第8話 同じ気持ち
私はまどろみの中、意識が浮上するかしないかの合間を漂っていた。
雨音に混じって音楽が聞こえる。これは何だっけ、ゼリナイの曲。静かにクラゲがたゆたうような幻想的な曲。胡弓の調べが淡々と音を奏でる。タイトルを思い出そうとしても、眠りの中に引きずり込まれそうで、頭が回らない。
何だったけ、よく知ってる曲のはずなのに。
『海に眠る月』
遠くから誰かの声がした。優しく包み込むような、温かな声。
それから愛佳さんは何か他にも話していたようだけど、聞き取れない。でもその声が心地よくて、安心できて、開きそうなまぶたを閉じた。
***
「私ね、この曲好きなの。『海に眠る月』。寝る前に聞くと落ち着くんだよね」
店内で流れるのは私が好きなアーティスト、
けれど常連客でも、曲のタイトルまで知っている人は稀かもしれない。
なのに蜂屋愛佳は常識みたいに口にしている。私の学生時代からのオアシスである曲名を発している。
また私は一緒にいたくもないのに、この人に会ってしまって相席していた。
何故こんな罰ゲームみたいなことをしなくてはいけないのか。相席を断われきれなかった自分が恨めしい。
しばらく行くのをやめていたから、もう会わないだろうと思って来てみたらこれだ。もし神様が本当にいるのなら、彼らは私が嫌いに違いない。
「
私の曇天のような気分に気づかぬまま、彼女は話し続ける。
「ゼリナイってそんなメジャーでもないし、いや、テレビとかで曲が使われることもあるよ。でもね、誰もが知ってるほど有名じゃないからさ、初めはたまたま有線か何かで流れてるだけだと思ったの!」
蜂屋愛佳は残り少ないコーヒーを飲み干すと、それでは足りなかったのか、テーブルの端によけられたお冷にも手をつける。ほんのり薄紅色になった頬が興奮している様子を伺わせた。
「でもね、通っているうちに、ここで流れる曲の半分くらいはゼリナイの曲だって気づいて。それから滅多に近づかないカウンターの奥に、色褪せたゼリナイのポスターも見つけて。マスターに聞いたら、筋金入りのゼリナイファンだったわけ。何て言うのかな、広い広い誰もいない砂漠の中で、やっと人に出会えたような、そんな感動があったの。目の前に、自分の身近にゼリナイのファンがいるって!」
「⋯⋯そうですか」
私は素っ気ない返事をするので精一杯だった。
「ごめんね、楓ちゃん。つい語っちゃった。気持ち悪いよね。ごめん。でもさ、あの時、本当に感動して⋯⋯、話したくなって」
「⋯⋯別に気にしてないので」
「もっと聞いてくれるってこと?」
「そんなこと言ってません」
「だよねー。あはは。⋯⋯すみませーん、コーヒーのおかわりくださーい!」
私の胸の内など知らずに、呑気にへらへらしながら、蜂屋愛佳は通りがかったウェイターに声をかける。
「このお店の選曲、最高ですよね」
なんてコーヒーを注ぐウェイターに話しかけ、「どうも」と引き気味の反応をもらっているのをぼんやり見ながら、私は楽しそうにしている彼女に以前なら持っていなかった感情を抱いていた。
例えば、適当につけたラジオでたまたまゼリナイの曲が流れて嬉しかったこと。CDを初めて手にして知らなかった曲を聞いたこと。ファンクラブの会報を初めて手にした時のこと。二十歳になってやっとゼリナイのライブに参加したこと。それらの出来事をファンサイトの掲示板で知り合った友人に話して、盛り上がったこと。
ゼリナイにまつわることは何でも嬉しくて、でも語れる人はそんなにいなくて。やっと出会った人に話せた日のこと。
(蜂屋愛佳も私と同じような感情持ってるんだ)
ただ単純にそう思った。思わされてしまった。
好きなことを語れるのが嬉しいって、私も知ってる感情を、当たり前だけど、嫌いなこの人も持っていて。
そしてその好きなことが私と同じだった。
この間、この人がゼリナイのメモ帳を持っていた時は、自分でも分からない嫌な気持ちで溢れていたのに。今は、どうしてだろう、その気持ちが波に流されたかのようにない。
私もよく知っている。数少ない同志に出会えた嬉しさを。話せる喜びを。
嫌いで嫌いで仕方なかったはずの蜂屋愛佳は、過去にも今にもいる私と同じ気持ちを抱いている人。
「ねぇ、楓ちゃん、引いた? 私なんかがこんな綺麗な曲好きで、引いた? 引くよね〜。そうだよね。似合ってないもんね。⋯⋯昔の恋人にもらしくないなんて言われたし。うん、分かってる。分かってるんだけどね」
一人でしょぼくれている姿を見たら、私は笑えてきてしまった。
「ふっ、ふふふっ」
「楓ちゃん!?」
「本当、蜂屋先生って変な人」
「笑うくらい変!?」
「ええ。変です。好きなアーティストが先生のイメージと違うくらいで、しょんぼりするなんて。別に何を好きでもいいじゃないですか。だって、好きなんですよね、ゼリナイの曲。いいじゃないですか。私だって、ゼリナイの曲好きですよ。『海に眠る月』は寝る前や夜に聞くと最高だし、ほら、今かかってる『わらうネモフィラ』は嬉しい時に聞きたい。『この曲いいよね』って誰かと話してる時のわくわくした気分にぴったりですから。先生もそう思いませんか?」
私はカバンから部屋の鍵を取り出してテーブルに置いた。それから、ハンドタオルとメモ帳も。
先生は、はっとしたようにまじまじとそれらを見ている。
「この鍵についてるキーホルダー、ゼリナイ十五周年の時のやつ!? このメモ帳、色違いの持ってるし、ハンドタオルはライブ会場でしか買えないやつだよね!? ⋯⋯どういうこと、楓ちゃん?」
「見たら分かりますよね」
「⋯⋯え?」
先生はぽかんとして私とグッズを交互に見ている。
「バカなんですか?」
「ひどい、楓ちゃん。なんでそんなこと言うの」
「⋯⋯私もゼリナイのファン、ってことです」
「えぇぇぇぇっ!!!」
あまりに先生が大きな声で驚くから、店内の客の視線が一斉にこちらに集まった。
「声、大きいです。静かにしてください。恥ずかしい人ですね」
「ご、ごめん。なんか、びっくりして。だって、身近にゼリナイファンがいたのが初めてすぎて」
「⋯⋯私も、
言ってて、だんだん恥ずかしくなってきた。何で、先生にファンなのを打ち明けてるんだろう。何で、語ってるんだろう。分かんない。理屈じゃない。勝手に、そうなった。嫌いなのに、嫌いだったのに。
「か、楓ちゃんっ!!!」
先生はテーブル越しに腕を伸ばして、こちらをハグしようとしてきた。コーヒーがこぼれそうになり、慌てて先生は席に座り直した。
「ごめん、テンション上がっちゃった。そっか〜、楓ちゃんもゼリナイ好きなんだね。あ〜、嬉しい! 嬉しいな〜。楓ちゃん話したい! あのね、すごく話したい。聞いてくれる?」
「嫌です」
「冷たい!」
「嘘です。⋯⋯私も、⋯⋯先生の話、聞きたい、かも」
それから時間が許す限り、私たちは好きな音楽について語り合った。
愛があるから大丈夫 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko
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