第2話

 あれから一週間が経った。

 すぐにでも客を取らされるのかと思っていたが、あれからまだ一度もそういうことはなかった。

 具体的な話を母から聞こうとは思わなかったから、毎日どうにも落ち着かない日々を過ごしていた。


「今日から岸田きしだ先生の代わりに日本史を担当してくださる甲斐谷かいたに先生だ。岸田先生は数週間くらいで戻られる予定だからそこまで長い期間ではないが、だからといって気を抜かないように」


 蒸し暑い体育館の中、学年主任の先生が壇上で臨時教師の紹介をする。

 岸田先生はもらい事故で入院を余儀なくされたらしい。

 噂好きの女生徒が、周囲にそれなりに聞こえる音量でそのようなことを話していた。


 主任に促されてマイクを握り、甲斐谷ですと挨拶をした教師の顔を見た瞬間、驚きに目を見開いた。

 私は思わず顔を伏せ、激しく鳴る心臓を必死で宥める。

 どうして彼がこの学校に、しかも教師として。


 その後のことはほとんど覚えていない。

 気付けば午前の授業は終わり、昼休みになっていた。

 お腹は空いていないが、喉が渇いた私は立ち上がり、水飲み場へと向かった。


 ペダルを足で踏み、冷たい水で喉を潤す。

 今日の最後の授業は、日本史ではなかったか。

 生徒を当てるタイプの教師でなければいいなと思いながら教室に戻る。

 相変わらず教室内は私に無関心で、五限目の授業も何も頭に入らなかった。


 六限目、彼が教室に入ってくる。

 スーツがやけに似合っていて、周囲の女生徒が浮き足立つのが分かった。

 半袖のシャツから伸びる筋肉質な腕が、あの日、私を抱きしめたのだ。


 いつもは授業を聞かずに携帯をいじる女生徒が、前を向いて彼を見つめている。

 胸がモヤモヤするのは、彼に自分の存在がバレないか不安だからだ。そうに違いないと言い聞かせ、俯いたまま教科書を開いた。


 彼の授業は意外にも分かりやすく、生徒から時々発せられるプライベートに絡んだ質問にも上手い具合にかわした答えを返していた。

 板書を写すことに集中しようと決めていたが、一度だけ彼の顔が見たい。

 そう思ってしまったらダメだった。

 吸い寄せられるように顔を上げた瞬間、彼の瞳が私を映す。


「……!」


 慌てて顔を伏せ、また口から飛び出しそうになる心臓を必死でおさえた。

 大丈夫、きっと大丈夫、だって今の私は、あの日の私とは全然違うのだから。

 そう言い聞かせて、チャイムが鳴るまで顔を上げずにいた。

 教室の扉が閉まる音がして、私はようやく息をした。


 ホームルームが終わり、帰り支度をして教室を出る。

 人がたくさんいる中を歩くのが好きではないから、いつも私が最後の一人だ。

 部活動の声がグラウンドから聞こえてくる中、廊下を歩く。

 私はいつ男に売られるのだろうか。


木下きのした


 私の苗字が呼ばれ、立ち止まる。

 声のした方を向くまでもない。

 私を呼んだのは、彼だった。


 私は立ち止まったまま、首を振った。

 教師に呼ばれたなら返事をするべきだと思っているのに、他の教師にはできることが彼にはできない。

 それが自分の正体を相手にバラしているのと同じことだと分かっているのに、動けなかった。


 彼の影が私に重なり、あの時と同じ声が聞こえる。


「見付ける前に名前、分かっちまったな。光莉ひかり


 耳元で囁かれた声に、涙が出そうになった。

 私たち以外誰もいない廊下、彼は私を視聴覚室へと導いた。


 カチャリと、鍵がかけられる。

 鍵のかかった教室内に生徒と二人きりだなんて、誰かに気付かれでもしたらどうするつもりなのだろう。


 彼は私を椅子に座らせ、自分も向かい合うように腰掛けた。

 きちんと締められていたネクタイを緩ませ、ゆっくりと私に向けられた視線は、先程までと違って熱を帯びていた。


「お前、いつもあんなことしてんの?」

「え?」

「見付けられたら、名前教えるって」

「……してない」

「ふぅん」


 信じていないような声色に、咄嗟に言葉が出た。


「してない、アナタにしか、してない」


 私が選んだのは、彼だけなのだ。

 他の誰にも、あの姿を見せてすらいない。

 彼は眉間に皺を寄せ、くしゃりと髪をかきあげて溜息を吐いた。


「なぁ、それ天然?」

「え?」

「お前、才能あるよ」

「才能? なん……っ」


 後頭部に手が回されて、反応する前に唇を塞がれる。

 噛み付かれるような荒いキスに、全身が粟立った。

 唇を舌でノックされ、拒絶などできるわけもない。

 舌を絡めて口付け合えば、身体中があの日を思い出して熱を持つ。


 離れた唇を唾液が繋いだ。

 チュッと音を立てて再び軽く口付けられたあと、彼は私の頭を乱暴に撫でた。


「俺を本気にさせる才能。お前、責任取れよ」

「せき、にん?」

「どうせひと月もしない内にここの教師じゃなくなるんだ。俺のものになるだろ?」


 彼のものに、なる。

 それは何よりも望む言葉だった。

 何よりも望む未来だった。


 けれど、何よりも叶わない未来でもあって、私の瞳から涙が数滴こぼれ落ちた。


「何だよ、遊びだったか?」

「ち、ちが、……好き……」

「ならいいだろ」


 私は首を振り、母の話をした。

 どうしようもないと、彼が諦めると思った。

 話し終わって彼を見れば、不機嫌そうに顔を顰めて私を見つめていた。


「お前は俺以外に抱かれていいわけ」

「よくない! よくない、けど……でも……」

「母親と俺と、どっちを選ぶ」


 その問いへの答えは決まっている。母を選ぶだなんて有り得ない。

 逃げられるのならば、逃げたかった。

 助け出してほしかった。

 救いあげてほしかった。


「俺だろ?」


 こくりと頷いた私に、彼は優しく口付けた。


 それからのことは、薄らとしか覚えていない。

 いつの間にか私は彼に家庭の問題を相談したことになっていて、家に警察が来たりもした。

 母の携帯には私を予約した男たちのメールや連絡先が大量にあって、売春を斡旋したことは明らかだった。


 母は逮捕され、親戚もいなかった私は一人暮らしを余儀なくされた。

 本当はショウが家に住めと言ってくれたのだけど、生徒と教師である間はきちんとしたいと告げ、「今更マジメかよ」と笑われた。


 母がいなくなった家は少し広く感じたが、寂しいとかそういう気持ちにはならなかった。

 この家で見知らぬ男に抱かれることにならなくて良かったと、そう思っただけだった。


 岸田先生が戻ってきて、ショウは教師ではなくなった。

 別の仕事を探して、もう教師にはならないと決めたらしかった。

 「生徒に手を出すようなやつが教師になっちゃダメだろ」と言うので、今更マジメかよと返してあげた。





「新郎、甲斐谷ショウは、光莉を健やかなる時も、病める時も豊かな時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」

「はい、誓います」

「神父、光莉は、奨を健やかなる時も、病める時も豊かな時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」

「はい、誓います」


 私たちと神父以外は誰もいない小さな教会の中。

 純白のドレスに身を包んだ私は、ダークグレーのフロックコートを着た奨と向き合った。


 高校を卒業した節目に結婚式を挙げようと言ったのは彼の方だった。

 籍を入れた時に間に合わせで買った指輪もそれはそれでいいけれど、オーダーメイドで世界に一つだけの結婚指輪を作ろうと言ったのも。


 真新しい指輪をお互いの薬指に嵌め、微笑み合う。

 神父に促され、誓いの口付けを交わした。


 誰に決められるでもない、自分で選んだ男の人と生きていく。

 何があっても、何もなくても。

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アナタを選んだ私の幸せ 南雲 皋 @nagumo-satsuki

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