美坊主の旅路にて

今衣 舞衣子

第1話 滝浴び坊主

〈一〉


 滝水は矢の如く、己の肉体を打ち付ける。

 肉体に感ずる痛みは次第に心地良く、戦場で肉体を貫いた矢の痛みと等しく変わらぬ。

 これまでの全てを清める事が出来たならばどれほど快く生きられるか。


 閉ざした瞳を開けた時、見えた景色は幾本もの流水の白矢しらやであった。



〈二〉



「おとっちゃん、またあのお坊さん滝浴びてるの」


 加那祢かなねは、けたたましい滝の流れる音に負けぬ様、大きな声で耳打ちした。父、侘蔵わびぞうは白髪混じりの頭を掻きながら

「たまげたもんだ」とその光景に釘付けである。


 滝水は滝浴びをする男の姿が一瞬消えて見えなくなってしまう程に激しかった。加那祢は目を擦り、滝に目をやる。白装束を纏い、合掌する僧侶は激しい流水に身を揺るがすこと無く、苦しげな顔も見せず、まるで眠っているかの様に滝を浴びていた。


 二日前、侘蔵と加那祢が家の前で畑仕事をしていると、シャンシャンと錫杖しゃくじょうの音ともに笠を目深に被り、袈裟けさを身につけた男が二人の前に現れた。


「ここらに激しい滝があると聞いた。教えてはくれまいか」


 とても静かで落ちついた声に加那祢は僧侶の顔が気になった。好奇心に任せ、笠の下から顔を覗くと、澄んだ切長の瞳と筋の通った鼻、秘密を決して言外しないであろう固く閉じた薄い唇、硬過ぎず柔過ぎずな輪郭があり、娘の心臓は高鳴た。そして、本能的にその顔が美しいと感じた。

 加那祢は突然に己の畑仕事に徹した装いが恥ずかしく、父、侘蔵の背に隠れた。


 侘蔵は滅多に見ない旅僧たびそうに過度な親切を施した。山奥の滝まで案内し、年頃の娘がありながらも家に泊め、米をわけ、寝食を共にした。


 僧侶は朝餉あさげを終えると山奥にこもり、夕暮れまで滝を浴びて過ごしていた。その為、日中、畑仕事をする侘蔵と加那祢は僧侶と顔を合わせることがなく、家に帰っても僧侶は非常に物静かで、父娘おやこ二人の生活は何一つ変わりなかった。しかし、米の量はしっかりと3人分減っており、存在があるのは確かである。



「ほれ、加那祢。拭ってなされ」


 滝浴びを某と眺めていた加那祢は父の声にハッと意識を戻した。

 いつの間にか僧侶は湖から上がり、たっぷりと水を含んだ装束を絞っていた。


 加那祢は父から受け取った布を胸元に抱え、僧侶に駆け寄る。


「お拭きします」


 加那祢は緊張のあまり僧侶の返事を聞く余裕もなく、顔の水滴を強弱曖昧で拭った。僧侶は突然の事に一寸驚きながらも、娘の厚意に身を任せた。


「すまない」

 と一つ詫びを入れ、白装束を身から剥がした。


 僧侶は加那祢より頭ひとつ分、背が高く、加那祢の視線は自然と僧侶の厚く盛り上がった胸元に注がれる。

 加那祢は頬を紅潮させながら、肉体に滴る水を拭った。


 僧侶の肉体は無駄な肉がなく、かと言って痩せているわけでもない。加那祢は腹が六つに割れていることに驚いた。初めて目にした男の体がこんなにも硬いとは思いもしなかったのだ。


「気分を害したならば、済まない」

「え…?」


 突然、頭上から降ってきた声に加那祢は手を止めた。加那祢は顔を上げ、僧侶の顔を見た。僧侶は眉根を寄せ、苦しげな表情を浮かべている。


 滝浴びの時でさえ表情を歪める事がなかったのに、なぜこんなにも苦しげなのか。加那祢も同じく、両眉を下げた。


「この体に残る傷が生々しく、娘の目には痛く映るであろう」


 加那祢は今一度、僧侶の肉体に目配せる。水滴を拭うことに一心になっていた加那祢は僧侶から言われるまで傷に目がいかなかった。しかし、確かにその肉体には短いもの長いもの、深いもの浅いもの、刀や矢で刻まれたいくつもの傷が残っている。傷跡の痛ましさは、見る者によっては耐え難く、目を逸らしてしまうだろう。

 しかし、加那祢は違った。


「わたしは、美しいと思います」


 加那祢の目に映る数々の傷跡は己の大切なものを守ろうとする信念が込められた、尊ぶべき、愛でるべき、勲章に思えた。


 僧侶は予想外の娘の一言に目を見開いた。そして琴線の様に目を細め、綻ぶ。


「ありがとう」


 僧侶の優しく落ち着いた声色に加那祢の耳は真っ赤に染まった。



 〈三〉



 すっかり日は暮れ、加那祢たちは山を降り、うちに向かっていた。闇夜に明かりが灯っていればそれは眩しいほどに目立つ。

 加那祢と侘蔵は家の明かりが灯っている事に驚き、顔を見合わせ、家まで走った。

 戸を開けると、囲炉裏を囲む、二人の男がいた。


「お兄ちゃん!蒼紫そうし!」


 加那祢に名を呼ばれた二人の男は同じ様な笑い方をして

「よう、加那祢」

「姉ちゃん久しぶり」

 と久しく顔を合わせた加那祢に各々挨拶を交わした。


 加那祢は兄、伊佐美いさみと弟、蒼紫そうしの身なりを目にし、悲しげに眉を下げた。伊佐美は無精髭を生やし、肩まで伸びた髪をだらし無く垂らしていた。昔は見目麗しい女子おなごの様だと言われていたのに、その影はまるでない。十五になる蒼紫も年に似合わず鋭い眼光を放ち、まるで狂犬の様だ。


 戦とは、こうまでも人を変えてしまうのか。


 加那祢はギュッと目を閉じた。幼き頃に三人で畑を耕した記憶がぎる。


「お前ら何しにきた」


 侘蔵の怒りで震える声に加那祢はカッと目を開いた。侘蔵は拳を震わせるほどに握りしめ、二人の息子を睨んでいる。


 すると伊佐美が喉を鳴らした。カッカッカッと笑う声が家の中に響く。伊佐美の鋭い眼光が侘蔵を捉えた。ひょろりと身を持ち上げ、侘蔵と対峙する。


「二人の息子が帰ってきたんだ。もてなせよジジィ」

伊佐美いさみお前…!」


 侘蔵は青筋を立て、伊佐美の胸ぐらを掴んだ。


「どれだけ人に迷惑をかける!?蒼紫まで巻き添えにしてお前はどう言うつもりなんだ!?」

「おとっちゃん!やめて!」


 声を荒げ、怒りを露わにする侘蔵。一触即発の状況に加那祢は声を上げる事しか出来なかった。助けを乞うように蒼紫に目配せるが、彼は兄を慕うあまり、ただ黙って見ているだけだった。


 途端に伊佐美の身が吹き飛ぶ。侘蔵が伊佐美の頬を拳で殴ったのだ。

 加那祢は短い悲鳴を上げ、口を抑えた。


「痛えな、ジジィ」


 伊佐美は口端を拭った。舌で血の味を確かめ、噴き溢れる様に笑う。そして、持参した刀を鞘から取り出した。


「おかげで切る動機ができた」


 伊佐美の虚な瞳が侘蔵を睨む。刀を振り上げた時、

「やめて…!」

 と加那祢が叫ぶも、伊佐美の耳にはもう届かない。

 加那祢は瞳を固く閉じた。


「おい、坊主。お前何者だ」


 伊佐美の声に加那祢は恐る恐る目を開けた。すると、僧侶が伊佐美の刀を待つ腕を持ち上げていた。


「ただの旅僧だ」


 どちらも力を込め、互いに負かそうとする。しかし、一向に勝敗はつかない。


「違うな」


 伊佐美はニヤリと笑った。僧侶は伊佐美の瞳に写る光景――戦場に散る赤を帯びた屍を目にした。


「血の匂いがするぜ」


 僧侶はカッと目を見開いた。伊佐美は一瞬の隙を見せた僧侶の手から腕を引き抜き、刀を鞘に収める。


「蒼紫、戻るぞ」

「お、おう」


 蒼紫は伊佐美と僧侶が作り出した、身が強張る雰囲気に呑まれていた。一拍遅れで返事をし、伊佐美の後に続く。


 家を出ようとする伊佐美の前に加那祢が両手を広げ、立ち塞がった。


「加那祢、どけ」

「嫌」


 伊佐美は駄々を捏ねる妹を宥める様な口調で言った。加那祢も兄に構ってもらう為に甘える様な口調で応える。


 加那祢はこのまま返してしまえばもう二度、二人は戻らないと悟った。


 この二人をこんな風にしたのは、戦じゃない。

 あの男だ。あの男のもとに行かせてはいけない。


「霧ちゃんのところ戻るんでしょ?駄目だよ」


 加那祢はその名を口にした途端、涙が溢れた。瞬きをすると、八重歯を覗かせて歯に噛む男の姿が浮かぶ。


「加那祢…」

「昔みたいに戻れないの…?」


 加那祢の言葉が痛く胸に染みる。伊佐美は指先で加那祢の涙を拭った。伊佐美の指先はタコが潰れ、硬くなっていた。


「加那祢、もう昔とは違うんだ」


 伊佐美の仕方がないと言いたげな表情に加那祢は唇をギュッと噛み締める。


「俺達は人を切りすぎた」


 加那祢は呆然と膝を崩した。その傍を伊佐美と蒼紫は通り過ぎる。

 家には肌を刺す静けさだけが残った。




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