12.芹充媛

芹甘露は央都の名家に生まれた。幼い頃より、その美しさは名高く、十五の成人を迎えた暁には後宮に――先帝の後宮に出仕することが確実視されていた。先帝は美女を、ことに年若い美少女を好むことが知られていたから、彼女が寵愛を受けることもまた、確実視されていたのだ。

 しかし、確実視されていた未来は、あの親征と敗退で変転する。

 先帝の幼い息子が即位し、芹甘露はその後宮へ入ることとなった。新帝は甘露よりも年下で、閨事は彼の成人まで行われないこととなったし、少年に甘露の美貌はいまいち響いていないようだった。

 皇帝の愛を受け、子を生し、国母となるという未来は、たちまちのうちに不確実なものとなってしまったのだ。


 甘露はもともと月のものが不順な上に重かった。最初は侍女の手当で間に合っていたが、後宮の鬱屈した空気せいか、塞ぎがちな気分のせいか、一向に良くはならず、ある月、太医を呼ぶことになったのだった。そしてやってきたのが、幼馴染の莞凌雲である。

 凌雲は、やはり代々太医を務める医学の名門の出で、芹家とも縁の深い家だった。元々名医であった祖先が時の皇帝の君寵を得て始まった芹家は、貴重な医学書や珍しい薬の原材料を持っている。太医の一族の出入りは頻繁だった。まだ男女の別にも厳しくなかった子どもの頃は、甘露も男の子と遊ぶことが許されていて、少しだけ年上の凌雲は中でも一番気が合う相手ではあった。


 そして、後宮で再会した凌雲は、すっかり素敵な大人の男の人になっていた。彼が美しく成長した甘露を憎からず思っていることもわかっていた。

 彼は、幾度目かの診察の時に脈に触れるふりをして、彼女の手を握りしめた。その手が離された後、掌には恋文が残されていた。

 曰く、幼い頃からずっと慕っていたと。叶わぬ恋だと思ってはいたが、後宮で再会してからは思いは大きくなるばかりでとても抑えられないと。

 逞しく成長した少年が、跪いて視線で愛を乞うている。熱に浮かされたように、芹充媛自身も、憎からず彼を思うようになるのに、そう時間は必要なかった。


 とはいえ、太医が妃嬪を診察する時は、必ず侍女や女官が立ち会うし、触れるのも脈診の時だけだ。だから、本来なら二人が結ばれるはずはなかった。

 けれど、幼い皇帝の後宮は、妊娠可能な妃が少ないために非常に無防備だったのだ。まさか、皇帝との夜伽のない妃嬪が、妊娠する危険を犯すとは思わなかったのだろう。毎日のように凌雲の診察を受けるようになると、女官たちは立ち会わないようになった。そうなると、部屋の中にいるのは甘露の身内である侍女たちだけだ。

 喜雨を始め、侍女たちは甘露が子供の頃から仕えてきた者ばかりで、下女の役割も担う喜雨以外は一族の傍系の娘だった。

 各宮殿の主殿を与えられる最高位の妃たちならともかく、配殿に暮らす甘露たち中級の妃たちの帯同できる侍女たちの数は限られており、古参の侍女一人を除いては皆、皇帝の目に留まってもよいように甘露と同じか年下の少女が選ばれたからだ。

 そして、少女たちはおりしも後宮で流行していた通俗小説のように、秘められた恋物語に夢中になった。彼女らを見張りに立たせ、甘い香の香りに包まれて、彼と初めて結ばれたのは、春の終わりのことだった。


 凌雲も甘露も、なまじ医学の知識があるだけに油断していた節があるのは否めない。甘露の血の道は滞りがちだったし、妊娠したら堕胎すればいいと思っていた。どうせ、皇帝の閨に侍るのはまだ何年も先のことなのだ。

 しかし、まず最初に妊娠に気づくのが遅れた。元々月のものは不順で、体調も悪かった。そして、腹の膨らみが目立たない体質で、更に不運なことに悪阻がとても軽かった。そういう経緯であったので正確に妊娠の時期が分からず、一か八かで除虫菊を装って持ち込んだ薬茶で堕胎を試みることにしたのだ。

 しかし、一人だけ体調を崩せば、怪しまれるかもしれない。翁茶と取り違えた風を装って、蓮生殿の他の妃嬪たちへも振舞った。香淑妃の讒訴は全くの予想外だったが、注目がそちらに向いたので好都合だったと思っている。

 しかし、出血しただけで子は流れなかった。凌雲が言うには、除虫菊の薬効で堕ろせる時期を過ぎていたのだろうということだった。その後も色々と試したが、子は流れず、ここにきて、甘露はようやく危機感を抱いた。

 逢瀬の声は抑えられても、産声は隠せない。狭い宮殿内で出産すれば、その瞬間に彼女は破滅するのだ。

 だから、皇后による謹慎と双松殿への転居の指示は願ってもないことだった。


 始めは、密かに後宮を抜け出して出産し、戻ってくるはずだった。けれど、後宮に巣くう権力の怪物たちはそれを許してはくれなかった。

 どこでこのことを知ったのか、太皇太后が遣いをよこし、彼女にこう要求したのだ。


「皇帝が源から戻られる。僭帝を引きずり下ろすための人員を後宮に匿いたいから、お前が隠れ蓑になりなさい。晴れて正当な主が後宮に戻られた暁には、お前を公主とし、源へ嫁がせてあげましょう。源の王族は央都の水で育った女に目がないという。お前ならたとえお下がりでも十分に寵愛を受けられましょう。

 お前に断るという選択肢はない。その腹のことが露見すれば、命はないのだからね」


 凌雲という真実の愛の相手と結ばれた甘露には、他の男の妻となるなど耐えられなかった。





 身代わりになる体が必要だった。そして、荏喜雨が一番の適任者だった。

 甘露に背格好が近く、身寄りがない。元は奴婢だった彼女は他の侍女たちと明確に身分差があり、甘露の身の回りに侍ることは少なかったので、罪悪感もあまり抱かずに済んだ。それに、焼身自殺の偽装をする計画には侍女たちの協力が不可欠だったから、他の侍女では準備の段階で気取られて失敗する可能性があったのだ。


 甘露は貴族だ。実家では主人の不興を買った奴婢や下人が暴力を振るわれることは日常茶飯事で、ち殺されることもあった。だから、甘露の窮地を救うために喜雨が犠牲になることについてはさほどの疑問も持たなかった。それは、他の侍女たちも同じであった。

 甘露も侍女たちも、ここが後宮で、彼女たちは皆内官という官僚であり、私邸とは違うという認識は薄かった。


 双松殿の寝室に慈母を祀る祭壇を作り、日々祈りを捧げる。供物として大量の酒を仕入れる。そして途中から酒の半分を油にすり替える。検査が煩わしいからと袖の下を渡せば、役人たちは何も疑わずに通してくれた。

 どうやって油を調達したか? そもそもこの脱走の筋書を描いたのは父だったのだ、体調を崩した娘のために、慈母への供物を送るという名目で実家から酒も油も送られてきた。彼は聴世殿で「放火のことは知らない」などと嘯いていたが、真っ赤な嘘だ。

 替え玉の宦官は太皇太后が手配した。線の細い、少女のような顔立ちの整った宦官だった。火事のことは聞いていないと協力を渋ったが、重大事ゆえお前には事前に伝えていない、太皇太后も承知の上だと説明すれば嫌々ながら手を貸した。


 あの日、凌雲は迎えにやった宦官とともに、夕刻双松殿を訪れた。計画を知る侍女二人と、喜雨と、宦官が甘露の寝室へと入る。何も知らない喜雨を侍女と宦官が押さえつけ、凌雲が点穴で体の自由を奪った。服を甘露のものに替え、念のために手足をきつく、縛りつける。

 甘露は宦官の官服に、宦官は喜雨の衣を身に着けて髪を結った。それから油をたっぷりと撒いて、凌雲が予め燃焼時間を計測していた線香を油の中に設置した。線香を使うことを思い付いたのは彼だった。太医は灸もあつかうので、連想したらしい。

 侍女の一人が女官に灯火も食事も要らないと侍女が伝えれば、女官は侍女からそう聞けば宮殿の中に入ってまで確認はしない。火がつけば、死んだのは芹充媛と見なされるだろう。


 そうして、寝室を出る時だった、喜雨と目が合ったのは。点穴は意識も奪うものなのだと思っていた甘露は少し動揺したが、この計画が失敗すれば、喜雨も妃の不義を見逃した罪で、甘露もろとも死罪になるのだ。奴隷ならば、せめて主人の命を助けるためにその身を捧げるのは普通のこと、そう思うことにして、甘露は彼女の縋るような視線を無視した。


 甘露は凌雲と連れだって双松殿を後にした。俯いて両手を体の前で揃え、長い袖で腹を隠したまま、内廷と外廷を隔てる門の門番の牌の検めを受けた。後宮側の鉄砂宮の兵は多少、彼女の佇まいに違和感を感じたようだが、凌雲が太皇太后の診察の約束がある、と言えばもめ事を恐れて不問に付したようだった。

 外廷の東の端に位置する太医院で、用意されていた実家の侍女の衣装に着替え、訪問者用の牌で皇城を後にした。凌雲とともに。





「動くな!」


 自由な時間は短かった。後宮を脱出して数日後、隠れ家に黒装束の男たちが踏み込んだ。織り込まれた衣装の紋から、それが呉家の者だと知り、甘露は絶望と、少しの希望を見出した。皇后は皇太后や太皇太后よりも与しやすそうに思えたからだ。

 だが、呉家の屋敷らしき場所に運び込まれた後、すぐに彼女らは皇城のどこかの牢に繋がれることになったのだった。そして、彼女らは勤政殿へと連行された。そこが勤政殿だと分かったのは、皇后がそう言ったからだ。


「やあ、久しぶり」


 皇后の準正装を身に着けた呉三娘は、いつもと同じ穏やかな表情で、跪いた甘露と凌雲の前に立っていた。


「申し開きは、後で聞く。まあ、あなたのその姿を見れば大体のことは察しがつくけど」


「皇后陛下、お慈悲を!」


 皇后は与しやすい――甘い。彼女なら、と思った甘露の希望は、即座に断ち切られた。


「もう、慈悲だのなんだので片が付く段階ではないんだよ。密通や妊娠だけなら、どうにかすることもできたかもしれない。残念だ」


 穏やかな表情のまま、呉三娘は彼女の哀願を切って捨てた。そして、穏やかな表情のまま、勤政殿を出て聴世殿へと去っていった。





 聴世殿での聴聞の後、甘露は侍女たちとともに後宮の牢獄へと繋がれた。冷宮のような宮殿ではなく、正式な牢獄だ。彼女を運んできた宮正たちの言葉から察するに、古代の名称にちなみ「暴室ぼうしつ」と呼ぶらしい。

 そこは陽の光も差さず、音も届かない地下牢で、一日中ひんやりと冷え切っていた。鉄格子で区切られた小部屋の一番奥が、甘露の房だった。


 聴世殿で死罪を宣告されて、すぐにでも毒杯か白絹を与えられるかと思ったが、何日経っても皇后の遣いはやって来なかった。代わりに鉄砂宮の兵でもなく、宮正の女官でもなく、皇后宮で見た覚えのある侍女がやって来た。ひょろりとした鶴のような侍女だ。

 侍女は甘露の妊娠の経過を尋ねた。逢瀬の時期と月のものの時期、悪阻や除虫菊を服用した時期、現在の体調などを。

 そして、侍女たちに毒杯が与えられた。牢獄に残されたのは、甘露と胎児だけ――

 それからは、皇后の侍女が毎日見張りに着くようになり、数日後、腹を引き絞られるような痛みに甘露は目を覚ました。


 昼も夜もない地下牢で苦しみ抜いた末に、ついに赤子が産声を上げた時、傍にいたのはあの鶴のような侍女一人だけだった。彼女は子供を取り上げると清潔な白い布でその子をくるみ、芹充媛の胸の上に抱かせて乳を与えるように言うと、姿を消した。


 不意に訪れた、我が子との二人きりのひと時――それ、は、蝋燭の頼りない明かりの中でもわかるほどに小さく頼りなかった。息をして泣くことしかできないような、このひ弱な存在が、どうして母もなくこの世界で生きていくことができるだろう。胎の中にいる間は厄介者としか思っていなかったというのに、この感情は一体何なのだろうか。

 けれど侍女は無常にも赤子を取り上げて、黒塗りの箱の中へと閉じ込めてしまった。芹充媛は我が子を返せと叫んだ。叫んで、泣き叫んで、声がでなくなってもずっとずっと泣き叫び続けた。

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