深く、温かな眼差しでそれを見守っていた。

 ふと、菖蒲は何か思い出した様に僧侶に目配せた。


「お坊さんにお願いがあって」


 太い眉が悲しげに下がった。僧侶は承知の意を込めて娘に目配せる。


「菊江さんの事なんやけど…」


 菖蒲は加那祢にチラリと目配せながら言った。加那祢はすぐに察した。村で人が死んだ事を僧侶はまだ知らない。菖蒲は僧侶がそれを知っているか、確かめたのである。


 加那祢は僧侶に霧丸が殺めたという憶測は交えず、目に見た全てを伝えた。僧侶は動揺する素振りも一切なく、人が殺されたという事実を実直に受け止めていた。


「変死だと、その筋の証書がないと葬儀が行えないんよ。でも、この村にまともに文字を書ける人もおらんし…それで、ちょうど加那祢ちゃんの家でお坊さんをお世話してるって聞いてたからお願いしたいの」


 村で人が亡くなり、葬儀を繕うとなると、その人物の戸籍を預かる旦那寺に死亡の知らせを送る必要がある。知らせを受けた寺院は検僧を派遣し、死者が変死でない事を確認の上、葬儀がはこばれる。変死の場合はその筋道を書いた書が必要なのだ。


 僧侶は仏葬の理を重々理解し得ている。


「うむ、わたしで良ければ一筆書こう」


 その言葉に二人の娘は仏を崇める様に頭を垂れた。


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