地獄の前で立ち話

橘 漱水

地獄の前で立ち話

「待って下さーい」と女性の澄んだ叫び声があたりに響いた。

「おい、来るな。もう追いかけて来るな」と男は走りながら呟いた。

 東京郊外ののどかな道を若い男が死に物狂いで走っていた。そして、彼の十メートルほど後ろを水色のミニのスーツ姿の若い綺麗な女性が彼を追いかけていた。彼女のしなやかな美しい二本の脚は驚くほど俊敏に交互に動き、二人の距離はみるみる縮んでいった。

「ねえ、お願い。待って。お願いだから止まって」と女性は泣きそうな声で呟いた。

 二人の距離が一メートルほどになったとき、二人は静寂な広い国道に出た。その瞬間、右側から大型トラックが現れ、急ブレーキ音と鈍い衝突音があたりに響いた。二人の体は宙に浮き、二秒後、灰色のアスファルトの路面に叩きつけられた。二人は広い静寂な国道に仲良く並んで仰向けに横たわった。二人の体は全く動かなかった。

 しばらくすると、女性は広い芝生の上で意識を取り戻した。彼女は起き上がると両脚を揃えて立ち、あたりを見回した。彼女のまわりには鮮やかな黄緑色の芝生が広がり、前方には高くて黒い塀が左右に果てしなく伸び、正面には不気味な大きな黒い門があった。

「私、大きなトラックにはねられたはずなのに、なぜケガをしていないの?なぜ広い公園の芝生の上にいるの?」と彼女は不思議そうに首をかしげて呟いた。

 すると、天から女性の綺麗な声が響いた。

「あなたは死んだのです。里穂ちゃん、あなたは大型トラックにはねられて死んで、今、死後の世界にいるのです」

「えっ、そんな……」と里穂は正面を見つめたまま真剣な眼差しで呟いた。

 すると、白いドレスを着た美しい女性が正面に姿を現わし、里穂を見つめて微笑んだ。

「私は聖母マリアです。里穂ちゃんはカトリックの信者ですね。私を知っていますか?」

 里穂はアーモンド形の目を見開いて聖母マリアを見つめた。

「はい、存じています。聖母マリア様」と里穂は澄んだ高い声で答えた。

「私は生野里穂(しょうの りほ)、二十歳。東都女子大学法学部法律学科の学生です」

「ええ、わかっているわ。里穂ちゃん。あなたが生まれたときから、私はあなたを知っています」とマリアは微笑みながら頷いた。

 すると、里穂の瞳が輝いた。

「わあ!嬉しいわ。聖母マリア様が私を知っていて下さるなんて」

 そして、里穂はアーモンド形の目を大きく見開いてマリアを食い入るように見つめた。

「ねえ、マリア様。ほんとうに、ここは死後の世界なのですか?」

「ええ、そうよ。ここは死後の世界です。正面に見える黒い門は“地獄の門”です」

「えっ!どうして私が地獄にいるの?なぜ地獄に聖母マリア様がいるの?」

「そんなに不思議なことかしら?」とマリアは微笑んだ。

「地獄はサタン様や閻魔大王様や刑吏さんや大罪人さんがいる所でしょう?そんな恐ろしい所に、なぜ聖母マリア様がいるの?聖母マリア様は天国にいるはずなのに……」

「人間は、みんな、そう思っているのね。でも、じつは、天国も地獄も神様が支配しているの。人間の心の中に潜む欲望、怒り、恨み、憎しみ、妬みがサタンや悪魔なの。人間の心の中に潜む悪い心がサタンや悪魔なの。地獄で大罪人さんたちに残酷な刑罰を行う刑吏さんたちは、神様の家来なの。みんな、いい人達よ」

「ふーん、なるほど」と里穂は頷いた。

 次の瞬間、里穂は目を見開いて真剣な眼差しでマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。どうして私が地獄にいるの?私、何も悪いことをしていないのに」

 マリアは悲しそうに里穂を見つめた。

「里穂ちゃん、ごめんなさい。天使さんがミスをしたの。天使さんが間違えて里穂ちゃんを地獄へ連れてきてしまったの」

「えっ、そんな!」と里穂は今にも泣き出しそうな顔をした。

「天使さんが里穂ちゃんの魂を天国へ連れて行くはずだったの。でも、里穂ちゃんの魂が他の天使さんが地獄へ連れて行く男性の魂を追いかけて、その男性の魂と一緒に地獄へ来てしまったの。里穂ちゃんの魂を天国へ連れて行く役目の天使さんは、里穂ちゃんの魂が後ろにいないことに気づかずに天国へ行ってしまったの。それで、里穂ちゃんは今、地獄にいるの」

 里穂は涙ぐんだ目でマリアを見つめた。

「そんな!ひどいわ。私、これから地獄で残酷な刑罰を受けるの?」

「心配ないわ。里穂ちゃんは、あの地獄の門の向こうにある受刑場で刑罰を受けることはないわ。もう少ししたら天国から天使さんが里穂ちゃんを迎えに来るわ。いつもは天国にいる私も、里穂ちゃんを安心させるために神様に命じられて地獄へ来たの。里穂ちゃん、天使さんが迎えに来るまで、私と一緒に地獄にいてね」とマリアは微笑んだ。

「はーい」と里穂も微笑んだ。

「里穂ちゃん。天使さんが迎えに来るまで、地獄の門の前に広がるこの綺麗な広場で、私とお話をしましょう」とマリアは微笑んだ。

 里穂は、「はーい」と嬉しそうに微笑んだ。

 そして、里穂はふと何気なく左を見た。少し離れたところに、さきほどまで里穂が追いかけていた男性がうつむいて静かに立っていた。里穂は、「あっ」と叫んだ。

 マリアは笑顔で頷くと、里穂を見つめた。

「ねえ、里穂ちゃん。なぜこの男性を追いかけていたの?」

「このかたは十年前に殺人事件を起こした鯨岡さんです。昔、近所に住んでいた人なの。たしか三ヶ月前に刑務所を出所したはずなの。奥多摩刑務所の見学を終えて帰る途中で、偶然、鯨岡さんを見かけたから、今、どうしているのかを伺いたかったの。もし前科者として差別されて就職できないでいるのなら、私が就職のお手伝いをしてあげたいと思ったの。でも、私が声をかけたとたんに、鯨岡さんが急に走り始めたの。それで、私、無意識に彼を追いかけていました」

「鯨岡さんは、どうして逃げたのですか?あなたは、もう社会復帰しているのですから、逃げることはないでしょう」とマリアは真剣な眼差しで鯨岡を見つめた。

 鯨岡は顔を上げると、静かに話し始めた。

「彼女が声を掛けてきたとき、私は『報道記者が元殺人犯の私を取材しに来たのだ』と思いました。すると、私は無意識に走り始めていました。大罪を犯した前科者の習性です」

 マリアは二人を交互に見つめて微笑んだ。

「まあ、里穂ちゃんは親切心で追いかけて、鯨岡さんは前科者の習性で逃げたのね」

 マリアは鯨岡を見つめると、「鯨岡さんは逃げる必要はなかったみたいね」と微笑んだ。

「はい、そうですね」と鯨岡は恥ずかしそうに頷いた。

 里穂は不思議そうな顔をしてマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。鯨岡さんは刑務所では模範囚だったと聞いているわ。それに、毎月、彼はご遺族に謝罪の手紙を送っていたそうです。それなのに、なぜ鯨岡さんは地獄にいるの。ほんとうなら、私と一緒に天国へ招かれるはずじゃないの?」

 里穂は鯨岡のほうを向くと、「鯨岡さんも、そう思うでしょう?」と尋ねた。

 鯨岡は暗い顔で里穂を見つめ、小さな声で話し始めた。

「私は仕方のないことだと思っています。私が地獄へ招かれるのは……」

「なぜ。どうして仕方のないことなの」と里穂は鋭い目で鯨岡を見つめた。

 そして、里穂は食い入るような目でマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。なぜ模範囚だった鯨岡さんが地獄にいるの。鯨岡さんは、私と一緒に天国へ招かれるはずじゃないの?」

 マリアは微笑みを浮かべ、首をゆっくり横に振った。

「いいえ。里穂ちゃん、刑務所で模範囚だったから天国へ招かれるとは限らないわ」

「どうしてなの?マリア様」

「鯨岡さんは反省していないから、地獄へ招かれたの」

「でも、マリア様。鯨岡さんは模範囚で、ご遺族に謝罪の手紙を何十通も送っています。それに、鯨岡さんは大金持ちで、弁護士を通じてご遺族に三億円もの慰謝料を支払ったと聞いています。だから、鯨岡さんは自らが犯した罪を十分に反省しているはずです」

「そういう事実だけで判断すると、たしかに鯨岡さんは十分に反省しているように見えるわね。でも、里穂ちゃん。神様は人間の心の中を見ることができるの。神様は、大罪を犯して反省の態度を表していても、心の底では反省していない人を地獄へ招くの」

「えっ!鯨岡さんは心の底では反省していないの?」

「ええ、そうよ」とマリアは頷いた。

 里穂は真剣な眼差しでマリアを見つめた。

「マリア様。私にわかるように説明して下さい」

「わかったわ、里穂ちゃん。鯨岡さんが刑務所を出所したとき、彼は迎えに来た弁護士の先生に向かって、『先生。私は刑務所に模範囚として十年ほど服役し、謝罪の手紙を何十通も書き、ご遺族に三億円の慰謝料を支払いました。ようやく私は“殺人”という重い罪を償い終えました。これから私は立派な社会人として生きてゆきます』と話したの」

 里穂は不思議そうにマリアを見つめた。

「鯨岡さんは自らが犯した罪を償ったのに、なぜ神様は、『鯨岡さんは反省していない』と思ったのかしら?」

 マリアは真剣な眼差しで里穂をじっと見つめた。

「里穂ちゃん。”殺人”は人の命を奪うことなの。わかるでしょう?」

「はい」と里穂も真剣な眼差しで答えた。

「被害者の”奪われた命”は、もう二度と現世に蘇ることはないの」

「うん」と里穂は頷いた。

「犯人がどんなに深く反省しても、長期の服役や多数の謝罪の手紙や多額の慰謝料で反省の態度を示しても、被害者は、もう二度と現世に蘇ることはないわ。たとえ犯人が死刑になっても、被害者は生き返らないの。わかるでしょう?」

「うん」と里穂は頷いた。

 マリアは鋭い眼差しで里穂を見つめた。

「”人の命を奪う”という行為は、犯人がどんなに深く反省しても、どんなに反省の態度を表しても、償うことができないの」

「はい」と里穂は真剣な眼差しでゆっくり頷いた。

「”人の命を奪う”という大罪を犯した人は、”自分が取り返しのつかない罪を犯した”という”罪の意識”と”被害者に申し訳ない”という”反省の念”を生涯に渡って心に抱き続けなければならないの」

「うん」と里穂は真剣な眼差しで頷いた。

「それなのに、鯨岡さんは弁護士の先生に向かって、『私は“殺人”という重い罪を償い終えました』と語ったの」

「うん」と里穂は頷いた。

「鯨岡さんは、自らが犯した”殺人“という行為が”償うことができない罪“であることを自覚していないわ。彼は”殺人“という行為を”償うことができる“と考えているの。彼は”人の命を奪う”という極めて重い罪を軽く考えているの。つまり、彼は自らが犯した”殺人“という行為について心の底では反省していないの」

「うん、なるほど。そのとおりだわ」と里穂は頷いた。

 マリアは真剣な眼差しで、じっと里穂を見つめた。

「神様は、鯨岡さんが自らの犯した“殺人”という“極めて重い罪”について心の底では反省していないことを見抜いて、彼を地獄へ招いたの。わかったかしら?里穂ちゃん」

 里穂はアーモンド形の目を大きく見開いてマリアを見つめた。

「はい、マリア様。“殺人”という決して償うことができない罪を犯して刑務所を出所したときに、『自分は罪を償った』と思う人は心の底では反省していないのね。だから、神様はその人を地獄へ招くのね」

 マリアは里穂を見つめて微笑みながら頷いた。里穂もマリアを見つめて微笑んだ。そして、二人が同時に鯨岡を見つめると、彼は恥ずかしそうにうつむいた。

「私がどんなに償っても、どんなに反省しても、被害者のかたが生き返らないことを、私は忘れていました。刑務所を出所したとき、『ご遺族に謝罪の手紙をたくさん書き、ご遺族に多額の慰謝料を支払い、模範囚として刑期を終えたのだから、自分は罪を償った』と私は清々しい気分になっていました。たしかに私は心の底では反省していなかったのだと思います。だから、神様が私を地獄に招いたのは当然のことだと思います」

 マリアは鯨岡を見つめてゆっくり頷いた。里穂は悲しそうに鯨岡を見つめた。

「たしかに仕方のないことだわ」と里穂は呟いた。

 マリアは優しい眼差しで里穂を見つめた。

「里穂ちゃん。大罪を犯して心の底では反省していない人は、現世で刑務所に入るか死刑になり、死後は地獄で残酷な刑罰を受けて苦しむの。現世では裁判官や人間社会に裁かれて、死後は神様に裁かれて、現世でも地獄でも刑罰を受けて苦しむことになるの」

 里穂は真剣な眼差しで、「うん」と頷いた。

 次の瞬間、里穂は不思議そうにマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。鯨岡さんは永遠に地獄で残酷な刑罰を受け続けるの?」

「いいえ」とマリアは微笑みながら、ゆっくり首を横に振った。

 そして、マリアは真剣な眼差しで里穂を見つめて話し始めた。

「地獄に永遠に留まる罪人(つみびと)さんたちは極めて少ないの。地獄の刑のほとんどは期限付きの有期刑なの。“懲役何年”という有期刑なの。現世にもあるでしょう。でも、地獄の刑期には現世の刑期より遥かに長い刑期があるの。千年、一億年、百億年というような気が遠くなるような長い刑期もあるの。刑期は神様が決めるの。神様が決めた刑期のあいだ、罪人(つみびと)さんたちは、刑吏さんたちから残酷な刑罰を受け続けるの」

「ふーん。何億年も苦しい刑罰を受け続ける罪人(つみびと)さんたちもいるの。地獄は現世の刑務所よりも恐ろしい所なのね」と里穂は頷いた。

 そして、里穂は興味津々の眼差しでマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。鯨岡さんは何年ぐらい地獄にいることになるの?」

「それは神様が心の中で決めることなの。誰にもわからないわ」とマリアは微笑んだ。

「ふーん。神様だけが知っているのね」と里穂は呟いた。

 次の瞬間、里穂はアーモンド形の目を見開いてマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。地獄には死刑はあるのですか?」

「まあ、里穂ちゃん」とマリアは里穂を見つめて微笑んだ。

「地獄には死刑はないわ。地獄で殺されることはないの。地獄では“神様が決めた刑期”のあいだ、罪人(つみびと)さんたちは、ずっと残酷な刑罰を受け続けるの」

「ふーん。日本では実現されていない“死刑廃止論”が、地獄では実現されているのね」と里穂は頷いた。

 次の瞬間、里穂は興味津々な目でマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。地獄には、どんな刑罰があるの?」

「わかったわ。地獄の門の中に入らない限り、誰も“地獄の刑罰”を知ることはできないのだけれど、里穂ちゃんは法学部法律学科の学生だから、特別に“地獄の刑罰”を幾つか教えてあげるわ」とマリアは里穂を見つめて微笑んだ。

「地獄の刑罰には、鞭打ちの刑、こん棒で殴られる刑、針を千本も飲む刑、釜ゆでの刑、火あぶりの刑、ナイフで全身を切り裂かれる刑、高い所からたくさんの鋭いナイフが立つ床に落とされる刑、ライオンやワニなどの猛獣に襲われる刑、などがあるわ」

 すると、マリアの話を聞いた里穂の端正な白い顔が蒼ざめた。

「わあ!怖いわ。まるで拷問だわ。そんな拷問のような残酷な刑罰を何万年も、何億年も受け続けている罪人(つみびと)さんたちもいるのね」

「ええ、たくさんいるわ」とマリアは里穂を見つめて頷いた。

 すると、里穂は不思議そうにマリアを見つめた。

「でも、マリア様。そんな残酷な刑罰を受けた罪人(つみびと)さんたちは、出血多量で死なないの?」

 マリアは里穂を見つめて微かに微笑みながら話し始めた。

「たしかに現世で罪人(つみびと)さんたちがそのような残酷な刑罰を受けたら、きっと出血多量で死亡するわ。でも地獄で罪人(つみびと)さんたちが残酷な刑罰を受けると、とても痛くて苦しくて体からたくさん血が出るけれど、死ぬことはないの。地獄では決して死ぬことはないの。罪人(つみびと)さんたちは、さまざまな残酷な刑罰を受けて肉体の痛みと苦痛に耐えながら、地獄で生き続けるの。そして、心も血を流し続けるの」

「ふーん。地獄では、日本では実現されていない“死刑廃止論”が実現されているのね。だから、地獄にいる罪人(つみびと)さんたちは決して死なずに、心と体で激しい痛みと苦しみに耐えながら、生き続けるのね。死刑がなくても、死なずに苦しみ続けるなんて、地獄って、とても残酷な所なのね」と里穂は目を大きく見開いて呟いた。

 マリアは微かに微笑みながら頷いた。

「そうよ、里穂ちゃん。地獄は現世の刑務所より、ずっと残酷な所なの」

「ねえ、マリア様。地獄では人権はないのですか?」と里穂はマリアを見つめた。

「ないわ」とマリアはさりげなく答えた。

「現世では罪人(つみびと)にも人権があるから、刑務所では残酷な刑罰を行わないけれど、地獄には人権がないから、残虐な刑罰が毎日、朝から晩まで行われているの」

 里穂は興味津々な目でマリアを見つめた。

「地獄には寝る時間や食事の時間はあるの?」

「ないわ」とマリアはさりげなく答えた。

「地獄には休憩時間も寝る時間も食事の時間もないわ。地獄には食事なんてないの」

「ふーん。地獄には労働基準法はないのね」と里穂は頷いた。

 マリアは微かな笑みを浮かべて頷いた。そして、マリアはじっと里穂を見つめた。

「過酷な環境のなかでも、地獄にいる罪人(つみびと)さんたちは決して死なないの」

「ふーん。地獄にいる罪人(つみびと)さんたちは不死身なのね」と里穂は目を見開いて頷いた。

 すると、マリアは鋭い眼差しで里穂を見つめた。

「地獄では体が血を流すだけではなく、心も血を流すの。地獄で罪人(つみびと)さんたちが残酷な刑罰を受けていると、心からも血が流れ出して、胸に赤いスペードの形の模様が浮かび上がるの。そして、その模様から血が霧のように吹き出すの」

 里穂は目を大きく見開いた。

「わあ、心が血を流すなんて、地獄って不思議な所なのね」

 マリアは里穂を見つめて優しく微笑んだ。

「里穂ちゃん。地獄は、とても恐ろしくて不思議な所でしょう?」

「うん」と里穂は頷いた。

 そして、里穂は鯨岡を食い入るように見つめた。

「鯨岡さんは、あの不気味な黒い門の向こうにある地獄の受刑場に入るのが怖くないの?どうして逃げようとしないの?」」

 鯨岡は澄んだ瞳で里穂を見つめた。

「たしかに怖いけれど、私は現世で“殺人”という大罪を犯したので、地獄で残酷な刑罰を受けるのは当然だと思います。だから、私は逃げようとは思いません」

 里穂は目を見開いて鯨岡をじっと見つめた。

「ずいぶん素直で誠実なのね。現世で殺人を犯して心の底では反省していない人とは、とても思えないわ」

「まあ、里穂ちゃん。ずいぶん単刀直入に話したわね」とマリアは微笑んだ。

「だって、目の前に聖母マリア様がいるのに、“罪の赦し”を嘆願しないのが不思議だわ」

「そうね。里穂ちゃんは、鯨岡さんが地獄の処刑場で受ける残酷な刑罰から逃れようとしないのを不思議に思うでしょう?」とマリアは里穂を見つめた。

「はい。現世では、罪を犯した人は刑罰から逃れようとして、裁判所の法廷で、自らの罪を正当化するか、情状酌量を求めるわ」と里穂は答えた。

「死んだ人間の体から脱出した魂は、神様が放つ不思議な“愛の光”を浴びると、素直で従順になるの。どんな悪人の魂でも素直になるの。だから、地獄に招かれた罪人(つみびと)さんたちは、決して言い訳をしないし、逃げたりしないの。みんな、おとなしく従順に残酷な刑罰を受けるの」

 里穂は瞳を輝かせた。

「わあ!神様って凄いのね。まるで魔法使いみたい」

 マリアは嬉しそうに微笑んで頷いた。

「うふふ。たしかに、そうね。神様はどんなことでもできる魔法使いみたいなかただわ」

 すると、上空から、「鯨岡さーん」と可愛い男の子の声が響いた。三人が上空を見上げると、青い空を白い衣を着た少年の天使が、こちらに向かって飛んでいた。まもなく少年の天使は芝生の上に舞い降りると、鯨岡に歩み寄り、彼の正面に立った。

「鯨岡さん。地獄の受刑場で準備ができました。私が受刑場までエスコートします」

 少年の天使が不気味な黒い地獄の門へ向かって歩き始めると、鯨岡は吸い寄せられるように天使の後ろを歩き始めた。天使は地獄の門まで鯨岡をエスコートした。やがて、二人は地獄の門の前に着いた。天使が地獄の門に向かって、「鯨岡さんをお連れしました」と話すと、不気味な黒い地獄の門の両開きの扉がゆっくり開いた。地獄の門の向こうには巨大な火柱がゴーゴーと音を立てて燃え盛り、罪人(つみびと)たちのもがき苦しむ悲鳴が響いていた。二人が歩いて門の中に入って行くと、扉はゆっくり閉じた。まもなく、地獄の門の向こう側の受刑場から少年の天使は空へ向かって軽快に飛び立ち、青い空のかなたに消えていった。

 里穂は、放心状態で少年の天使が青い空の中へ消えてゆくのを見つめていた。

「里穂ちゃん。地獄の門の向こう側が見えたでしょう?」とマリアは里穂を見つめた。

 里穂は蒼ざめた顔で、「燃え盛る大きな炎が見えたわ。それから、刑罰を受けている罪人(つみびと)さんたちの“もがき苦しむ悲鳴”が聞こえたわ。マリア様。地獄って、ほんとうに恐ろしい所なのね」と声を震わせて答えた。

 マリアは鋭い目でじっと里穂を見つめた。

「そうよ、里穂ちゃん。現世で語られているよりも、地獄は遥かに恐ろしい所なの。神様は本心では現世で死んだ人間の魂を地獄に招きたくないの。神様は大罪人の魂を仕方なく地獄へ招いているの。里穂ちゃんは、現世で大罪を犯さなくてよかったわね」

 里穂は澄んだ瞳でマリアを見つめ、「はい、マリア様」と頷いた。

「うん」とマリアは満面の笑みを浮かべて頷いた。

 里穂はマリアの優しい柔和な笑顔を見て心が和んだ。不気味な黒い地獄の門の前の広場に、しばしの静寂で和やかな雰囲気が漂った。

 すると、空から、「里穂ちゃーん」と可愛い少女の声が響いた。里穂が青く澄んだ空を見上げると、白いロングドレスを着た少女の天使が二枚の羽をゆっくりはためかせながら、里穂のほうへ向かって飛んでいた。

 マリアは里穂を見つめて微笑んだ。

「まあ。天国から神様のみ使いの天使さんが、里穂ちゃんを迎えに来たみたいね」

「わあ!私、やっと天国へ行けるのね」と里穂は満面の笑みを浮かべた。

 里穂はマリアを見つめると、「マリア様。罪と地獄と神様について教えて下さり、ありがとうございました」とていねいにお辞儀をした。

「どういたしまして」とマリアも満面の笑みを浮かべた。

 可愛い少女の天使は芝生の上に舞い降りると、里穂に歩み寄り、里穂の正面に立った。天使は可愛らしい笑みを浮かべて里穂を見つめた。

「里穂ちゃん、お待ちどうさま。私は神様のみ使いの天使です。神様の命令で、これから私が里穂ちゃんを天国へエスコートします」

 里穂は瞳を輝かせて天使を見つめ、嬉しそうに笑みを浮かべ、「はい」と答えた。

 天使が空に向かって飛び立つと、里穂の体は天使に吸い寄せられるように天使の後ろを飛び始め、マリアも飛び始めた。少女の天使が先頭を飛び、天使の後ろを里穂とマリアが並んで飛んでいた。三人は青く澄んだ空の遥か遠くにある天国を目指して飛び続けた。

 里穂は自分と並んで飛んでいるマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。天国と地獄はどのぐらい離れているの?」

 マリアは優しい眼差しで里穂を見つめた。

「天国と地獄は十億光年ぐらい離れているの。光の速さで十億年ぐらいかかる距離よ」

 里穂は目を大きく見開いてマリアを見つめた。

「ええ!天国に着くまで、そんなにかかるの?私達、何十億年も飛び続けるの?」

「安心して、里穂ちゃん。私達は今、神様から神秘的で偉大なエネルギーをいただいているから、光の何千億倍の速さで飛んでいるの。だから、十分ほどで天国に到着するわ」とマリアは微笑んだ。

 里穂は再び目を大きく見開いてマリアを見つめた。

「ええッ!私達、今、そんなに速いスピードで飛んでいるの。信じられないわ。宇宙ロケットよりも遥かに速いスピードだわ。神様のエネルギーは人智を遥かに超えているのね。神様って、超神秘的で超偉大だわ!」

「うふふ」とマリアは里穂を見つめて嬉しそうに微笑んだ。

 里穂は興味津々の眼差しでマリアを見つめた。

「ねえ、マリア様。天国って、どんな所なの?」

 マリアは優しい眼差しで里穂を見つめて微笑んだ。

「天国は神様の愛に包まれていて、喜びと幸せが溢れている所なの。誰もが幸せになれる素晴らしい所よ」

「わあ!私、早く天国に行きたいわ」と里穂は瞳を輝かせてマリアを見つめた。

「まあ、里穂ちゃんたら。うふふ」とマリアは優しい眼差しで里穂を見つめて微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地獄の前で立ち話 橘 漱水 @etoile-tachibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ