じいちゃんの腕時計

すえもり

じいちゃんの腕時計

 去る十二月十七日は祖父の三周忌でした。 彼の名前はマサヨシ、漢字では正義と書きます。英語だと『righteousness』を意味します。


 クリスマスの時期ももう過ぎてしまいましたが、欧米では家族について考える時期だと思います。日本では八月中旬のお盆に祖先の魂が戻ってくると信じられていますね。

 それで、少々時期外れではありますが、祖父と、彼が私にくれた宝物についてお話させてください。


 祖父は孫が高校に入学するとき、それぞれに時計を買い与えました。時間は有限で貴重であり、勤勉な学生であり労働者であることは大切だと日々感じてほしいからだということでした。

 貰った時計は私の相棒となり、私たちは一緒に勉強し、一生懸命働いてきました。

 友人の手首にあるファッショナブルな時計を羨ましく思ったことが一度もないと言えば、ウソになります。ですが、私のものはシンプルで実用的です。カタログから選ばせてもらったもので、スタイリッシュなローマ数字、これは絶対に譲れないポイントで、レインボーカラーのシェルフェイス。日付、秒針を備えており、軽いチタン製のバンドです。また、当時は新しい機能であったソーラー電池を搭載しています。この時計は完璧なのです。


 祖父は七十代後半に認知症になってから、私に会うたびにこう言いました。

「ええ時計持ってるやんか、ちょっと見せてんか」

 私はいつも「じいちゃんが私にくれたやつやで」と答えました。 何十回と聞いた話を聞きながら、祖父の家の裏の山道を一緒にゆっくり散歩するのが好きでした。

 彼は朝、いちごジャムを塗ったトーストとコーヒーをセットに食べるのが好きなハイカラさんでした。嫌いなものは南瓜で、太平洋戦争中に南瓜ばかり食べていたためです。

 古い西部劇映画を愛していて、学生時代に僅かな小遣いを握りしめて劇場に通っていたそうです。退職後は書店でよく売っている廉価DVDセットを揃えて、大きなソファーのある居間で見ていました。

 祖父は大阪で生まれ育ちましたが、ジャイアンツ(東京を拠点とする野球チーム)のファンで、いつ訪れてもテレビで野球観戦をしていました。

 彼は五十代の頃、一度脳卒中を起こしたので、少し足を引きずって歩いていました。職場は小さな町工場で、兄とともに経営していました。新幹線用のばねなどの鉄部品を作り、高度経済成長を支えた、名も無き労働者の一人でした。誤ってハンマーで人差し指を叩いたことがあり、そのせいで指は歪んでいました。

「俺は中学の頃から働いててんで」「仕事で貯めたお金でこの家を買ったんや」と誇らしげに何度も繰り返し言っていました。


 歳をとるにつれ、何度も同じことを言うようになった祖父は、次第に外を徘徊するようになりました。自分で建てた家に住んでいるということを忘れ、工場で働かないといけないから帰ると、毎夕出て行こうとしました。祖母に、あんた誰やと言ったり、あんた良くしてくれるから結婚してくれへんかと言いました。祖母はひどく困り、よく母や叔母に、祖父を止められない、情けないと泣いて電話してきました。

 祖父はアルツハイマーだと診断されました。体が丈夫なのが取り柄でしたが、あまり徘徊しないように、足の力を弱める薬を出されました。そして祖父は週に何度かケアホームに通うことになりました。

 

 私は二十代最後の年、イギリスに留学すること決めました。高校生の時は親に反対されて諦めましたが、大学で英文学を学び、どうしても一度留学したいと思い続けていました。翻訳スクールや英会話スクールに通い、英語を使う仕事がしたいと思っていました。

 その頃には、腕時計は具合が悪くなっていました。祖父がケアホームに引っ越したころ、書店でフリーターをしていましたが、時計は止まったり動いたりするようになりました。

 その時計はじいちゃんだと、同い年で一緒に腕時計を買ってもらった従姉妹は言いました。

 じいちゃんは、私が留学する頃には寝たきりで、ケアホームに入っていました。最後に会ったときは、野球の話をすると頷いてくれたけれども、会話はできませんでした。ご飯を食べさせてあげても、ポロポロこぼしたりして、思うように体を動かせないようでした。


 私がイギリスに発つ日、祖母は母や叔母とともに、空港のホテルに宿泊して見送ってくれる予定でした。が、空港に着いた時、ケアホームから祖父の具合がまた悪くなったと連絡があり、ひとり先に帰りました。

 不安に思いましたが、以前にも同じことがあったので、私は予定通り日本を発ちました。


 それから二週間ほどして、ホームステイ先での暮らしにも慣れてきた頃、母から電話がありました。

 朝、はるか遠い西にある外国の台所で、祖父が重病でもう保たないと連絡を受けたのです。診断は、私が渡英した数日後に出ていたが、昨日急変したということでした。言わないでおこうか迷ったが、悲しむだろうと思って伝えたと。

 年末年始のため、航空券の予約は難航しました。ですがホストファミリーの助けのおかげで、その時手に入る一番早い航空券を手に入れることができました。

 冬は日照時間の少ない英国の、自分に割り当てられた部屋の窓際で、腕時計に日光を当てようとしました。でもすぐに止まってしまいました。

 その前の週に訪れた教会で、先に亡くなった父方の祖父の名前をカードに書いて祈祷してもらおうとした時、間違えてじいちゃんの名前を書きかけたからいけなかったのでは、と悲しくなりました。

 母によると、夏、私が英国で勉強するつもりだと聞いたとき、祖父は嫌がるように眉をひそめたそうです。そのことを私は知りませんでした。


 祖父が亡くなったとき、残念ながら私はまだヒースローにいて、ちょうど飛び立とうとしているところでした。前日はバスでロンドンまで二時間かけ、空港近くのホテルに泊まり、朝一で空港へ、そして十二時間のフライトと三時間の新幹線と普通列車の旅の後、私はすっかり疲れきっていました。

 弟が故郷の最寄り駅まで車で迎えに来てくれ、重い口を開き、間に合わなかったことを教えてくれました。祖父が亡くなったとき、一緒に病院にいる​​人はいなかったと。家族が去った直後だったそうです。母は、祖父は誰にも泣かせたくなかったのだろうと言いました。


 私はその後、祖父のお通夜と葬式に出席することができました。

 母は、私が手違いでホストファミリーの家にスーツケースを忘れたために替えの下着を持たずに帰ってきたと聞いて、病室でみなが笑っているとき、祖父の血圧が上がったと教えてくれました。私は少し、おっちょこちょいなのです。あの時祖父は笑っていたのかもしれないと母は言いました。なんとなく想像できます。祖父は、ちょっと真似しづらい独特の引き笑いをするのです。

 父は、私の代わりに祖父の耳たぶに触っておいたそうです。祖父の耳たぶはたいへん大きくて柔らかいので、私はいつもふざけて触っていました。すると祖父はやり返してきて、「どれどれ、いよっ大きいわ、これはお金が貯まるで」と言うのでした。


 年末年始の休暇中、私は祖母のもとに滞在しました。祖母は色々と祖父の文句を言っていたけれども、やはり愛していたのだと思います。普段とどこか違って、落ち着くまでに時間がかかりました。

 時計が動かないので、時計屋に持って行きましたが、店員は修理するのには少なくとも一か月かかると言ったので、祖母は私に祖父の腕時計をくれました。それで私はその時計を持って英国に戻り、三月頭まで勉強しました。

 お世話になった若くて熱心な先生は、パブで隣の席に座ったとき、祖父の腕時計に目を留めました。私の話を聞くと、彼は祖父に乾杯してくれました。

 週末旅行で教会を訪れる際は、祖父の名前を、祈祷してもらいたい人の名前を書くリストに記入し、ろうそくを買って供えました。神様は、宗教の違いなど見逃してくださると思います。


 いま、私には宝物が二つあります。修復後、最初の宝物は以前とまったく同じように機能しています。普段はそちらを使い、出掛ける時は祖父の時計をつけます。

 腕時計は、いつも私に彼を思い出させます。

 もう使い古されたフレーズかもしれませんが、彼は私の中にいて、いつも「みーちゃん(子供の頃のニックネーム)、頑張りや」と元気づけてくれるのです。

 じいちゃん、私はいま元気にやっています。英語を使う仕事ではないけど、洋書をよく扱う職場だから、時々役に立てます。昨日も訂正表を訳して先輩に感謝してもらえました。

 最近は、模試の採点もしていたりします。

 そしていつか、夢の本屋を開いて、自分の書いた本や友人の書いた本も並べたいと思っています。

「誰もやってないことをやらなあかんねんで」という言葉をこれからも忘れずに。

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じいちゃんの腕時計 すえもり @miyukisuemori

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