第2話 闇浮かぶ瞳
〈一〉
村から僅かに離れた山奥にひっそりと佇む社殿があった。屋根を突き破る丸い穴から月の光が注がれている。昔、雷が落ちた際に空いた穴だ。
一部が崩壊した社に村の者達はもうそこには神がいないと見切りをつけ、滅多に人が近づくことはない。
そんな中、一人の男が眩しげに月を見上げている。
「まん丸だね〜」
男は片目を瞑り、退屈しのぎに呟いた。癖毛の髪はふわりと肩上で跳ね、前髪は結いており、猫の様に丸く吊り上がった瞳を覗かせている。
待ち人がやって来るまでまだ時間を要するだろう、と男は大の字に床に寝転んだ。
月に照らされた石段を登る伊佐美と蒼紫。既にあいつはいるだろうと自然に段を登る足の速度が早まる。
「兄ちゃん、霧丸に何て言うの」
伊佐美より二段下を歩く蒼紫が不安げに問う。伊佐美は弟の心中を察し、後ろに目配せながら言った。
「正直に言うに決まってるだろ、変に嘘つく方が厄介だ」
あいつは人の心の動きに敏感だ、と吐息をついた。すると蒼紫の足がピタリと止まる。それと同じく伊佐美も足を止めた。
「俺、少し霧丸が怖い」
蒼紫は伏し目がちに言った。その目は十五の歳らしく、まだ幼さが残り、可愛げがあった。
霧丸に対する恐怖心は時に伊佐美も感じることがあった。しかし、兄弟揃って怯えていてもしょうがない。どちらも強くなければならない。
伊佐美は段を降り、蒼紫の髪を荒く撫でた。
「蒼紫。そう思ってると顔にも刀にも出るぞ」
ぐっと顔を覗き込み、不安げに揺れる瞳を見つめる。
「大丈夫だ。兄ちゃんがいる」
昔と変わらない、伊佐美の温かな笑顔。幼き頃も戦にでた時も伊佐美のこの言葉と笑顔に救われた。蒼紫の心が安堵に包まれる。
どんな時もその笑顔が己の存在を守ってくれる。
「ほら、いくぞ」
「うん!」
伊佐美と蒼紫は残り数段を駆け登った。
床に寝転び、月を見上げていた霧丸は、木の葉の揺れる音に混じって聞こえてくる足音に耳をぴくりと動かし、上体を起こした。
伊佐美と蒼紫の姿を認めると、跳ねる様に立ち上がり、彼らに歩み寄る。
「おかえり」
八重歯を覗かせ、明るげな声を上げる。しかし、兄弟揃って浮かない顔をしている事に気づくと
「ん?なんか、冴えない顔してるね、やったの?」
と己が儀礼として掲げた親殺しを成したのか、成さなかった聞いた。
霧丸は懐手のまま顎に手を添え首を傾げる。
伊佐美は息を呑み、首を振った。
「いや、やってない」
「へぇ」
一瞬、身が凍る程の霧丸の冷めた目が伊佐美を射抜いた。その瞬間、伊佐美は己の喉元から血潮が飛び散り、霧丸を赤く染め上げる光景を目にした。
伊佐美は数回瞬きをし、幻をかき消す。
目の前の霧丸は幼子の様に頬を膨らませていた。
「な〜んでよ。もう、伊佐美は情に流されやすいんだよね〜」
霧丸は伊佐美の周りを軽やかに飛び跳ねる。
「蒼は見てただけ?」
霧丸はぴたりと足を止め、蒼紫に目をやった。その目は野うさぎを
蒼紫は目を伏せた。しかし先刻、伊佐美と交わした言葉を思い出し、霧丸の好奇を放った瞳を見つめる。
「すまない」
と一言詫びた。
「まぁ、いいか。別に急ぐ事じゃないし」
霧丸は、けろりとした表情のまま、社に戻ろうとする。
「お前は、やったのか」
伊佐美は霧丸の背中に問いかけた。すると、霧丸は顔だけを伊佐美に向ける。その瞬間、境内を囲む林の木の葉の揺れる音が止んだ。
静寂の中、霧丸は言った。
「うん、めった刺し」
慢心感に満ちた笑顔が伊佐美の瞳に写る。途端に突風が向かいから吹き荒れ、伊佐美の髪をいたぶった。伊佐美は己の呼吸の音が煩いことと手の震えに気がついた。
己も弟と同じようにこの男を恐れている。
伊佐美は一つ息を呑み、心身を落ち着かせた。既に霧丸は
「そういえば、加那祢は?元気だった?」
「ああ、変わりない」
「そっかぁ。加那祢に会いたいなぁ」
霧丸は柱に刻まれた腰の高さにある一本線の傷を愛おしげに撫でた。柱に刻まれた傷は幾つもある。しかし唯一、その一本だけを執拗に愛でている。
霧丸はそっと目を閉じた。
「霧ちゃん」
己の名を呼ぶ加那袮の声が、記憶の回路から心地良く響いた。
〈二〉
伊佐美と蒼紫が去ったのち、家ではいつも通り
しかし、加那袮は通常時より倍の米を器によそい、侘蔵は端の方で珍しく酒を飲んでいる。
「ごめんね、お坊さん。家族の問題に巻き込んじゃって」
加那袮は口に米を頬張りながら言った。そのがむしゃら加減からギクシャクしているのが目に見えてわかる。
「お父ちゃんもお兄ちゃんもどっちも考えるより手が出る性格だからさ!本当に止めてくれてありがとうね!」
「礼には及ばない」
僧侶は味噌汁を啜った。庭で採れたばかりの青菜が入っており、箸で掴み、口に入れると砂利のざらりとした歯触りがする。
加那袮の話によると伊佐美と蒼紫は僧侶が訪れる少し前に村に帰ってきたらしい。親の声に耳を傾けず、戦へと出た息子二人を侘蔵は口だけの
村の者は変わり果てた二人の風貌に恐れを抱いている。二人はそれを逆手に村の者を脅して食料は調達し、まるで山賊の様な暮らしをしているのだ。
「二人はどこへ帰ったのだ」
僧侶が問うと、加那袮は箸を休めた。頭に一つだけ確かな答えが浮かんでいた。
「
唯一、村の者が近づくことのない場所だ。子供達は、あの山には登ってはいけないと教えられている。
しかし、大人が禁ずる事を犯したくなるのが子供心なのだ。
「昔よく、四人で遊んでたの」
僧侶は加那祢の懐かしむ眼差しに四人の子供達の姿を見た。
「あっそう、もう一人ね。霧ちゃんって子がいるの。あたしと同い年の男の子」
加那祢は僧侶の理解も考えず無遠慮に話を進めてしまった事に申し訳なさそうに眉を下げる。
「霧ちゃんはね、別に見た目は怖くないんだよ。体もそんなに大きくないし、ひょろひょろで、目がくりくり大きくて、女の子みたいなの」
「でもね」と加那祢の声色が沈む。
「時々、凄く悲しい様な苦しい様な目をするの。わたしにはそう見えたんだけどね、蒼紫はそれを怖いって感じてるらしい」
お兄ちゃんは知らないけど、と箸置きから箸を持ち上げようとするが、腿に手を揃えた。
「霧ちゃん、お父ちゃんとお母ちゃん亡くなってて、お姉さんの菊江さんと二人暮らしだったの。だから、よく日が暮れても帰りたくないって駄々こねて、そんな時にお兄ちゃん、霧ちゃんと遅くまで神社にこもって、お父ちゃんによく頭叩かれてた」
加那祢は少し笑った。兄が遅れて帰宅すると、父は否応なしに兄の頭にたんこぶを作る。兄は目を赤く染めながらも毎回、道に迷った、と下手な嘘をついていた。
「結局、昔のままなのはお兄ちゃんなんだよ」
きっと今も、あの神社で霧丸は伊佐美と蒼紫を待っている。
「霧ちゃんを一人にできないの」
加那祢は悲しげに顔を伏せていたが、澱んだ空気を一転させる為に侘蔵の縮こまった背中を見た。
滅多に酒を飲まない父が酒を嗜むのは、何か忘れたいことがある時だ。母が亡くなった時も、こうして悲哀に満ちていた。
「もう!お父ちゃん飲み過ぎ!」
娘の咎め声に父は片手を上げ、返事をするだけだった。加那祢は大きく溜息をつき、ようやく箸を持ち上げた。
「お坊さんは気にしないで修行を続けてね」
僧侶は気丈に振る舞う娘の心の強さに感服した。
〈三〉
翌日、村の広場で人々が群がっていた。加那祢は人の隙間から、皆が夢中になるものに目を向ける。するとむしろの間から華奢な青白い脚が覗いた。それが女の脚だと気づいた時にはもう顔を背け、己の怯えた心を落ち着かす為に腕を抱えていた。
「加那祢ちゃん」
風鈴の音の様な声色が加那祢の名を呼んだ。突然だった為、加那祢は肩を跳ね上げ、声のする方へ目をやる。
「
娘は太い眉を下げ、精一杯に微笑みかけていた。菖蒲は加那祢と同じ歳の娘である。
「菊江さん」
「え」
「昨夜、殺されたらしいの」
加那祢は大きく目を見開いた。
菊江は霧丸の姉で唯一残された家族のひとりだ。二十五の彼女は婿を取ることも嫁に行くこともなく、弟の霧丸を家で待ち続けていた。
『殺す動機ができた』
昨夜の伊佐美の言葉を思い出し、加那祢は震えた手で口を抑える。
「犯人は分からない。けど多分…」
菖蒲は口を閉ざした。しかし、脳裏にははっきりとその人物が浮かんでいるのだろう。一層と眉の皺を深くした。
「霧ちゃん…」
加那祢は吐息をつく様に呟いた。
昨夜、家を訪ねた伊佐美と蒼紫。時を同じくして、霧丸も実家を訪ねたのだろう。なぜ、唯一の家族を殺めたのだろうか。
兄の伊佐美が同じ事を犯すわけがない。出来るわけがない。
加那祢は家で眠る父を思った。朝方まで酒を浴びる様に飲んだ父は加那祢が家を出る際も深いいびきをかいて布団に丸まっていた。
僧侶も加那祢より早く家を出て、滝場に行ってしまった。今、独り家で眠る父の息の根を止めようとする手が伸びている。
加那祢は不安がよぎり、菖蒲の呼ぶ声を意にとめず、駆け出した。
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