第3話 芽生える友情

〈一〉 


 床に臥す母を目にした時、伊佐美は母の死が目前である事を悟った。妹弟きょうだいにはとても耐え難い真実であると思った伊佐美は、母の為と花を摘む二人に付き合い、野原へ出かけたものだ。


「お母ちゃん、元気になるかな?」


 黄色い花を小さな手に抱えた加那祢は伊佐美の目の前にそれらを突きつける。


「ああ、喜ぶよ」


 伊佐美は曖昧に微笑んだ。的外れな答えに子供心ながらも気がついた加那祢は頬を膨らませる。伊佐美は困った様に笑い、加那祢の頭を撫でた。


 ***


「伊佐美。こっちに」


 母の声は相変わらず凛としている。声だけを聞けば、病に罹っているとは想像もつかないだろう。


 伊佐美は言葉の通りに母の伸びた細い腕が届く距離に身を寄せた。すると、母の手が伊佐美の頭に触れる。


「いてっ」


 伊佐美は稲妻のように駆けた痛みに声を上げた。母は伊佐美の頭にあるコブを撫でたのだ。


「また、ひどく殴られたのね」


 眉を下げ、顔を覗き込むと伊佐美は母の手を払いのけ、恥ずかしそうに顔を逸らした。


「別に俺が悪いし」


 口を尖らせながらいう伊佐美に母の温かな眼差しが注がれる。


「伊佐美、おいで」


 細い手が伊佐美の腕を掴んだ。弱々しい力ではあったが、確かに伊佐美を自分のもとへ引き寄せようとしている。母は伊佐美を己の胸に抱こうとした。

 それに気づいた伊佐美は母の手から腕を引く。


「俺はもう子供じゃねぇんだ」


 一瞬、母の顔が悲しげに歪んだ。加那祢や蒼紫ならば、喜んで抱きついたであろう。しかし、十二になった伊佐美には母の腕の中に身を委ねる事が心地良いと感ぜられる気がしなかった。


 母は伊佐美の胸中を察し、

「そうね、じゃぁせめて手を握る事だけは許して」

 と手を握った。


 伊佐美は先ほどの母の悲しげな顔が彷彿ほうふつし、せめてもの想いを込めて、脆い手に堪えない程度の力で強く握り返した。


「伊佐美の手は温いですね」


 母ちゃんの手は酷く冷たい。


 伊佐美は口にする事が出来なかった。その言葉を口にしてしまえば、目の前にいる母が雪の様に溶けてなくなってしまいそうな気がした。


 伊佐美は先の長くない母を目の前に涙を堪える様に眉をギュッと顰めた。すると、その苦しみをほぐすように母は伊佐美の手を撫でる。


「この世には吐いて良い嘘と悪い嘘があります」


 心臓の音がドクっと跳ねた。後ろめたい心が露わになった伊佐美の顔に母は眉を下げ、微笑みかける。


「その分別はとても難しく、母でも迷いがあります」


 伊佐美は幾度も同じ嘘を吐いていた為、叱られると思った。すぐに謝ろうと手を引こうとする。すると、母の手が離さんと精一杯の力で抑える。


「伊佐美」


 母が優しく名を呼んだ。


「ただ一つ、確かなのはあなたの吐く嘘が良い意味を持っているということです」


 伊佐美はハッと目を見開いた。母はさぞかし満足げに笑っている。


「誰かを守る為に己を犠牲にする事はそう出来ることではありません」

 立派な事です、と更に顔を綻ばせた。


 伊佐美は己の行いを初めて肯定された気がした。嘘をつくのは悪い事だと分かっていた。しかし、だからと言って素直に吐いて、矛先が霧丸に向けられるのは耐え難かった。ならば、己の胸に腹に腿に矛が突き刺さる方がよっぽど良い。

 同時に父に対する後ろめたさもあった。どちらが正しいのか、伊佐美はその答えをようやく知る事が出来た。

 母は全てに気づいていた。そして、行いを讃えてくれた。伊佐美は喜ばしく涙した。


 母は俯く伊佐美の顔を覗き、その頬を包み込む。


「あなたより後に生まれた加那祢や蒼紫はあなたを見て様々な事を学びます」


 伊佐美は母の言葉を一言一句、心にしっかり刻もうと何度も頷いた。


「あなたの生き方があの子たちの生き方になるのです」


 母の手が震えている。伊佐美は自身の手を母の手に添えた。


「正しく生きる為のしるべになる。それが先に生まれたものの使命なのですよ」


 伊佐美は何度も頷く。母の瞳から溢れ落ちる涙も、変わりない凛とした声色も全てを記憶し、決して忘れてはいけないとその目に焼き付けた。



〈二〉



 険しい滝の音が耳を打ち付ける。滝を浴びているわけでもないのに、不思議と耳が痛んだ。伊佐美はようやく滝浴びする僧侶を認めた。白装束姿で合掌し、激しい流水に打ちつけられながらも微動だにしないその光景に思わず苦笑する。

 それは伊佐美の後につづいて僧侶を目にした蒼紫も同じであった。


「すげぇ…死の滝なのに」


 蒼紫は唖然とした。

 村の者達が口を揃えて『滝に触れれば一瞬にして体が吹き飛ぶ』と子供達を脅していた。大人が禁ずる事を犯したくなる子供心も流石に恐怖で縮こまった。

 十五になった今でもその滝の勢いに肝が冷える。返って、余裕綽々と滝を浴びる僧侶の方が恐ろしい。

 ふと兄に目配せた。いつのまにか、伊佐美はふんどし一丁になっている。


「えっ兄ちゃん何で脱いでるの!?」

「浴びに行くんだよ」

「は!?」

「俺らももうガキじゃねぇ。死の滝だか屁の滝だか知らんが余裕だろ」


 伊佐美は己の肉体を叩いて熱を帯びさせ、入水した。足先から一瞬にして全身に悪寒が走る。


「縮こまるなぁ」


 伊佐美は心臓を鼓舞するように胸を叩く。そんな兄の姿を蒼紫は信じられんと言いたげな表情で見つめていた。


「ほら、蒼紫も来い」


 そう一言口にすれば、もう蒼紫に拒む余地はなくなる。蒼紫はがむしゃらに小袖を剥いだ。


「おい、坊主」


 伊佐美は滝の音に負けじと大声を上げた。すると、僧侶は瞼を持ち上げ、伊佐美の姿を捉えた。


「お前は加那祢の」

「もう少しそっちに寄ってくれ」


 伊佐美は僧侶が言葉を紡ぎ終える前に言った。半ば無理矢理、僧侶の肩を押し、滝水に身を清める。その頃、ようやく蒼紫が入水した。


 確かにこれは足を踏ん張らなければ、膝から崩れ落ちる。視界も曖昧で聴覚も滝音に閉ざされ、まるで孤独だ。信ずるべきものが己の精神しかない。

 ただ、その孤独や精神の在処ありかがどうしようもなく、戦地に身を投じた時と似ていた。

 伊佐美は笑った。


「お前は血を流そうとしてんだな」


 このまま滝水を浴びていれば、やがて皮膚は剥がれ落ち、骨も崩れ落ちていく。終いには浮いた骨が滝水に打たれ、砕けるのではなかろうか。だが、不思議なことに返り血だけはその場に己の形のままに残る。


「流れんなぁ」


 伊佐美は首を傾げた。それと同時に、ようやく蒼紫が滝に身を投じた。



〈三〉



 伊佐美と僧侶の肉体は大きく、それでいて傷も多く、自然の脅威に耐え忍び、堂々とそそり立つ岩山のように感じられた。


 蒼紫は改めて己の肉体をみた。あの男たちと比べ物にならないくらい全てが頼りない。所々に散る傷も数日経てば消えてしまいそうな浅いものしかない。 

 蒼紫は彼らに背を向けた。


 岩場で各々、布で体を拭っていると

「お前も関ヶ原にいたのか」

 と伊佐美は背中越しに問うた。


 すると、僧侶は「ああ」と短い返事をした。


「だろうな。あの時、お前の目に関ヶ原を見た」


 あの時とは昨夜、僧侶に腕を掴み取られた時だ。


「お互い、よく生きてたな」


 伊佐美は笑った。それはまるで共に戦地に赴いた友を労わるような人懐っこい笑い方だった。きっとその笑顔は戦で辟易した仲間達に安堵をもたらしたであろうと僧侶は思う。


 突然、伊佐美は剃刀を手に取った。それを僧侶に目の前に突き刺す。僧侶は特に動揺することもなく、じっと伊佐美の眼力の強い瞳を見つめた。


「お前とは刃を交わす気はねぇ」


「蒼紫、頼む」と伊佐美は茫とする蒼紫に剃刀を手渡した。

 僧侶は伊佐美に殺意がない事を分かっていた。


 蒼紫は伊佐美から剃刀を受け取ると無精髭を丁寧に剃り始めた。幾度か手伝う事があったのだろう、僧侶には手慣れているように見えた。


 兄の髭を剃る事は唯一、伊佐美に刃を当てることが出来る瞬間だった。どんなに手合わせをしても一切歯が立たない。伊佐美の体は蒼紫の刃を嫌う。


 こうして兄の肉体に触れると己の弱さを痛感する。関ヶ原では幾度も伊佐美に命を救われた。だからこそ、こうして兄の体には多くの傷が残っている。己がどれほど伊佐美に守られているか、再度認識した。

 兄の様に強く、優しい人になりたい。

 それは蒼紫が刀を持ち、戦に赴いた最大の理由だ。


「俺は髭をなくすと中々の美貌なんだぜ?」


 伊佐美は剃り終えたばかりの艶深い顎を撫でながらいう。僧侶は妙に納得した。確かに顔だけ見れば女子おなごのようだ。


 じっと見つめてくる僧侶に伊佐美は耳を赤らめ、

「おいおい、笑えよ坊主」

 と苦笑する。すると、僧侶はフッと薄く笑った。


「冗談を言うのだな」

「元来の俺はこうだ」

「そうか」


 二人は今一度、笑い合う。伊佐美と僧侶の間に友情が芽生え始めていた。実のところ、肩を並べ滝浴びをした際にその兆しは見えていたのだが。


 伊佐美は紐で髪を括りながら言う。

「俺は蒼紫と霧丸ってやつと戦に出たんだ。このまま、こんな片田舎で畑耕して嫁さんとって子を残して死んでいくのは御免だって思ったんだよ」


 伊佐美の様な思いを抱いて戦に出るものは多い。しかし、そのほとんどが生まれ育った村で畑を耕す事がどれほど幸せであったか、目の前で切られていく仲間を目にし、ようやく気づくのだ。こうして、ほとんどの兵士は己の弱さを顧みて、郷里くにへ帰る。

 しかし、伊佐美の心は諦めがついていなかった。


「お前は…いや、戦にでた訳はいい。なぜ坊主になった?」


 多くの者を殺めたその償いなのか。しかし、それが戦の道理ではなかろうか。

 伊佐美は僧侶の胸の内に秘めた思いを知りたかった。


「旅が」

「あ?」

「旅僧と名乗れば尊ばれるからだ」

「おいおい、冗談だろ」


 思いがけない言葉に伊佐美は苦笑した。すると、僧侶も薄らと笑う。


「冗談だ」


 堅物に見えた僧侶は意外にも冗談を言える口らしい。

 伊佐美は大口を開けて笑った。久しく感じた気の抜けるような心地に馬鹿笑いした。

 しばらくして、伊佐美は笑気の残った声で

「坊主。一つ聞いていいか」と問う。


「正しい生き方とは何だ」


 伊佐美は僧侶の答え次第で己の行く先を決めようとした。

 挑戦的な男の瞳に僧侶は言った。


「お前の心にある」


 伊佐美は額に手を当て俯く。肩を震わせる兄の姿に蒼紫は目を見張った。すると、伊佐美は顔を上げる。その顔は喜びで満ちていた。


「俺はお前を嫌いになれないな」


 伊佐美は僧侶に背を向けた。空を仰ぎ、一呼吸し、瞑目めいもくする。すると、母の凛とした声が脳裏を掠めた。


『あなたの心にしっかりと指し示す答えがあります。もし、誤った生き方をしていると感じた時には心に突っかかるものが現れます。なぜか分かりますか?あなたの心が正しい事を知っているからです』


「あんたのおかげで迷いが断ち切れた」


 僧侶は己に向けられた伊佐美の瞳に一筋の光を見た。


「蒼紫、行くぞ」


 男の心はどこへ行き着いたというのか。僧侶はこの目で見た、一筋の光が何を意味するか、男の遠ざかる背に思いを巡らせた。しかし、どの様な結末であろうとそれはその者の確かな道なのだ。


「ねぇ、あんた」


 蒼紫は去り際、僧侶に言った。


「姉ちゃんのこと守ってやって」


 それだけ言って、伊佐美の後を追う。あの男の心にも確かな道がある。


 僧侶はそっと瞳を閉じ、滝の音に耳を澄ませた。

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