成る

笹野にゃん吉

成る

 その日ぼくは、大学の知り合いからの誘いで合コンに参加していた。男三人、女三人の計六人。全員が大学生だった。とはいえ、実質的に参加しているのは五人だけだ。除かれた一人は当然ぼくである。友達らしい友達もいないような人間が、まして異性と向かい合って、まともに話せるはずがなかった。


 さっきからずっとグラスを呷る手が止まらない。汗をかいているのがグラスなのか自分なのかも判らない。女の子と目が合うと、お尻のあたりがむず痒くなってきて、じっとしていることさえ難しかった。


 さいわい目の前の女の子はひとり喋りが好きらしく、気まずい空気が流れることはなかった。


 女の子の話をどこか遠くに聞きながら、またグラスを呷った。中はもう空だった。緊張のあまり、そんなことにも気づかなかった。底に残った氷が音をたてて鼻先に落ちてきた。


 慌ててグラスを置き、鼻についた水滴を拭った。耳が熱くなるのを感じながら、恐るおそる周囲を見回した。けれど、杞憂だった。誰もぼくの失態になど気付いていない。五人は楽しそうだった。


 店内の陽気な音楽は、彼らのような人々を祝福していた。ふわふわした赤い衣装のウエイトレスがやって来て、彼らの囲むテーブルに丸焼きの七面鳥を置いた。五人の男女が、めいめいに歓声を上げた。ぼくだけが俯いていた。


 世はクリスマス一色。

 街の賑わいが、ぼくを透明にしてゆくような気がして、ついついここまでやって来てしまったが――失敗だ。


 家で一人で過ごすのと、ここでみんなと過ごすのとに違いはほとんどない。みんなは華やかな夜の中にいて、丸焼きの七面鳥に驚いている。ぼくだけが違う。陳腐な映画を見ているような気持ちで、みんなの横顔をじっと見つめている。それを気持ち悪いとさえ言われないのだ。ぼくはここにいても、結局どこにもいない。


 それからどのような時間を過ごしたのか、あまり憶えていない。

 店を出る頃になると、ぼくを誘った彼が気遣わしげに尋ねてきた。


「二次会どう?」


 答えるのも面倒だった。それでも懸命に愛想笑いを浮かべた。


「ありがとう。でも、今日は遠慮しておくよ」


 彼はちょっとほっとしたように見えた。別れ際に「また」と言って手を振った。もう誘われることはないだろうと思いながら。

 

 やがて五人の姿が見えなくなってから、ようやくぼくは歩き始めた。

 アーケード通りは煌びやかだった。色とりどりの電飾が幻想的に瞬いていた。スピーカーからは『ジングルベル』の楽曲や軽やかな鈴の音色が聞こえていた。


「メリークリスマス!」


 突然、通りの先のほうで酔っ払いが叫び声を上げた。

 すれ違ったカップルが「なんか怖いねぇ」と親密そうに囁き声を交わすのが聞こえた。


 よろめきながら足を止めた。星のない空を仰いで、そっと息を吐き出した。白いものがこんもり膨れて、融けるように透けていった。叫びだしたい気持ちになった。


「プレゼントならもう買ってあるぞぉ! オレがサンタだコノヤロー!」


 いつの間にか、例の酔っ払いが近くまで来ていた。ふらついて倒れかけたその肩を部下らしき男の人が支えた。夜の街にはありがちなそんなワンシーンを見ただけで、ますます虚しい気持ちになった。街中で大声を上げる、こんな迷惑な人にでも、肩を貸してくれる人がいる。プレゼントを渡す相手がいる。


 ぼくにはいない。便宜上、友達と呼ぶような相手はいても、実際は知り合いの域を出ない。昔から変わらない。スマホの連絡帳に残っている名前は、ただそこにあるだけで誰と繋がっているわけでもない。


 これから先もずっと誰かと知り合っては忘れ去られてゆくのだろうか。何か気の利いたことを言わなければと焦りながらも、グラスを呷ることしかできずに、ついに何も言い出せない、そんな人生を続けてゆくのだろうか。


 孤独に圧し潰されそうになっていた、その時。

 ポケットの中でスマホが鳴った。

 取り出してみると、ディスプレイに『母』の名前が表示されていた。とたんに、ぼくは幼い子どもになった。テーマパークではぐれた母と再会した時のような気持ちになった。


 けれど母からの連絡は、ぼくの孤独を癒すものではなかった。

 電話に出るなり母は言った。強張った声音で、こう言ったのだ。


「すぐに帰って来なさい。おじいちゃんが危ないの」







 慌てて電車に飛び乗っていた。

 地元までは、さほど遠くはなかった。一時間もあれば着く距離だった。

 だが、今回の帰省は盆や正月のそれではなかった。普段なら目と鼻の先に感じられる距離が、いまは夜空に瞬く星との隔たりのようにも思われた。


 着の身着のまま、倒れ込むようにシートに腰を下ろした。すぐに発車を報せるアナウンスが聞こえた。ところが、いざ電車が動き始めると、それはのろのろとしてひどく緩慢に感じられた。


 もっと速く、もっと速く――!


 思わず前のめりになって、膝の間で両手を組み合わせていた。信じたこともない神様にひたすら祈りだしていた。


 同じ文言を繰り返していると、やがて別のものが脳裏に流れ込んできた。最初は磨りガラスの引き戸が、ただそこにあるだけの静止画だった。ところが、それは次第に時を刻み始め――ガラガラと引き戸が動き出し、狭い三和土に上がり框、薄暗い廊下が見えてきた。


 祖父母の家だとすぐに解った。幼い頃の記憶だった。

 祖父母の家は実家のすぐ近くにあって、学校の帰りによく立ち寄っていたのだ。祖母はお菓子作りが趣味で、冷蔵庫に置かれた手作りプリンが、ぼくの目当てだった。


 とはいえ、プリンを平らげても、すぐに帰るのは稀だった。両親は共働きで家に帰っても一人だったし、宿題以外にやることもなかったからだ。暗くなるまで祖父母と一緒にテレビを見たり、縁側から勝手に入ってくる猫と遊んだりして過ごしていた。


 帰りには決まって祖父が家まで送ってくれたが、最初はあまり嬉しくなかった。祖父は寡黙な人で、家に着くまで一度も口を開かないことも少なくなかったからだ。はっきり言って苦手だった。むっつりと黙っている大人からは威圧感のようなものが感じれた。


 けれど、祖父は決して怖い人ではなかった。

 むしろ、ぼくのことを気にかけてくれていた。


 寒さの厳しいある日のことだった。

 炬燵の熱でかさついた足をボリボリ掻きながらテレビを見ていたぼくに、珍しく祖父が声をかけてきたのだ。


「外で遊ばんのか?」


 初めは耳を疑った。外で遊ぶなんてとんでもなかった。雪でも積もっているなら話は別だが、それもなければただ寒いだけだからだ。


 祖父の真意が他にあるのは明らかだった。友達と遊んだりしないのか。友達はちゃんといるのか。祖父は暗にそう問いかけていたのだ。


 ぼくは俯いただけで何も言わなかった。


 こんな時、大人たちは決まって友達を作るための努力を説くものだ。祖父もそんなことを言いだすのだろう、と内心うんざりし始めていた。けれど、祖父はそのようなことは言い出さなかった。ただ、部屋の隅っこを指差してこう尋ねてきた。


「あれでもやらんか?」


 祖父が指差したのは箪笥の脇にさみしく置かれた将棋盤だった。

 ぼくはぽかんと祖父を見返した。小学校低学年のぼくにとって、それは忘れ去られたオブジェのような代物で、ゲームの類だとは知らなかったのだ。


「やり方、教えてやる」


 呆然としていると、祖父はさっさと将棋盤を運んできた。箪笥の上から小さな木箱をふたつ取ってきて、一方をぼくに渡した。


「おんなじようにやってみぃ」


 木箱の中には駒が入っていた。祖父は自分の駒を並べながら、丁寧にその配置を教えてくれた。玉は中央、香車は両角、飛車と角行は……ああ違う、それじゃ鏡や。箸持ったら相手のは左側に来るやろ。あれとおんなじで――。


 あの日を境に、祖父は、ぼくの遊び相手になった。

 もっとも、よく言えば誠実、わるく言えば不器用で、相手が子どもだろうと勝ちを譲ることは決してしない人だった。ぼくが泣き喚いて暴れたのは一度や二度ではなかった。


 それでもぼくは、何度も祖父に挑み続けた。


 やがて、ぼくは祖父から強さを学んだ。沈黙。冷静にあることこそが強さの秘訣だと知った。ぼくは祖父を真似るようになっていた。盤上に目を凝らし、悪態も吐かず、唸りだけを漏らして黙考した。そうすることで一手・二手・三手と、視野と視野の狭間に先の盤面を描きだすことができた。


 手ごたえは、確実にあった。次第に祖父が手を止める回数が増えた。試合時間が延びていった。勝てはせずとも王に近づいてゆくことが、幼いぼくの誇りだった……。


「じいちゃん……」


 シートの上に折った体を起こし、窓辺に寄りかかった。吐いた息で窓が曇った。

 電車のかすかに揺れていた。冷たい闇が外を流れていた。遠くにバッティングセンターのどぎつい明かり。それがいやに目に沁みた。


 祖父と将棋を打たなくなったのは野球を始めてからだ。

 教室の隅っこでぼんやり過ごしていたぼくに、ミツルくんが話しかけてきてくれたのがきっかけだった。ミツルくんは人懐っこくて、いつも教室の中心にいた。彼は、ぼくをその輪の中に引き入れてくれたのだ。


 そのミツルくんとも、もうろくに連絡をとっていない。成人式で再会した時、彼はぼくのことを覚えてくれていたし、気さくに話しかけてくれもした。連絡先だって交換してくれた。なのに、ぼくは一度も自分から連絡を送ったりしなかった。いつだって受け身だった。自分から歩み寄って疎ましがられるのを恐れていた。


 そして今になって、祖父と会えなくなるかもしれないその現実を前にして、初めて過ちに気付く。


 ありがとうも、大好きも、自分自身が発しなければならない言葉だ。その相手がいなければ伝えることのできない思いだ。受け身で居続けたがゆえに、ついに伝えきれない思いがあるなんて、ろくに考えもしなかった。


 ふいに電車が前後に揺れた。電車が止まろうとしていた。

 それに気付くなり、座席から立ちあがっていた。はやく止まれ。はやく止まれ。電車のドアが開くまでの時間がひどくもどかしかった。今すぐ窓を叩き割って外に飛び出してしまいたかった。


 やがてホームに人が吐き出されると、ぼくはその流れの中を突っ切って走った。タクシーを捕まえて早口に病院の名を告げた。運転手さんは、慌しい様子と行き先からおおよそ事態を察してくれたのか、すぐにも車を出してくれた。


 バックミラー越しに頭を下げて、ぼくはスマホを見た。連絡はなかった。

 それでも胸のざわめきは消えない。今にもスマホが震え出しそうな気がする。ひとりでに窓の外で景色が流れてゆく。皮膚の表面を、チリチリと電流が走るかのような痺れが襲う。


 それから間もなく、最悪の事態が訪れた。勢いよく夜を背後に吹き流していたタクシーが、次第に速度を落とし始め、ついには止まってしまったのだ。


「うーん、マズいなぁ……」


 指先でハンドル叩きながら運転手さんが呟いた。

 どうやら赤信号に止められたわけではないようだ。近くに信号の明かりはない。

 ただし、ブレーキランプの赤が眼前を埋め尽くしていた。その向こう側、真っ赤な明かりが真横に闇を薙いでいる。緊急車両の明かりだった。ぼくは後部座席から身を乗り出した。


「事故ですか?」

「みたいだね。この感じじゃしばらくかかりそうだ」

「じゃあ降ります!」


 運転手はやはり何も聞かず、ただ頷いて、メーターの金額を示した。ぼくはお札を押しつけるように手渡した。


「お釣りはいいです!」

「気を付けてねぇ!」


 運転手の声が背中を叩いた。その心遣いが身に沁みて、冷たい外気に涙がにじんだ。タクシーに一礼して、ぼくは走り出した。苛立つランプの傍らを駆け抜けた。車は一向に動く気配がないけれど、ぼくはあっさりと事故現場を追い抜いた。


 とはいえ、タクシーがすぐに止まってしまったので、病院まではまだ距離がある。体力にはさほど自信がない。全力を維持できるだろうか。


 いや、するんだ。


 唇を噛んで、ギアを上げた。火照った体を冷たい夜気が撫でた。ぐんと景色の流れが早くなった気がした。通行人に嫌な顔をされながらも、その脇をトップスピードで走り抜けた。たちまち噴き出した汗が散った。耳もとでドッドッと心臓が鳴っていた。


 気だるげな自転車を追い越し、リードを引きちぎらんばかりの大型犬を挑発し、点滅する歩行者信号へ飛びかかるように横断歩道を渡った。


 やがて渋滞した通りを折れ、病院前の通りに出た。先程の渋滞が嘘のように、そこは静まり返っていた。邪魔するものは何もなかった。けれど、ぼく自身の体が悲鳴を上げていた。


 息を吸う度にヒリヒリと肺が痛んだ。足は鉛のように重かった。森閑とした夜の只中、心臓の音ばかりがやかましかった。


 けれど、足を止めるわけにはいかない。タイムリミットまで、あとどのだけの猶予があるか分からない。もし、その時が来てしまったら――そう考えるだけで胸がきゅっと縮まる。それが、ぼくの呼吸をまた乱す。


 通りの先に、信号機の赤色がぽつんと浮かんでいた。それがグラグラと揺れていた。いや、ぼく自身が揺れていた。足元ががふらついて前に進まない。姿勢を正そうとすると、余計に息が荒くなる。


 いいや、それでも、ダメだ。止まってはいけない。


 自分自身に何度もそう言い聞かせた。それでも、ぼくの足は、いつの間にか止まっていた。手は膝の上にあった。うるさい鼓動の隣で、ぜぇぜぇと喘ぎが鳴っていた。無理やり息を吸いこむと、空気が塊となって喉につっかえた。たまらず、むせ返った。込み上げる涙の向こうには、もう目的地が見えていた。


 民家の頭上、規則正しく並んだ無数の明かり。剣山で穴を開けた紺青の画用紙を、向こうから照らしているかのような――あれが病院だ。


 あの明かりの中のどこかに祖父がいる。

 そう思った途端、腹の底にちからが蘇った。

 両膝をバチンと叩き、たんまり息を吸いこんだ。まだ走れる。地を蹴った。その瞬間だった。ふいに、目の前の街灯が爆ぜるような光を発した。


「うわあッ!」


 ぼくは思わず仰け反って、腕で目元を覆った。

 すると、今度は街灯が狂ったように瞬き始めた。


 カンカンカン! カンカンカン!


 それは光を明滅させるたびに、鍋を叩き付けるような激しい音を鳴らした。その上、小刻みに震えていた。今にも破裂してしまいそうに見えた。


 突然の出来事に、ぼくは慄然としていた。踵がザリと音を立てた。後退っていた。

 と同時に、街灯の明かりが息絶えた。先程までの光景が嘘のように、眼前にぽっかりと闇が生じた。静寂がざわめき出した。


 何が起こったのか。粟立った腕をなでながら考えた。

 けれど、その疑問は瞬時に霧散した。


 闇のなか。

 人影があるのに気付いたからだ。


 心臓の音が、鼓膜の裏側に蘇った。息をするのを、ぼくは忘れた。

 ついさっきまで、そこには誰もいなかったはずだ。

 なのに今、そこに人型のシルエットが佇んでいる。


 またザリと踵が音をたてた。それが聞こえたのか、人影がゆっくりとこちらに向き直った。闇の中で、その目がきらりと光った。何者かはおもむろに歩き出した。そして、ぼくを包んでいる街灯の明かりの中へと踏み入って来るのだった。


「……!」


 ぼくは動けなかった。

 恐かったからではない。純粋に驚いていたからだ。


 光がたちまち人影の闇を拭った。

 けれど、その顔に刻まれたシワの影までは拭えなかった。

 静けさに満ちた目が、ぼくを見上げた。


「じい、ちゃん……?」


 見間違いようがなかった。それは祖父だった。ここにいるはずのない祖父が目の前に立っているのだ。じっと、ぼくを見上げているのだ。


 ふいに悲しみが込み上げてきた。何が起きているのか、不思議とぼくは状況を理解していた。祖父の身に何かが起こった――だから祖父のほうが、ぼくに会いに来てくれたのだと。


 将棋盤を挟んで、上目遣いに盗み見た祖父の姿は、あの頃のぼくには、とても大きく見えた。なのに今は、ぼくの方が祖父を見下ろしていた。


 ああ、こんなにも……。


 ぼくは拳を握って、祖父と向かい合った。鼻の奥がつんと痛んだけれど、祖父の姿を目に焼き付けるために、こみ上げるものを必死に堪えた。


「……」


 祖父はちっとも変わっていなかった。死の間際でさえ寡黙なままだった。ただ口の端をわずかに上げて微笑のようなものを浮かべてみせた。


 それが如何にも祖父らしくて、ぼくは笑った。盤上の駒ではなく祖父を見ながら。仏のように優しげな、その微笑みを受け入れながら。そして言った。


「ありがとう、じいちゃん」


 やっと言った。なんとか言えた。


「じいちゃんとやった将棋、ずっと憶えてる。楽しかった。ほんとうに楽しかったよ」


 祖父はやはり何も言わない。居住まいを正したように小さく頷く、それだけだ。昔の祖父だったら、あとは緑茶でも淹れて新聞でも読み始めただろう。けれど今は違った。祖父はおもむろに片手を伸ばしてきた。手のひらを上向けて何かを握っていた。


「なに?」


 その拳を見下ろし、目を上げると、しかしそこに祖父の姿はもうなかった。

 慌てふためく間もなく、ポケットのスマホが震え出した。呆然とそれを耳に当てると父の声が聞こえてきた。おじいちゃんが亡くなった、と父が言った。






 病院に到着したのは、父の電話があってから数分後のことだった。

 祖父の死に際に立ち会えなかったぼくを、両親と祖母は慰めてくれた。けれど三人の知らないところで祖父に会っていたこともあって、後悔のようなものは湧いてこなかった。祖父は死を迎えるその時にまで、ぼくを救ってくれたようだった。


 両親の話によると、いまはエンゼルケアの最中らしい。それが終わったら祖父は我が家に帰って来るそうだ。「だから、後でゆっくりおじいちゃんを労わってあげればいい」と父は言った。手続きがあるらしい母だけを残し、ぼくら三人は先に家へ帰ることになった。


 踵を返したその時だった。

 忙しない足取りで看護師さんが駆け寄ってきた。何事かと振り返ってみれば、看護師さんが重ねた両手を、ぼくらの前に突き出した。


「これ、おじいさまが握っていたんです」


 看護師さんの手にのっているものを見て、ぼくは目を瞠った。父と祖母の間をすり抜けて歩み寄り、恐るおそるそれを摘み上げた。将棋の歩の駒だった。それをぼくの横から見下ろして、祖母が言った。


「そういえば、あの人が倒れた時、駒があたりに散らばってたね」

「きっとその時、とっさに摑んだものでしょう。おじいさまは将棋がお好きだったんですか?」


 と看護師。

 駒を見下ろしたまま、今度はぼくが答えた。


「大好きでした。小さな頃、よく一緒にやったんです。子ども相手にも容赦なくて。一度も勝てませんでした……」


 そう言った、最後のほうは声の震えを抑えられなかった。ミツルくんと出会う前、祖父を負かしたい一心で将棋に打ち込んでいたあの頃、一度だけ祖父が多くを語ったことがあった。何の変哲もない歩の駒を見つめていると、それを思い出さずにはいられなかった。


 あの時、祖父は対局を始める直前になって、突然こう言ったのだ。盤上に置かれた歩の駒を指差しながら。


「じいちゃんは、これと同じじゃ」


 当然、その意味は解らなかった。目の前のしわくちゃの顔とつるりとした歩の駒を見比べたところで、共通点など何もないように見えた。だから、率直に意味を訊ねてみた。すると祖父は、歩の駒をひとつ前進させてから答えた。


「歩は、こんな風にひとつしか進めんじゃろ? その上、前にしか進めんし後ろにも戻れん。横にも斜めにも行けん。そういう不器用な駒じゃ。じいちゃんもな、そうやって、ちょっとずつちょっとずつ進んでゆくうちに、いつの間にかこんなジジイになっとった」


 祖父はそこでいったん言葉を区切った。その時、口の端がわずかに持ち上がったように見えた。微笑程度のものに過ぎなかったけれど、祖父がそんな顔をするのはひどく珍しいことで、ぼくはちょっと狼狽えた。


「それでな、思うんじゃ。きっと人というんは大抵が歩の駒みたいなもんやろうと。だから飛車や角行なんかは一つずつしかないけど、歩はこんなにあるじゃろう?」

「じゃあ、ぼくも歩と同じってこと?」

「そうかもしれん。でも、それを恥じるようなことはないぞ」


 祖父は歩の駒を摘み上げると、それを裏返してピシッと盤上に打ちつけた。赤字のとの字は、少し色が剝げていた。祖父の乾いた指先が、その上に添えられていた。


「一歩一歩、着実に進んでゆけば、不器用な歩も、やがては金に成るんじゃ。そしたら歩みは遅いまんまでも、器用に色んな所へ行けるようになる」


 力強く祖父は言った。

 上目遣いに、ぼくは祖父を見つめた。


「ぼくもいつかは金になれる?」

「成れる」


 断言した。その口調に迷いはなかった。

 





 祖父の葬儀を終えて、ぼくは一晩、祖父母の家に泊まることにした。

 祖母は早くから寝てしまい、居間にはぼく一人しかいなかった。


 やわらかな静寂の中、ミツルくんにメッセージを送った。何ということはない。「元気?」ただ一言そう尋ねただけだった。

 気の利いたことなど言えない。ぼくは飛車や角行ではない。香車でも桂馬でもない。不器用に、ちょっとずつ進んでゆくしかない。


 無意識のうちに止めていた息を吐き出して、部屋の隅っこから将棋盤を運びだす。ポケットに手を入れると歩の駒がある。それを盤上に打つ。ピシッ。森閑とした夜に、その澄んだ音が鳴り響く。


 それとほぼ同時だ。

 炬燵の上のスマホが震え出したのは。


 驚きに飛び上がって、すぐさまスマホを手に取った。ミツルくんからの電話だった。すっかり慌てていたせいで将棋盤に足をぶつけた。盤上から駒が転げ落ちた。


「連絡ありがとう。久しぶり」

「うん、久しぶり」


 ミツルくんの声を聞きながら、ぼくは落ちた駒の前に屈み込んだ。落ちた拍子に、その表裏が逆転していた。少し剝げた〈と〉の赤字が、目の前にさらけ出されていた。

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成る 笹野にゃん吉 @nyankawa

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