Ling Long Time

真樹

第1話


「にんじんは、人間の食べ物じゃないと思う」


 目の前、親の仇でも見るような目つきでもって己の手元を睨み付ける少年に、リッカは「はぁ……」と気の抜けた声で応じた。


「それはまた……にんじん生産農家に全力で喧嘩売ってますね、少年」

「純然たる事実だろ。そんなものを喜ぶのは馬ぐらいだ」

「いえいえ、これ夕飯の下ごしらえですけど。食べるの人間ですね」

「は? ふざけてるのか?」

「ふざけてませんよ」


 普通は、年齢一桁の子供が「純然たる事実」とか口にしないな、と内心で独りごちながら、リッカはするすると危なげない手つきでにんじんの皮むきを続けた。


 憮然とした表情でのたまう子供 ―― 鮮やかなピンクゴールドのふわふわした髪と、光の加減で金色の入り混じるダークブラウンの瞳、やたらめったら整った顔立ちではあるが、お子様年齢であることは間違いない。薄茶の髪に紅茶色の瞳なんていう特に面白味のない色彩のリッカと違って、子供はなんというかとてもきらきらしいけれども、それはともかく。


 そう、子供ではあるはずなのだ。が、舌足らずな口調で喋ったところでそう違和感もない年代にも関わらず、子供は見た目年齢にそぐわない難しい言い回しをよく使っていた。それは背伸びをしているとか、無理をしているとか、とかそういう次元でもない。手元を見ずとも問題のない自分の包丁さばきと一緒で、この子供にはもはや小難しい言葉遣いが自然と出てくるレベルで身に染みついているのだ。


 ただ現在、その言い回しでもって、にんじんを食べたくないと全力で駄々を捏ねている。


 確実に、小さな頃から本格的な教育を受けてる子の言動なんだよな、と一度手元に視線を戻しながらリッカはそんなことを考えた。


 リッカはしがないお屋敷勤めの料理番である。数いる料理人の、下っ端。とは言え、王国の、しかもそれなりに身分のあるお屋敷の料理番として雇われているのだから腕の方は確かだ。……確かなのだが、自分の雇い主の階級を問われ、「……多分、いや結構? えらい人だったと思いますね」と言い放ってしまう程度には、残念な類の人間である。本来ならお屋敷勤めよりも、街中の食堂で働く方が似合うタイプだ。

 そして目の前で憮然とした表情のままカップに口を付けているこの子供、お屋敷に不似合いなまでの簡素な衣服を身に付けて、けれどその割に屋敷の中を自由気ままに動き回り、頑なに名乗らない、という、怪しんでくださいと言わんばかりの三拍子が揃ってしまっているお子様である。さすがに、リッカをもってしても何となく正体は察す。


 この子供、ある時からリッカの周囲に出没するようになり、大体が食事の下ごしらえ中とか試作品を作っている最中とか休憩中とか、まぁ言ってしまえばそう忙しくない時間帯に現れるものだから、そのまま試作品を食べさせたり一緒にお茶したり適当に喋ったりする間柄になっている。正体には触れて欲しくなさそうだったので、そのまま触れていない。正直、リッカはその点はどうでもいい。他の誰かに知られたら面倒そうだ、とは思ったものの、まぁその時はその時か、と思って忘れ去ってしまったぐらいにはどうでもよかった。

 むしろ、試作品を与える段階で発覚した、あれは嫌いこれは食べたくない、という少年の偏食ぶりの方が、リッカにとっては大問題だったりする。何しろ、腐っても料理番なので。あと少年は、味覚に関してのみ、その辺の子供よりも子供らしい。


「甘くておいしいと思いますけどね、にんじん」

「は? お前、人間じゃなかったのか」


 心の底から嫌そうな表情で言い放つ子供に、肩をすくめる。にんじんで人外認定されるとは思わなかった。最初に比べると、随分素直に表情が出るようになったなぁ、なんて思いながら、リッカはついっと子供の手元を指差した。


「ところで、少年」

「なんだ」

「さっきから君がサクサクと食べてるそのクッキー、中ににんじんが山ほど練り込んであります」

「!? だっ、だましたな!」

「だましてませんよ、人聞きの悪い。美味しかったでしょう?」

「……っ、おいし、かった……けど!」


 納得がいかない! という感情を貼り付けながらも、素直に感想を述べる子供の様子があまりにも可愛らしくて、リッカは笑いながら子供のふわふわの髪の毛を撫でた。


 こんな風に、リッカは時折訪れるこの子供の偏食を、餌付けも兼ねて改善している。







  * * * * * *


「―― あ、そういえば、新作食べます?」

「…………ありがとうございます」


 時間だ、と姿を消した少年を見送った後、おもむろにリッカは背後の誰もいない空間に向かって声を掛けた。

 否、誰もいない、と思われていた空間に向けて、である。しっかりと返答があったので、確実に誰かは存在している。


「毎日お疲れ様です。あ、お茶淹れますけど、甘くしますか?」

「いえ……あの、お構いなく」


 声と共に現れた青年は、何とも言えない表情をしていた。


「いやほんと、毎回綺麗に隠れてますね。すごい。少年、ぜんぜん気付いてないですし」

「むしろ、なんで貴方は気が付くんですか……」

「え? なんか、こう……台所の天敵のアレがあの辺にいるなー……みたいな、そういうノリと気配で?」

「…………」


 遠回しなようで、割とストレートに害虫と同じ扱いを受けた青年は、更に何とも言えない表情になった。とりあえず、そんなノリで人目に触れないように細心の注意を払いつつ行動している護衛を見付けないで欲しいものである。


「まぁ、護衛されてるご本人様には気付かれてる様子もないですから、僕に気付かれるぐらいはノーカンでしょう」

「いえ、私の役割的に、貴方に気付かれた時点で大問題なんですが」


 疲れたように呟く相手に、リッカは真面目だなぁ、とそんな感情を抱きつつ肩をすくめた。だって本当に、あ、あの辺に何かいるなー? という感覚で察知してしまうので、そこはもう諦めて欲しい。疲れている様子だったので、問答無用で甘目に淹れたお茶を相手に差し出しておいた。


「……ありがとうございます」

「いーえ。あ、そこにさっき少年がサクサク食べてたにんじんクッキーもあるので、ご自由にどうぞ」


 この青年が結構な甘いもの好きであることを、ここ最近の付き合いで知っていたのでついでに言い添える。難しい表情のまま、けれど拒むことなく菓子へと手を伸ばした青年を見やって、リッカは自分のお茶をカップに入れた。


 リッカがこの青年を認識したのは、少年がリッカの仕事場に紛れ込むようになったのとほぼ同時期だ。少年には気付かれないように護衛に徹している青年の素性など、少年の素性同様に訊かなくとも大体は察せる。というか、少年の正体を考えれば、まぁそりゃ誰か付いてますよね、という感じだ。納得しかない。

 ツッコんで訊いたことはないが、さすがに少年相手のように完全に素の状態で話せるような相手でもないなぁ、とは思った。どう考えても、青年と自分との立場に絶大な隔たりがある。主に身分的なあれこれが。多少は丁寧な対応を心掛けるべきですかね、と思ったのは山々だが、青年の方がリッカに対して余程丁寧な対応をしているという現実がままならない。よし、諦めよう。あれはもう、本人の癖だ、癖。


 ちらりと見やった青年は、ひと言で言えば、どストレートに美形である。正統派の圧倒的美形。

 年頃のお嬢さん方とかいたら放っておかないんじゃなかろうか、という見た目と柔らかな物腰、お仕着せの制服とはいえ伯爵家の紋章の入った上等な衣服も相まって、やたらと男前度を上げている。そういえば前にメイドたちも騒いでいた。

 そんなイケメンがにんじんクッキーを嬉しげに食べている構図、というのはなかなかにアレな感じではあるが、当の本人が幸せそうなので良しとしたリッカである。お気に召したようで何よりだ。


「これ、本当ににんじんが入っているのですか?」

「入ってますねー。これでもかとすり下ろして練り込んだんで」

「そうですか……。これを、あの子が」

「そんなしみじみ言うほどオオゴトですか?」

「あの子がにんじんを口にした、というだけで相当なものかと」


 真顔だった。


「まぁ確かに、少年の偏食……というか、好き嫌い? 筋金入ってますよねー。あれ、誰も何も言わなかったんですか?」

「言って聞くと思いますか?」


 にこり、と微笑まれておおよそを察した。あ、無理なやつですね。少年の頭と口の周りの良さと、あと頑固さ辺りが主な原因なのだろうが、周囲の諦めもとても早かったやつだと思う、これ。

 その辺りはリッカにもとてもよく覚えのある感覚だったので、適当な相槌を打ってそのまま話題を流す。言って聞かせるのは無理だな、と思って、リッカは実力行使に出ることにしたので。野菜にしろ何にしろ、食べさせて慣れさせたもの勝ちだ。今のところ全戦全勝である。


 とはいえ、青年にとってあの子供は立派な護衛対象である。その相手にあれやこれやと好き勝手に食べさせている自分は、それなりに警戒相手として認識されるにふさわしいのではなかろうか。今更のようにそんなことを考えて、リッカは口を開いた。


「僕、少年に割と好き勝手に食べさせてますけど、問題があるようなら早めに言っていただけると助かります」

「いえ、そうですね……。どちらかといえば、あの子の食生活の方がよほど問題ですので、そのままの路線でお願いできれば、と」


 どうぞ遠慮なく、とむしろにっこり笑顔でお許しを貰ってしまった。

 いいのか、それで。





  * * * * * *


「野菜とか、全部鶏のエサだと思う」

「これまた生産農家に真っ向からケンカを売る発言を」


 唐突にきりっとした表情でそんなことをのたまった子供に、リッカは「はぁ……」と気のない声で応じた。


「俺は鶏じゃないから葉っぱを食べる趣味はない」


 本当に、無駄に、きりっとした顔と声で何を言い出すのだろうか、この子供は。

 元々の顔がえげつないほどにいいので様にはなっているが、言っている内容がどうしようもない。今日も子供は、全力で野菜を食べたくないと駄々を捏ねている。


「葉っぱ以外の野菜も山ほどあるでしょうに。この前少年がさくさく食べてたにんじんとか、トマトとか。甘くておいしいと思いますけど」

「黙れ。にんじんのことは口にするなこの卑怯者。トマト? あれは甘いんじゃなくて青臭いというんだ」


 この前にんじんクッキーを食べさせたことを、まだ根に持たれている。ぎろっと眼光鋭く睨み付けられたが、状況を考えるとかわいさとおもしろさを増長させるばかりだ。

 生産農家に限らず、全方位にケンカ売っていく方針なんですかね……? と内心でそんなことを思いつつ、リッカは「ところで少年」と声を掛けた。


「なんだ」


 憮然と返って来た声に、ちょいちょいと子供の前を指差しつつ、ひと言。


「トマトベースの野菜スープの皿を空にした挙句、おかわり要求してる今の状態で、それを力説されても」

「うるさい」


 食育は、着々と進行中である。

 だって遠慮するな、って言われたし。







  * * * * * *


 割と、日々を平穏に過ごしていたと思う。

 料理をするのは好きだし、それを仕事として腕を振るえる環境にも不満はない。最近は子供の食育も着々と実を結び始め、楽しいことになってきた。何がおもしろいって、食育されている本人にさっぱりその自覚がないあたりが、とても。たくさん食べて大きくおなり、とばかりに、リッカは隙あらば子供に野菜を食べさせている。本人はだいたい気が付かずに食べる。おもしろい。


 日々は、平穏だった。

 少なくとも、リッカはそう感じていたし、それは嘘ではなかった。

 けれど、日常にするりと入り込んで来た微かな違和感。それもまた、嘘ではなかったのだ。


「―― 最近、少年の姿を見ないなぁ、って思ってたんですけれど」

「そうですか」

「そういえば、騎士様にお会いするのもちょっと久々ですね」

「……そうですね」


 腕の中の小麦の袋をよいしょと抱え直し、リッカは通りすがりに捕まえて声を掛けた青年の顔を見上げる。……そんな、判りやすく微妙な表情にならなくても。

 素直な方だなぁ、と思う。見た目からして爽やかで実直な印象を受けるが、どうやら中身もそれを裏切らない人柄であるようだ。つまり、嘘が吐けない。


 リッカは、お屋敷の料理番である。数いるその料理番の、下っ端でしかない。お屋敷の運営など関わったこともないし、なんならご当主様の顔もうろ覚えといった有様である。リッカの物覚えの問題を差し引くとしても、単純にそんな偉い人に会う機会などそうそうないせいだ。そういう身分にいる。


 けれど、それでも。

 ここで働いていれば、肌で感じ取れるものがある。


 お屋敷の中の雰囲気が、どこかピリピリしている。

 そこにある日常は、あくまでも普段通り。そう装おうとしているのに、流れる空気がそれを裏切っている。どこか忙しげに動き回る家令や召使、ピンと張りつめた空気に、自然とメイドたちの表情も硬いものとなる。

 リッカが手にしている小麦も、ここ最近で嘘みたいに値が上がった。香辛料の類も手に入りにくくなっているので、料理長が頭を抱えている。


 そんな風に、少しずつ、少しずつ。忍び寄ってくるものがある。


 ご当主様は、ここ最近お屋敷に帰って来ていないらしい。帰って来る暇もないほど忙しいのだと、執事が話しているのをちらりと聞いた。

 リッカの日常は変わらないけれども、二日と空けず姿を見せていた子供や護衛騎士はその限りではなかったらしく、彼らの日常は慌ただしいものへと変化してしまったようだ。


 否応なく。逃れる術も、なく。

 それはきっと、よい変化ではなかっただろう。


 以前には見受けられなかった疲労の色を、その柔和な顔に滲ませた相手を見上げて、リッカは問うた。


「―――― 戦に、なりますか」


 どこか諦めたような笑みを、青年は浮かべていた。


「そうならないように、したいと思っています」


 それが、答えだった。









  * * * * * *


 あつい。

 先程から思考がそのひとことに支配されている。

 うっすらと白く濁ったような視界がうっとうしくて、子供は眉を寄せたまま少し身を屈めた。視界がはっきりしないのは、全部煙のせいだ。これを吸うのはまずい、と思って袖口で口元を覆う。ないよりはマシだろう、という判断だ。


 げほっと己の意思に反して零れ出た咳は、カラカラに渇いていた。先程から喉の奥がいがいがとした不快感を訴えている。喉どころか空気が乾いているのは、周囲で燃え盛っている炎のせいだ。あつい。ちりちりと肌を焼く熱気がとんでもなくあつくて、けれど噴き出る汗さえもその熱気がすぐに奪ってゆく。


 ゴォ……と低い音がする。

 それはなにかが燃えている音なのだと、子供はもう知っていた。


 ぐるりと首を巡らせて見回した周囲は、どこもかしこも炎にのまれていた。子供の記憶にある屋敷の面影など、もはやどこにもない。すべて、今、目の前で消えてゆこうとしている。


「……っ」

「若様!」


 胸中に過ぎった感情を誤魔化すように唇を噛んだその瞬間、鋭い声が己を呼んだ。


「グラッド」


 振り返らずとも、その声の主が誰かなど判りきっている。短く己の騎士の名を呼べば、足音がすぐ傍で止まったのが知れた。


「状況は」

「かなり、悪いかと。屋敷の周囲は完全に包囲されている模様です」

「……は、手回しのいいことだな」


 けほ、と小さく咳き込むついでに、眉を顰めて吐き捨てる。

 当主不在を狙った襲撃、やたらと火の広がりが早いことからも、これがすべて計画的であったことが窺える。


「王弟の手の者か」

「おそらくは」


 簡潔な肯定に、子供はフンと鼻を鳴らす。年齢に不似合いな仕草と表情だが、これが子供の生きる世界での標準仕様だ。この状況に怯え戸惑うだけの無様など、誰がさらしてやるものか。


「キナ臭い、と警戒はしていたものの、こうもあっさりと出し抜かれるのは面白くないな」

「……面目次第も、ございません」

「阿呆、誰がお前の話をした。俺や父上の詰めが甘いという話だろう。勝手に背負うな」


 今のこの状況をあっさりとそう評して、子供は再び周囲へと視線を走らせた。


 周囲は、火に囲まれている。

 さらにその周囲は、敵によって包囲されているのだという。

 逃げ場はないのだと、暗に示すような状況に、けれど子供はフンと再び鼻を鳴らした。絶望などしてやるものか。まだ終わりじゃない。打てる手を全部打って、それでも諦めてなんかやらない。決意を新たに、子供は己の騎士を振り返る。


「グラッド。何が何でも逃げるぞ、援護しろ」

「仰せのままに」


 さて……方角的にどこが手薄かと、思考を巡らせたタイミングで、ばさりと騎士のマントを頭から被せられた。火よけと煙よけにしろということか、と判断してもぞもぞとマントを被り直した、その時 ――、


「あ。ご無事でなによりです」


 あまりにも、場違いな声が、した。







 自分の周囲には、いなかったタイプの人間だと、思った。

 それが、第一印象だ。


 お屋敷に、新しく入った料理番。リッカ、と名乗った声はただただやわらかだった。

 のんびり、ふんわりと。己に与えられた職務を楽しそうに遂行する。腕は確かだが、向上心に欠けている。それが、彼の上司である料理長の評価だ。概ね、子供にも同意できる内容だった。


 たまに涼しい表情のままとんでもないことをやらかす、という評を思い出したのは、とんでもない味の試作品を食べさせられた時だっただろうか。口の中に広がった、苦いともえぐいとも酸っぱいとも言い難い味に、最初は毒でも盛られたのかと思ったが、「あ、ようやくカオが代わりましたね。味覚は正常、表情筋も死滅していなかったようで何よりです」と告げられた台詞で状況を悟った。お前……ほんとにお前、何してくれる……。心配の方向性と行動が斜め上過ぎる。

 その後も、いろいろと自分に対してやらかしてくれた。知らぬうちににんじんを食べさせられていた恨みは忘れていない。


 身元がすぐにバレないような恰好で、相手の領域にもぐり込んだ。多分、判りやすい服装でもぐり込んだところで、相手の反応はなにひとつ変わらなかっただろう。今なら、そう思う。だって子供がどこの誰かなんて途中で気が付かなかったはずもないだろうに、初対面の時から今まで何ひとつ対応が変わりはしなかったから。


 本当に、なにひとつ。

 対応は、どこか雑なままだった。


 おもねるでもなく、媚びるでもなく。知っているくせに、距離をおくでもなく。

 ただ普通の子供を相手にするように ―― どこか、弟を見るような目線で。


 甘やかされていたのだと、思う。



 その場に不似合いなのんびりとした声の持ち主は、これまた不似合いなふんわりとした笑みを浮かべて歩み寄って来た。


「探しに来たの、無駄にならずにすんで助かりました」


 炎の中、まるで普段と変わりない様子で、笑う。

 それはあまりにも異様で ―― けれど、相手の姿を認めて、子供がほっとした感情を覚えたのも確かなことだった。


「あれ、少年。随分男前度が上がって」

「…………意味が判らん」

「え? 煤けてくたびれた様子も似合う美少年ってすごいな、って」

「いや……そういう問題では、ない、と思います、が」


 意味が判らない、と子供は再び思った。戸惑い十割で返された騎士の台詞がもっともすぎる。

 そう、そこじゃない。そんな暢気な話はしていない。自分の感情の動きも意味が判らなかったが、そこも問題ではない。いや、なんだ、男前って。大体お前の方がよっぽど煤けてぼろぼろになってるくせに。

 なんなんだ、と思う。


「何でこんなとこにいるんだ、お前……」


 吸い込んだ煙のせいでもなく痛む頭を堪えて問えば、またしてもふんわりとした笑みを返された。

 炎に、相手の紅茶色の瞳がきらりと反射する。火の粉が、闇に煌めくような色彩 ―― 金色。それが笑みの形に細まる。


「探しに来た、って言ったでしょう」


 こちらへ、と踵を返した背中を、反射的に追い掛けた。

 玄関ホールとは反対側。屋敷の奥深く、その先にあるのが厨房だということを、子供も知っている。リッカからしてみれば、慣れた己の職場だ。迷うこともなくすいすいと、厨房の更に奥へと足を進めた。

 火の手はここにも既に回っているが、玄関側よりもまだマシだろう。けふ、と小さく咳をして、リッカはちょいちょいと騎士を手招きした。


「あ、騎士様。ここちょっと手伝って貰えます?」

「……これは?」


 言われるがままに素直に手を貸した結果、そこにぽっかりと口を開けた空間を前に、訝しげに騎士は問うた。屋敷の内部構造はすべて頭の中に入っている。護衛という任を預かる、その自負がある。こんな場所は知らない、と呟く騎士に、リッカはゆったりと口を開いた。


「何かですねぇ、最初はワインセラーが欲しかったらしいんですよ」

「は?」

「既にあるワインセラーとは別の、自分だけのものが欲しくて、駄々こねて作らせた、って聞きましたね」

「な、なんの話だ?」

「え、この貯蔵庫の話ですよ?」

「貯蔵庫……で、駄々……?」

「ええ、盛大にこねたらしいです。何代か前のご当主様が」

「は!?」


 そんな場合じゃないのに、純粋な驚きの声が出た。弾みで息を大きく吸い込んでしまい、げほげほと子供は派手に咳き込む。大丈夫ですか、と訊かれたが、大丈夫ではない。なんだかもういろいろ大丈夫ではない。


 僕も料理長から又聞きした話なので、そんなに詳しくはないですけど……と前置かれたそれによれば、要は昔の当主が妻に内緒で酒を溜め込める場所を欲して作らせた、ということらしく。そういう経緯なので、当然の如く屋敷の図面にも載っていない。が、世の摂理として妻への隠し事など早々成功するはずもなく、あっさりとばれたその場所は、そのまま貯蔵庫へと転用された、という顛末で。


「それが、この場所です」


 眼前に広がる扉の向こう、地下へと続く階段を指差して、リッカは告げた。


「一応ですね、貯蔵庫として使われてるんですけども、いろいろと手を加えた形跡があるんですよね、ここ」

「え?」

「諦めきれなかったそのご当主様が悪あがきをしたのか、それとも別のご当主様が他に有効利用しようとしたのか、さすがにそこまでは知りませんけど。―――― 外に、繋がってるんですよ」

「……え?」


 即座に理解できず、ただ闇雲に問い返した子供の背中を、リッカはそっと押して促した。


「ここから、逃げれます。多分、外の人たちはこの場所の存在なんて知りません。だから今のうちにとっとと逃げちゃってくださいな。少年……いえ、若様と、騎士様も」

「……っ」


 今更のように呼び掛けられて、息を呑んだ。

 知っていた。知られているだろうことは理解していて、でもこんな風に突き付けられるだなんて思っていなかったのだ。

 ぐっと唇を噛んだ子供に、リッカは笑う。


「知ってましたよ。さすがにね。でも僕にとっての若様は、好き嫌いの多い、意地っ張りなくせに変なとこ素直で可愛らしい少年でしかなかったので」


 不敬を承知で、若様だという事実は忘れてそのまま食育してましたね、とあっけらかんと言い切って、リッカはさぁと主従を促した。


「騎士様は先にどうぞ。中は暗いですので気を付けて」

「あ、はい……」

「少年も、急いで」


 はい、入って入ってー、と今度はぐいぐい背中を押すリッカを、子供は肩越しに振り返った。


 本当なら、振り返る暇なんてなかった。確かに、リッカの言う通り急ぐに越したことはない。炎も敵の手も、すぐ傍まで迫ってきている。

 疑ったわけでもない。これが逃げ道じゃないかもとか、騙されているかも、なんて、不思議なことにそんな感情はこれっぽっちも湧いてこなかった。


 ただ、今見ておかないと自分はきっと後悔する。

 そんな風に、思って。


 ゴオォ……と音がする。

 炎の音。やさしかった日々が、燃え尽きる音。


 リッカは、笑っていた。

 あちこち煤けて、ぼろぼろで、それでも。

 あまりにも、きれいに、やわらかく。



「―――― ディアド」



 大切なものみたいに、子供の名前を呼んだ。



「ほんとは、ずっと……名前で呼んでみたいな、って思ってたんです」



 最後なので、大目に見てもらえると嬉しい。

 そう言って、リッカは笑った。



 だって、ずっと呼びたかったのだ。呼んでみたかったのだ。


 それが、許されるなら。何度も。何度だって。




「さようなら ―――― 僕の、弟」




 君の名前を、呼んでみたかった。



 吐息のような声が、耳朶に響いた。子供は、瞳を瞠る。


 炎の中、きれいに咲いた、笑顔がひとつ。



 それが、リッカを見た最後だった。




 トン、と肩を押される感触と同時に、パタリ、と扉が閉ざされる。

 一瞬で訪れた暗闇の中、子供はひとつ瞬いた。


 扉は、閉ざされた。

 最後に見た笑顔は、扉の向こう側。


「……っ、おい!」


 思考は、即座に沸騰した。子供は眼前で閉ざされた扉に、ダンッ! と拳をぶつける。


「っ、おまえ、なんで……っ!」


 知っていたのか、と思う。

 子供が、自分の素性を隠してリッカの領域にもぐり込んだ、そもそもの理由。他にもっと向いていた職場もあっただろうに、最終的にお屋敷の料理番なんてものになるしかなかった、その理由。

 それを、最初から理解して、それでも。


「僕は、こちら側に残ります。この出入口も偽装して、少しでも発見を遅らせようと思いますので、その辺りはご心配なく」

「阿呆か! ちがう!」


 幾分か聞き取りづらいものの、向こう側からどうにか声が届く。こんな状況下でも変わらず淡々と響くそれに、反射で怒鳴り返した。

 もう訳が判らない。自分が怒りたいのか、泣きたいのか、それすらも判然とせず、ただぐちゃぐちゃになった感情だけがここに在る。


 名前も付けることのできない激情が、喉を焼く。


「ちがう……! お前が……っ」

「―― 僕も、初めて知ったんですけど」


 炎の音がする中で響く、やたら涼やかな声音。

 扉一枚隔てたその向こう側から、声が。


「お兄ちゃん、というものは、弟のためならどんなことでも頑張れてしまうものらしいです」


 やわらかく、告げられた言葉に、嘘はない。

 きっと、心の底からリッカはそう思って、そのまま子供へと告げている。それを間違い様もなく理解しながらも、子供は「うそつけ」と悪態を吐いた。そんな理屈なんて聞いたことない。なんなんだ、それは。馬鹿じゃないか。脳内をぐるぐると巡った言葉はそのどれもが声にはならず、胸の内を焦がしてゆく。ぐぅ、と喉の奥が鳴って、激情を吐き出す代わりに歯を喰いしばった。


 暗闇の中、相手の姿はここにはない。

 それでも、リッカがどんな表情をしているのか、子供には判るような気がした。


 最後に見た、きれいな笑顔。

 それが、瞼の裏に甦る。



「どうか、君の道行きに、幸多からんことを」



 やさしい声を最後に、気配は遠ざかった。

 迷いなく、惑いなく。遠くなる。もう……何もかもが、届かない。


 だん……と最後に振りかぶった拳は、そのまま力なく扉へと押し付けられた。俯きそうになった額を、更に拳に押し当てる。


「……若様」


 気遣うような声が、背後からした。ああ急がなければ、とどこか他人事のように思う。


 兄とは、呼べなかった。最後まで、本当のことなんて口にできなかった。

 何が弟のためなら、だ。お前はきっと、そんなものなんてなくても頑張ってしまうんだろうに。


 与えられたものを、知る。

 それから、断ち切られようとしているものを、知る。

 握り締めたままだった拳に更に力を込めて、それからひとつ大きく息を吐き出した。


 扉の向こうから、ゴオォ、と音がする。炎の音。

 その中に、望む声は、もう聴こえない。


 拳に額を当てたまま、子供は一度瞳を閉じた。

 そして。


「―――― 行くぞ」


 顔を上げた子供に、絶望はなかった。

 今、やらなければならないことを知っている。終わりじゃない。


 まだ、全部。なにもかも。


「諦めてなんか、やらない」


 最後に扉を睨み据えて、子供は迷いなく踵を返した。










 ある国で、王弟が反乱を起こした。

 開戦を唱える彼は、和平を結ぼうとする王と、それに連なる諸侯を力づくで排除しようとしたらしい。


 周囲へと伝えられた情報は、その程度のものだ。

 浅はかな考えで起こされた行動はすぐに鎮圧されることとなったが、その過程でいくつかの犠牲が出たのも確かなことで。


 穏やかだった日々は、屋敷と一緒に燃え尽きた。

 混乱に紛れて、子供と騎士は逃げ延びることができたけれども。

 反乱が鎮圧された後、どれだけの月日が流れても、そこに料理番の姿はなかった。




















  * * * * * *


「―――― と、まぁ……そんな出来事があったりしたわけなんですけれども」

「待って?」


 とある地方領主の館で、厨房係の青年が頭を抱えた。

 本当に、文字通り。右手で頭を抱えて、左手の手のひらを前に押し出した状態で動きを止めている。待て、のポーズに、それを繰り出された側の青年は不思議そうに首を傾げてみせた。


「どうかしましたか?」

「どうかしたか、じゃねーんだわ。待って? ほんとに待って? 今日の晩餐用のスープ、本来のメニューから変更するとか言い出したの何で、って軽い気持ちで聞いただけのオレに、そんな予想外にも程がある過去を語って聞かせるお前ほんとになんなの」

「え?」


 おら、心底不思議そうなカオをしてんじゃねーわそこ。本当、予想外にも程がある。


 本当に、ちょっとした疑問を口にしただけなのだ。

 領主の元に、王都からの客人が訪れた。ただの客人ではなく、王都のお偉いさんなのだという。……聞いた家名が、王国の四公爵家のひとつだったような気がする、なんてことは忘れてしまいたいがそれもともかく。

 同じく隣で家名を聞いていた同僚が、少しだけ思案した後に提案したのがスープの変更である。その理由を聞いて、締め括りに語られたのが先の反乱の話。なんでだ。


「ちょっとした疑問に、大惨事の過去話を返されたオレの身になって?」

「懐かしい過去を、世間話程度に提供したつもりだったんですが」

「世間話という概念に謝れ」


 いや、ほんと、全力で謝れ。

 頭を抱えていた手をこめかみへと移動させ、降って湧いた頭痛を堪えながら厨房係は呻いた。聞いてない……いや今聞いたけども、そうではなく。どちらかと言えば聞きたくはなかった。なんつー話をしてくれやがる。

 ちらり、と視線を向けた先で、頭痛の原因はといえば、待つのに飽きたのか皿洗いの仕事を再開させていた。


 数年前に、領主がどこからか連れてきた青年である。素性は知れないが、連れて来たのがこの館の最高権力者である領主だったことと、何より料理の腕が確かだったので、そのまま厨房係として雇われた。

 お人好しで、暢気で、世話焼きの長男気質。あと意外とマイペース。のんびりとした同僚から飛び出してきたまさかの話に、厨房係の青年は何とも言えない表情になった。まじか。……まじだな。こいつ嘘吐かねえもんな。


 青年の腕には火傷の痕がある。厨房に入る者としてはそう珍しくもない火傷痕だが、彼の過去を聞いた後では意味が違ってくる。お前、もしかしなくてもそれ……と思ったが、これ以上は怖くて訊けない。


「はぁ……で?」

「はい?」

「その話のオチは?」


 何でメニューのスープを変更しようと思ったのか、そもそもの疑問の答えを聞いていない。

 聞いたのは、そもそもの疑問の答えではなく、何故だか大惨事の過去である。いや本当にどういうことだ。


 ああ、と青年はぱちりと瞳を瞬いた。きゅ、と蛇口を捻り水を止める。


「もてなしの料理って、お客様の好みに合わせた方がいいのかな、と」


 そう思いまして、とゆるく笑んだその顔に、厨房係は は? と間の抜けた声を上げた。きゅ、きゅっと皿の水気をふきんで拭き取りながら、青年は話を続ける。


「そういえば、野菜嫌いでトマトなんて生産農家に喧嘩売ってますよね、ってぐらいに嫌ってる風な物言いだったのに、あのスープは黙々と食べておかわり要求してたなぁ……とか」

「おい、おま、それ……」

「そんなことを思い出したので、好みに合わせてみた結果のメニュー変更ですね」

「い……いやいやいやいや? だからお前、唐突にぶっこんで来るのやめよ? やめて?」

「え?」



 よく判らない、と首を傾げた青年 ―― かつての料理番の元へ、懐かしいスープの味に驚いた客人が、息を切らせて必死の形相で駆け込んで来るのは、この後すぐのお話である。

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Ling Long Time 真樹 @maki_nibiiro

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