15.喜雨
雲は去り、翌日は眩いほどの快晴だった。永寿宮の月台に設けられた席で、女二人が杯を傾けている。透き通った玻璃瓶には西方渡りの葡萄酒。
「昼間から酒とは、中々背徳的ですね」
「飲まなきゃやってられないわよ。酷いものを見たわ」
夜光石を削って作った杯を陽の光にかざして、皇太后がぼやいた。確かに、権謀術数渦巻く後宮で暮らしていても、流血そのものを目にする機会は稀なはずだ。
「……信じていいのよね」
「なんのことやら」
「ぶってごめんなさいね」
「ぶった?」
呉三娘はしばし宙を見つめ、それから皇太后に平手打ちされた左頬を撫でた。
「ああ、あれ。仔猫の一撃のようでしたよ」
「言うわね。それで」
皇太后が呉三娘に向き直り、侍女たちを追い払うように手を振った。
「一体何に怒っていたの」
人払いがされたのを確認してから、皇太后は呉三娘に尋ねた。
永寿宮は内廷と外廷の境目に位置する、先帝の妃嬪たちの暮らす宮だ。その規模は皇帝と皇后の住まいである後三殿に次ぐ。なので、その正殿の正面に設けられた月台は広く、そこから人が退けば話を聞かれる心配はない。
「今回の件の背後には、あの人が関わっていたんです」
あれから、まだ御史台の取り調べを受けていた芹太常卿と莞太医にも太皇太后の関わりについても確認してもらった。芹太常卿は、この上さらに謀反と源との内通の罪を負うことを恐れたのか何も言わなかったが、莞太医は芹充媛の死を知ると、何もかも諦めたのか口を開いた。
果たして、そもそもの発端、莞太医と芹充媛の密会の時点から、太皇太后が関わっていたことが明らかになったのだった。
彼はこう言った。
「芹充媛様は私の憧れでした。あの方が太医を召されると聞いた時、同僚に頼んで何度か往診を替わってもらったのがそもそもの発端です。
往診の多さから私の恋慕を見抜いた太皇太后陛下は、太上皇帝陛下の一派を手引きすることと引き換えに、私の思いを遂げさせてくださるとおっしゃった。
許されぬことだとはわかっておりました。それでも一度だけでもいい、甘露をこの手にできるならと、私はその誘いに乗ったのです」
太皇太后は息のかかった女官を不染殿の当番にし、娯楽に飢えていた侍女たちの間に通俗小説を流行らせた。それから、少しばかり理性が弱まる薬を、体に良いものだと偽り芹充媛宛に送った香に忍ばせ――
「でも、そんなことをして一体何の利益が?」
「後宮にあの人が好きに使える牙城を作ること。今の後宮はあなたと楊宰相が作り上げたものです。もちろん、宦官や女官には未だに大きな影響を持っています。しかし妃嬪というのは別格です。物や人を好きに運び込むことができる。奇しくも芹充媛が証明したように」
「それで?」
「芹充媛の弱みを握り、彼女を通じて伏兵を後宮に潜ませる。時が来ればここを制圧するつもりでしょう。ここは現政権の中心人物の子女が集まっていますから。
――そして彼女の息子を連れ戻し、重祚させる」
最後の一言で、皇太后は顔色を変えた。
「そんな馬鹿な!」
「いいえ、ある程度源と話はついていると見ていいでしょう。芹充媛を下げ渡すと言ったそうですから」
「は……何てこと」
軽い音を立てて、皇太后が椅子に背を預けて杯を呷った。
「じゃあ、芹充媛は」
「未熟さ故の無知と浅はかさにつけこまれたのでしょうね。
とはいえ、名家の息女として、正二品の妃嬪として後宮に入った以上、言い訳にもなりませんが。何より、荏喜雨を殺したのは彼女の意志ですし、彼女の行いで八人もの侍女と女官、宦官が死ぬことになったのです」
皇后が皇太后の杯に葡萄酒を注ぎ、自分の杯にも注いだ。二人は無言でそれを飲み干した。
「備えなければ」
「ええ、備えなければ」
親子ほどに、というほどには年の離れていない二人の女は、再び酒を注ぐと飲み干した。
「とりあえず今は飲みましょうよ」
「賛成」
やるせない思いの昼下がりの酒盛りは、陽が傾くまで続いた。
☆
呉三娘は手紙を認めている。ようやく見つけ出した荏喜雨の母親に向けた手紙だ。
窓の外は、再びの雨夜。乾燥した気候の央都には珍しく、この秋は雨が多いようだった。
「喜雨」という名もまた雨にちなんだものだが、これは春の雨を喜ぶ詩題であり、元は知識人階級の出であろうと思われた。慈母院の記録から探し出した父親は、やはり元は官吏で、上官に反抗したために冤罪を着せられて遠流となっていた。彼は遠流先で病死していたが、教坊の妓女となっていた母親は生きて見つけ出すことができた。その彼女に向けて、娘の死を伝える手紙を書いている。
「好雨時節を知り、春に当たって乃ち発生す。風に随て潜かに夜に入り、物を潤して細やかにして声無し」
春夜喜雨と題された詩を、呉三娘は小さく吟じた。
「あなたの両親は、どんな気持ちでこの名をつけたのでしょうね」
あの夜、月光の下で手にした小さな温もりを思い出し、きっと幸せになって欲しかったはずだと思った。
これを書き終えたら、芹充媛と命運を共にした侍女たちの家族への対応も考えなければ。芹家は断絶、関わった者たちもそれぞれの罪に応じた罰を受けた。侍女たちの命は救えなかったが、その家族は責めを負うべきではないと呉三娘は思う。芹太常卿はともかく、後宮に入った侍女たちが、易々と家族と連絡を取れたはずはないのだから。
偽善的かもしれない。けれど、与えられた環境の中で、精一杯自身の信じる義を貫くこと、それしかできないのだ、今は――今は。
もはや、名ばかりの皇后と後宮でままごとに興じていることはできない。皇后として、最強の戦士として、立たねばならない日が早晩来る。呉三娘のこれは、予感ではなく、確信だった。
<第三話 了>
名ばかり皇后の教育的指導――転生双子侍女を添えて―― 横浜 山笑(旧山笑) @yamawarau
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