14.我は悪神なり

 ひとっ飛びして後宮に戻った呉三娘は、すぐさま着替えて皇后宮を出た。腰には剣を佩いて。芹充媛が出産したことは、間もなく太皇太后にも伝わるだろう。暴室の場所は、当然太皇太后も知っている。彼女の手の者が張り込んでいると考えるべきだ。赤子の姿は隠せても、声は隠せない。たとえ、声に気づかなかったとしても、血に塗れた手で明明が笛を吹く姿は怪しまれただろう。


 呉三娘は御花園の隠し戸から地下牢へと入り、その房へと足を向けた。寿珪が鍵を開け、鉄格子に縋る芹充媛の前に立った。

 黒髪は乱れ、血に染まった衣を足に絡ませたまま、芹充媛は皇后に跪いた。


「皇后陛下、お慈悲を!」


 かすれた声で縋りつく芹充媛を、呉三娘は冷たく見下ろした。この期に及んで――


「あの子はどこへ? お願いです、私の小さな赤ちゃんは?」


 しかし、哀願する芹充媛の言葉も表情も、今までとは違っているようだった。

 呉三娘は母性本能というものを信じていないが、自らより小さき者を慈しむ心というのは理解できる。芹充媛は自分よりか弱い者を初めて抱いて、心境に変化があったのかもしれない。

 呉三娘はやや視線を緩めた。


「あなたは死産し、赤子はそこに横たえてある」


 臨時の産屋の片隅に、血に塗れた布の塊が転がっていた。明明が作った替え玉だ。芹充媛の目に理性が戻り、希望とともに皇后を見上げた。


「あの子は、罪人の子です。あの……ああ、親の罪を子が背負うことなど、ありませんよね?」


「石くれも玉も、石は石だからね」


 あの日の聴世殿での言葉を呉三娘は口にした。


「……あ、ああ、私は」


 芹充媛の瞳に、希望と後悔の色が宿り、がくりと床に手をついた。そしてその唇が、「喜雨」と自らの殺した娘の名を紡いだ。


「私は、なんてことを」


 それから、床に落ちた涙は、自らの命運を嘆くものではなく後悔の涙であろうと呉三娘は思いたい。

 ひとしきり芹充媛に泣かせた後、呉三娘は口を開いた。


「明月」


「え?」


「明月だ。私の名づけでは不満かもしれないけれど。死産であってもきちんと弔う」


「明月……」


「今日からは、私は散る春より、秋の明月を愛しむことになるだろうね」


「……何年経っても?」


「何年経っても」


 芹充媛の問いに、呉三娘は小さくうなずいた。芹充媛はその答えを噛みしめるように、強く目を瞑ってから身を起こし、床についていた手を、胸の前で組んだ。


「お慈悲に感謝、いたします」


「そうか」


 この娘は自分勝手で、自らの愚行の巻き添えで何人もの侍女を死に至らしめた。今更我が子可愛さに悔い改めたところで、やはりそれも自分本位な思考というべきだろう。だが、呉三娘は間もなく死ぬ者に鞭打つ気にはなれなかった。

 だから、彼女は黙って剣を抜いた。悔い改めたとしても、生かしておくことはできない。秘密を知る者の中で、最も口を割る可能性が高いのは彼女だった。


「あなたは死ななければならない。

 皇帝陛下の後宮にあり、充媛という地位にありながら不義密通の罪を犯し、皇帝の血をひかぬ子を宿し、産み落とそうとまでした。

 さらには皇帝陛下をはじめ数多の命を危険に晒すと知りながら、わが身可愛さに後宮に火を放ち、庇護すべき侍女を殺した。

 皇太后様が毒がどうのと拘るから、今日まで処刑が延期されていたが、もう我慢ならぬ。今、ここで、この皇后呉三娘自ら死を与えよう」


「はい」


 芹充媛は皇后を見上げた後、従容として頷いた。


「ただ、死ぬ前に一つだけ、皇后陛下にお伝えしたきことがあります」


「何? 命乞いなら受け付けないよ」


「いいえ、違います。皇帝陛下のために、お伝えしたいことがあるのです」


「聞こう」


 抜き身の剣を下げたまま、呉三娘は芹充媛を促した。


「私と莞太医の罪を知っていたのは侍女だけではありませんでした。太皇太后陛下もご存じで、私の逃亡を手助けし、密通を黙っている代わりにある交換条件を――」


 全てを話し終えた芹充媛は、姿勢を正すと呉三娘に静かな目を向けた。呉三娘も黙って、刃を娘の喉へ当てる。


「慈母神のお慈悲のあらんことを。彼岸にて、我が子と再会できるといいな」


「……はい」


 娘の声が震えて、涙が落ちた。その唇が小さく、慈母へ捧げる祭文を唱え始める。


「充媛、芹甘露。目を閉じて、愛する者の姿を思い浮かべなさい」


 そして、牢獄に空気を裂く鋭い音が――



 深夜の御花園の築山の前には、時ならぬ人だかりができていた。


「皇后がここにいることは分かっているのよ。汚らわしい不義の子を逃がしたのもね。皇帝陛下の御代を危険に晒すような真似は、国母として見逃すわけにはいきません」


「皇太后の言う通りだ。今すぐそこをどいて、皇后の元へ連れて行きなさい」


 騒いでいるのは皇太后と太皇太后。普段ならば決して手を組まない二人だが、皇統を守るという一点においては思惑が一致するらしい。

 暴室への入口を守るのは嘉玖だ。いつも通りの飄々とした表情で、築山の前に立ちはだかって、何を言われようとも微動だにしない。その姿は侍女というより兵士のようだった。


「ええい、もうよい! 押し入る!」


 太皇太后がしびれを切らし、意を受けた侍女が嘉玖の腕を掴もうとした、その時。


「一体何の騒ぎですか」


「皇后……!」


 血臭とともに、築山の奥からふらりと呉三娘が姿を現した。両后の侍女が持つ明かりに照らし出されたその姿は、後宮の花園には似つかわしくない凄惨な姿で。その姿を見た者は得体のしれない恐怖に身を震わせた。

 白地の襖と翡翠色の裙には大量の血痕が飛び散り、それは呉三娘の顔にもまだらに模様を描いている。手に下げた剣はまだ血を滴らせており、何より呉三娘の表情が、悪鬼のごとく怒りに歪められていたからだ。


「芹充媛は、この皇后呉三娘が成敗いたしました」


 平坦な声で言うと、彼女はひゅ、と剣を鋭く振って血を落とし、鞘に納めた。


「どうだか! そこをどきなさい、私が確認するわ」


 いち早く正気を取り戻した皇太后が、呉三娘と嘉玖を押しのけて築山の通路の中へと姿を消した。

 残されたのは、太皇太后と皇后呉三娘のみ。霧雨は止み、薄い雲の向こうの月明かりが、雨露滴る庭園に白髪交じりの老女と血をまとわせた若い女の姿をくっきりと浮き上がらせた。


「今更取り繕おうと無駄なこと。皇后がだらだらと処刑を引き延ばしていたのは、赤子の命を助けるためであろう?」


「戯言を」


「無礼な!」


 鞭のように鋭い叱責が太皇太后の唇から放たれたが、呉三娘は動じる様子もなく、ただ、獲物を狙う獣のように目を細めただけだった。鬼気迫るその表情に太皇太后がたじろぐ。


「皇太后様が戻れば分かること。無駄口を叩かずにお待ちになればよい。

 私ほど今上陛下の御代の長久なるを望む者はいない。源に故郷を踏みじられた、樨国公の娘たるこの私ほどに。それはあなた様もご存じのことでしょう?」


「……っ」


 太皇太后が、呉三娘の気迫に気圧されて絶句した。呉三娘も口を閉ざして、皇太后が戻るのを待つ。


「あのような……あのような無慈悲な殺し方をする必要があったのですか!? 罪もない赤子を!」


 さほど時を置かずして、呉三娘の背後から衣擦れと足音がして、青ざめた顔の皇太后が戻ってきた。その手は血に汚れている。彼女は呉三娘の正面に回ると、その頬を思い切り平手打ちした。

 皇太后の繊手は震え、目には涙が浮かんでいた。呉三娘は芹充媛は斬ったが、赤子の形代には何もしていない。大した役者である。


「皇太后、確かに赤子は死んでいたのか?」


「ええ、血に塗れて死んでおりました……っ」


「何と。残酷なことを」


 太皇太后も顔を歪めて呉三娘を睨みつけた。


「私はね、皇后。子を亡くしているの。まだ赤子だった、小さな息子を、他の妃が仕込んだ毒によってね。苦悶に歪んだあの小さな顔、何年経っても忘れられるものではないわ。だから私は、赤子への非道な仕打ちだけは、絶対に許せないのよ」


「まったく……人間のすることではないな」


 空を覆う雲が途切れ、月の白い光が呉三娘の顔を照らし出した。色の薄い瞳の瞳孔が――人ならざる縦長の、猫のような――が細まり、金色に輝いた。


「人間ではない、か」


 風もないのに、呉三娘の髪が僅かに膨らむ。一歩、彼女は太皇太后へと歩みよった。


「私の西方での武功はお聞き及びでしょう。金の兜を被った鬼神。敵と見れば殺し、殺し、殺しつくして血の海を作る者」


 そして、ふと気づいたように頬についた血を拭い、血の付いた手を見て唇を歪めた。平凡なはずの顔が、今だけは古の女神のような威厳と存在感を放ち、見る者を圧倒する。


「我は悪神なり。怒りと憎悪を糧にし、恐怖と殺戮を齎す。我は血と死と復讐の化身なり」


 呉三娘は微笑んだまま、静かな声でそう言った。それから、少し背を屈めて太皇太后の顔を覗き込んだ。


「あなたが前にしているのは、そういう存在なのですよ、白鴛はくえん


 血で汚れた手で、そっと太皇太后の頬を撫でると、老女は大きく身を震わせた。そしてそれを恥じるように呉三娘を睨み返したが、声は出ない。


「ああ、汚れてしまいましたね。ふふ、拭いたらもっと汚れてしまった。血濡れた手でどれだけ拭いても、元通りにはならない。ねえ、白鴛。

 我が故郷を燃やした者を、この央都に連れてくる者がいたならば、私がこの手で必ず殺してやる。必ずだ。それをよく覚えておいて下さいね」


「……っ。この、化け物が……!」


 太皇太后がかすれた声で罵倒し、呉三娘の手を振り払った。皇太后は空気に飲まれて唖然としている。


「皇帝は我が孫、私は前の皇帝の生母ぞ! 忠も孝も弁えぬ野蛮人め!」


「これは大変失礼いたしました。叩頭してお詫び申し上げましょうか?」


 呉三娘が太皇太后を見つめたまま、大げさに両手を広げて体を折り曲げて見せる。微笑んでいるが、服従しているわけではないのは、太皇太后にもわかった。


「もうよい! 帰るぞ!」


 怖気が走ったかのように太皇太后は身震いをして、体を翻した。侍女たちが慌てて後を追う。


「……一体何なの?」


 皇太后のぼやきに答える者はいなかった。

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