13.皇太后謎の粘り

 皇后宮の執務用の卓で、呉三娘は唸り声をあげた。その手には蘭の花が美しく漉かれた紙があった。皇太后からの手紙だ。

 芹充媛は、後宮の正式な牢獄である暴室へと繋がれた。莞太医と芹太常卿はそれぞれ刑部と御史台に引き渡されている。暴室は御花園の地下にあり、入口は奇岩で作られた巨大な築山の中と他にも数か所あるが、その場所は皇后と宮正、鉄砂宮の限られた幹部しか知らない。

 後宮の貴人への処刑の通例に従い、芹充媛には毒を賜ることになった。毒にはいくつか種類があるが、呉三娘はできる限り苦痛が少なく、速やかに命を奪うものを選ぶよう、指示を出していた。

 出していた、のだが。


「何の毒を使おうが同じじゃないね」


「まだ晶毒にこだわられてるんですかあ?」


「うん、皇帝陛下を裏切り、皇統を危険に晒した者には生半可な毒では足りぬと仰せでねえ。侍女には何でもいいとは言ってくれたんだけど。充媛は、美しい容姿が崩れ落ち、苦痛に苛まれながら死ぬのが相応しいって」


「だけど材料がないんでは?」


「そう、使われなくなったのも、原料の入手が困難だからだね……芹家にならあるかもしれないけど」


「あ、ああ~」


 寿珪が気の抜けたような声を上げた。呉三娘も全く同じ気持ちだった。

 皇太后は、処刑までの時間を引き延ばしたいのだ。芹充媛の腹の子を助けるために。どういうわけか知らないが、皇太后は慈悲の心を発揮することにしたらしい。皇太后が手紙の中で引いた典故は、汚れた地からも清らかな花は咲くという意味も持つものだ。

 明明の見立てでは、充媛はすでに臨月、いつ生まれてもおかしくないという。同じく明明によると、晶毒の原料があるのは皇室か、芹家くらいだと。そして現実問題、当主が捕らえられている芹家の協力が得られるとは考えられず、そんな貴重なものを皇室の御薬房から出すわけにもいかないはず。つまり、これは皇太后の時間稼ぎの一環であると考えるべきだった。


「第一、その後どうするつもりなんだか」


「どうにかできるって、思われているんでしょうねえ」


「嫌な信頼だな」


 赤子が生まれたとして、後宮からどうやって運び出すつもりなのか。過去の王朝でも寵姫が専横を極める後宮から、別の妃所生の皇子を救い出したというような伝説はある。皮を剥いだ猫と交換したとか、そういうような話だ。だが、現実的に考えて、生まれたばかりの赤子が静かにしていてくれる保証はないし、後宮の各所に門衛が立っているのだ。それを免れ得るのは皇帝、皇后、皇太后、太皇太后の遣いのみ。だが――


「今私の遣いが、怪しい荷物を後宮の外に運び出したらさあ……」


「ふふっ」


「笑い事じゃないんだけど」


 呉三娘とて、何も進んで赤子を殺したい訳ではない。理屈と方策さえあれば、救えるものなら救いたいのだ。筆に墨をつけたまま、呉三娘は呻吟した。


「あのう……皇太后陛下から、何かすごいものが届きましたあ」


 と、嘉玖が珍しく困惑した顔で現われた。


「すごいもの?」


「ええと、正殿に運び込むのも憚られたので、持ってきてはないんですけどお。黒山羊の胎児です」


「黒山羊。……猫じゃないんだ」


「は? 猫の胎児の方がよかったんですかあ? 意外と猟奇的なんですねえ」


「そんなわけないでしょ。

 明明を呼んでくれる?」


「ここに」


 次の間に控えていたのか、明明がひょっこりと顔を出した。皇后がひょいひょいと手招きをすると、彼女は素早く主の御前へと歩み寄った。


「皇太后様からの贈り物は見た?」


「ええ、毒物かもしれないとのことで、私が検分しました」


「それで、身代わりは作れそうかな」


「いや、あれでは無理です」


 いつも通り飄々とした声で即否定した明明に、呉三娘もいつも通り間延びした声で答えた。


「だよねえ。蹄があるもんね」


「でも、私の在庫でそれらしいものなら作れますよ」


 と、明明はきょろりとした目を瞬かせて、こともなげに告げた。

 何の在庫だ、と呉三娘は思わなくはなかったが、薬の原材料には骨やら内臓やらもあるので、きっとうまいことやってくれるのだろう。


「そうか」


 すでに芹充媛の刑は定まり、彼女の命を救うことはできない。そして、その子を生きて後宮から出すこともまた、大罪だ。殊に今のように帝位が不安定な時代にあっては。

 それなら後宮とは関わりのないところに身寄りのない赤子が捨てられるのなら?


「明明、それらしいものを作ってくれ。最優先でね。それから機密性の高い箱も頼む。内側はふかふかの綿を敷き詰めて。

 嘉玖、樨の侍女でも足腰が強い者を犬笛を持たせて交代で暴室につかせ、他の見張りは下げるように。それと、皇太后様へも一報を入れるように――難題を押し付けたのだから、あの方にも一役買っていただかなければ」



 その日は、ほどなくして訪れた。雲が月を隠し霧雨そぼ降る暗い夜、芹充媛は男の子を産み落とした。赤子は予め牢に潜ませてあった身代わりの人形――何を使ったのか本物の死体と見まごう出来だった――とすり替えられ、小さな綿布団を敷き詰めた持ち手のある箱へ。明明はそれを別の侍女へ手渡し、自身は牢の外へ出て犬笛を吹いた。赤子を託された侍女は、驚異的な速さで地下牢の皇后宮へ繋がる出口へと向かう。


「皇后陛下」


 犬笛の音を聞いて、すでに身支度を整えていた呉三娘は、一呼吸のうちに黒い獅子へと姿を変えた。そして木箱の持ち手を口にくわえると、夜空へと駆け上がった。聖獅子は一昼夜でこの国の端から端まで駆け抜けることができる。

 呉三娘は央都から遠く離れたある山間の街に舞い降りた。花街の一隅のそこは、女たちの笑い声や管弦の音にあふれている。夜でもそれなりに往来があり、また若い娘が赤子を抱えて慈母院へ向かう出発地としては相応しい場所だ。呉三娘は水路にかかる橋の下で人の姿に戻った。

 人の姿に戻れば、超地味顔の呉三娘である。身に着けているのは何の変哲もない市井の娘の衣服だ。誰もこれが皇后だとは気付かないだろう。

 それから、呉三娘は箱を開けて赤子を取り出し、箱と綿布団は粉々に砕いて、あるいは引き裂いて近くの川に流した。


 この町の空には雲一つなく、秋の月が罪の元に生まれた存在を照らし出す。

 赤子は生成り色の無地の布にしっかりと包まれ、箱の中に入れてあった温石のおかげで体も冷やさずに済んだようだった。生まれたての赤子特有の、皺が寄った赤い顔を更に赤くして、もうすぐ本格的に泣き始めそうだ。

 呉三娘は、きっちりと撒かれた布を少し緩めて、作り物のような小さな手を外に出した。彼女の人差し指をやっと掴めるか、というほどの小さな手だ。小さくて、もろくて、無垢な命だった。

 愛らしさに彼女は頬を緩め、小さく呟いた。


「明月松間に照り――明月。明月にしよう」


 夜の闇に紛れて呉三娘は慈母院へと足を向けた。

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