終章
「結局、樋口は園田小夜香の父親を殺したのかな」
尊は店員が持ってきた新しいビールのジョッキを傾けて一口飲んだ。右隣では希実がチーズをのせたクラッカーを頬張っている。梓駅前のアイリッシュパブの中は話をするのにちょうどいいくらいの騒がしさだった。顔を寄せれば十分声が聞こえるし、周りの客に聞かれる心配はない。
「多分ね。私が聞いたのは川本さん、陸雄君のお父さんが言ってた小説の話だけだから何の証拠にもならないけど、状況が全く同じだったから」
「どういう内容だったの?」
尊が尋ねると、希実は口を動かすのを止めて少し考え、まいっか、と口の中で呟いてワインで流し込んだ。その頬はほんのりと赤く染まっている。
「樋口はね、高校一年のとき、ミステリ小説を書くから、って言って川本さんにそのトリックのアイデアを披露したらしいの。客観的に可能かどうか意見が欲しいんだと言って」
「ミステリ小説ねえ」
「普段から酩酊するまで毎晩酒を飲む男を殺そうとしている犯人が、それを利用しようと思いつくって内容でね。ドライアイスを袋に入れて二酸化炭素を集めて、それを寝ている被害者の口と鼻に被せて窒息死させる、っていうものだったらしいよ」
「それでどうするの?」
「それから死体を炬燵か何かに寝かせて、さもあったまったことで酔いが回りやすかったように整える。そして……あー、汚い話だけどいい?」
「死体の話を聞いてる人に聞く必要があるか?」
尊は笑ってビールをもう一口飲んだ。カウンターのテーブルがジョッキの形に濡れていた。
「それもそうか。それでね、自分でビニール袋に吐いて、その吐いたものに被害者が飲んでいたアルコールを混ぜて、それを死体の口に流し込むんだよ。漏斗か何かを使ってできるだけ喉の奥に。被害者が夕食を食べた時間とメニューをあらかじめ調べておいて、自分も同じものを同じ時間に食べてね」
「なるほどな。つまり一見吐瀉物を喉に詰まらせて窒息した事故死に見えるけど、本当は別のやり方で窒息死させていたってことか」
「警察でも、普段からそれだけ派手に酒を飲んでいた被害者がそうやって死んでいたら、確かに事故死と判断される可能性が高いと思う。わざわざ解剖にまでは回さないだろうから。肺の中に吐瀉物がほとんど入らないから、解剖すれば違和感はあるだろうけどね」
「実際のところはどうだったんだろう。園田幸司が死んでいたときの状況は」
「一応、当時捜査に参加したっていう人を探して聞いてきた。そんな昔の、しかもただの事故として処理された事件を覚えてる人を探すのが既に大変だったけどね。その人によれば、確かに被害者は炬燵で口から吐いたものが溢れ出してたらしいから、状況は小説のトリックとほとんど同じなんだよね。それで事故として処理されたことを考えると、もし樋口がやったのなら成功だったってことだ」
希実はまたクラッカーをひとつ取り、口に運んだ。
刑事としては決して褒めることはできなくても、希実もまた尊と同じように樋口に対して心を動かされる部分があるようだった。
まだ高校生になったばかりの少年が一人の女の子を救うためにした決心は、最後に実を結んだということになるのだろうか。先ほど希実から聞かされた樋口と小夜香の面会の様子に、尊は尊敬の念すら覚えていた。
樋口の戸籍にはその罪が記載されることはない。ただ、東京へと転出し、やがて信州へと戻ってきたという事実が記されるのみだ。あとはもしかしたらこれから何年か経って、婚姻したという記載が増えるのかもしれない。
自分が数十年後、何かの拍子にこの戸籍を見たとき、今回の事件を何も知らなかったらどう感じるだろうか、と尊は考えた。恐らくは婚期を逃して中年になってからやっと婚活をし、連れ合いを見つけることに成功した、冴えない男の姿でも思い浮かべるだろう。
陽子にしても、尊が想像していた人生とはまるで違っていた。そこにいたのは夫の死にショックを受けて家を飛び出した哀れな女などではない。自分の子供を痛めつけ、家族を捨てて愛欲の道を選び、やがて一人孤独に死んでいくであろう女だった。人の想像力など所詮はそんなものだ。ただ一人の人生にすら、遠く想像の及ばないような物語があるのだ。
「そういえば、小夜香さんが、廃屋については自分が責任を持って処分するから安心してくれ、って言ってたよ。アンくんに伝えてほしいって」
希実が思い出したように言った。
「ああ、それはよかった。これでこっちの件も解決だ。小夜香さんはあの家に住むのかな」
「そうみたい。あれからすぐに引っ越してきたらしくて、ほとんど毎日樋口のところに会いに来てるよ。取り調べ中だって言ってもずっと署のロビーで待ってるんだ。愛の力なのかなあ」
希実は何を思っているのか、視線を空中に彷徨わせながら呟いた。
「そうだ、俺の方でも一つ言っておくことがあった。川本陸雄君だけどね、順調に病院に通ってて、先日高校にまた通い始めたそうだよ。妄想が酷くなくなってきたのと、クラスで病気のことをカミングアウトしたらしい」
「本当に?すごい勇気だね」
希実は目を丸くした。
「うん、俺もそう思う。なかなか言えないよ。ただクラスでは結局それで受け入れられたみたいで、なんとかうまくやっているみたいだよ。やっぱり周りの環境が受け入れてくれることで、ああいう病気は改善することがあるみたいだね」
「そっかあ。お母さん、喜んでるだろうね」
「日岐にもよろしく伝えてくれってさ。疑われるようなことをして申し訳なかったって」
「いや、それはむしろ疑ったこっちが申し訳なかったんじゃないかと思うけど……」
希実は苦笑いしながら言った。刑事は人を疑うのが仕事だとはいえ、やはり無実の人間を疑ったことに対していい気分はしないのだろう。
「あのお母さんも立派だったね。自分の息子がもしかしたら殺人犯かもしれない、なんてことになれば普通は何が何でも隠そうとするだろうに。ちゃんと調べてもらおうと決心したんだから、これもまた究極の愛かもしれないな」
「究極の愛ねえ……私もそういうお母さんになれるかなあ」
「その前に相手を見つけないとな。我々二人とも」
尊が言うと、希実は酔った顔を尊の方に向けた。視線がぶつかり、少しの間沈黙が訪れた。
「日岐、あの……」
たまりかねて尊が口を開いたところで、後ろから陽気な声が聞こえた。
「あれっアンさんこんなところで」
驚いて尊たちが振り返ると、そこには中島が立っていた。見れば何人かのグループで来店したらしい。若い男女が入り口近くの席について、メニューを開いているところだった。よく見れば尊の見知った顔もちらほらと見える。
「大悟、お前なんでここに、というかなんでこのタイミングで……」
「いやあ、同期の連中と飲み会だったんですよ。さっきまで他のとこで飲んでて、これから二次会っす。あれ、アンさん彼女ですか」
中島はよほど飲んでいるのだろう、立っているだけの足元をふらふらとさせながら尋ねた。
「違うよ、お互いに一仕事終わったからひっそりと打ち上げだ。邪魔してくれるなよ」
「そうっすか。よく見たらめっちゃ可愛いじゃないですか。うちの先輩のこと、よろしくお願いしますね。顔は怖いけどいい人ですから」
「うるせえぞ、酔っ払いめ」
尊が苦笑しながら睨み付けると、中島は、それじゃあごゆっくり、と言い残して仲間の元に戻っていった。
「随分イケメンの後輩さんだね」
希実が言った。
「お、ああいうのがタイプか。残念ながら彼女持ちだぞ」
「いや、もうちょっといかつい方が好きかな。私、こう見えて刑事だからね、優男はあんまりだな。喧嘩になったら遠慮しちゃいそう」
尊はそれを聞いて希実に怒鳴りつけられる中島を想像し、思わず噴き出した。
背後では中島たちが酔っ払い特有の大声で笑っているのが聞こえてきた。どうにも賑やかなものである。尊はジョッキに残ったビールを流し込んだ。
「店を替えようか」
尊が言うと、希実も頷いてワイングラスを空にする。
「次はもう少し静かなところにしよう。私、いい店知ってるんだ」
*
刑務所の固いベッドで微睡みながら、僕はサヤカと一つ屋根の下で暮らした日のことを思い出していた。僕たちが離ればなれになる前のたった三日間のことだった。二十五年も前のことなのに、未だに鮮明に思い出すことができる。僕は久しぶりに満ち足りた気分だった。
あの時、サヤカは長野市の児童養護施設に移るのを二日遅らせることにしてくれた。お世話になった人がどうしても泊まっていけというので、と市の職員を説得したらしい。
僕は両親に「ユウタの家で、数日泊まり込みで課題をやるから」と嘘をついた。これまでもユウタの家に泊まって一緒に勉強をしたことは何度かあったし、なにより都合のいいことに彼の家には離れがある。僕がそのことを告げると母は、
「それじゃあご両親によくお礼をいいなさいよ」
と言って手土産に菓子折りを持たせてくれ、それ以上は詮索してこなかった。
そうしてサヤカは三日間だけ、彼女の祖父母がかつて暮らしたあの古い家で、僕と二人きりで暮らすことになった。
そちらの家は電気も水道もずっと前に止められていたけれど、部屋のあちこちにろうそくや懐中電灯を据え付けてみたら十分に明るくなったし、水は外の水道から汲んでこれたから特に不都合もなかった。僕たちは一緒に食事をし、一緒に買い物に行き、一緒に僕が持ち込んだ携帯テレビを見て笑い、一緒に眠った。同じ布団で抱き合ったまま眠りながら、僕は何度もサヤカにキスをした。
僕たちは身体を重ねることをしなかった。その欲望は常に僕の中にあったけど、サヤカのことを考えると表に出す気にはなれなかった。サヤカはまだ男の人が怖いようで、僕が彼女に触れるたびに身体を一瞬硬直させた。
それでもその三日間、僕たちは光の中にいるように満たされた時間を過ごした。やがて最後の夜が来て、普段より少し豪華な、といってもスーパーの惣菜がメインの夕食を終え、僕とサヤカは並んで座り、一つの毛布にくるまった。テレビではつまらないバラエティー番組が流れている。
「りっくん、私、少しだけでも二人で過ごせてよかった」
サヤカは言った。
「私にとって家族って、怖くていつも高圧的で、私が嫌なことばかりしてくる存在だったから。本当に大好きな人がずっとそばにいて、ちょっとだけ家族の良さがわかったような気がするよ」
「本当に明日行っちゃうの」
「うん。明日行くよ。大丈夫、ずっとこうしていられないのはわかってたことだから」
サヤカの目には涙が光っていた。長い睫毛が瞬きをするたびに涙の粒が頬を伝った。僕はそっとその華奢な身体に両腕を回した。サヤカの身体は震えていた。僕はサヤカを抱きしめながら言った。
「ずっと待ってる。君の帰る場所がここにあるように、ずっと待ってるから。きっと帰ってきて」
サヤカは泣きながら、何度も何度も頷いていた。
あれから僕もサヤカも若さを全て犠牲にして孤独な人生を歩んだのだ。過ぎ去った時はもう戻らない。それでも再会を果たしたあの時、僕の涙で霞んだ視界の中で、サヤカは優しい微笑みを浮かべて僕を見ていた。その笑顔で僕の人生は丸ごと救われたと思った。
やがて眠りが訪れて、僕は自分がヤモリになった夢を見た。遠くを飛ぶ美しい蝶を眺めながら壁を這っている、誇らしい夢だった。
孤高のヤモリ 麻根重次 @Habard
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