第7話 苦い思い出は

 


 休みの日にどこにも出かけず、お気に入りの喫茶店にも行かずに、居間で寝転がっている。


 窓に目を向ければ、清々しいほどの青空に綿あめのような雲が並んでいる。こんなお出かけ日和に家にこもっているのは、もったいない。


 散歩して、少し体を動かして、疲れたところで喫茶店の美味しいフレンチトーストを食べて⋯⋯。そんな休日を過ごせないのは、言うまでもなく蜂屋はちや愛佳あいかのせいだ。


 どうして私の数少ないテリトリーにあの女がいるのか。その上、もしかしたら同じ音楽を好きかもしれなくて。


 私はあの女の顔を思い出して、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。


「そもそも、なんで、こんなに嫌いなんだっけ⋯⋯」


 ずっと胸の内に渦巻くモヤモヤした何か。蜂屋愛佳が嫌いで、嫌いでどうしようもなくて、でも何で中学校を卒業した今でも嫌いなのかはっきりとした答えは持っていなかった。


 目を閉じると、中学時代の思い出がふっと浮かんできた。





 あれは中学二年生の梅雨の時期だった。

 その日は朝からしとしとと、まとい付くような雨が降っていた。


 強く降るわけでもなく、止む気配もない雨はじっとりと世界を覆っている。


 私は傘を差して通学路を進む。仲のいい友人はみんな運動部で朝練があるから、朝に一緒に登校することはなかった。


 一人で雨の中を歩いていく。心の中では大好きなゼリナイの『紫陽花あじさい』が流れていた。


 鬱陶しい雨も、好きな曲があれば少しだけ悪くないと思える。


 学校まであと少しのところで、急に傘を打つ音が大きくなる。雨足が強まった。


 私は早く学校へ行こうと早足になる。あまり足元は見ていなかった。だから通りから学校へ続く歩道の境目にある段差に気づかない。スニーカーの先が段差に引っかかって、私は体勢を整える間もなく、派手に転んだ。傘が跳ねるように道に放られて、私は運悪く水たまりに膝から崩れ落ちた。


 私の横を通り過ぎる生徒たちは、何を言うでもなく、何も見なかったように去っていく。


 恥ずかしい気持ちと、自分の不注意さに、今すぐにでも消えてしまいたい。


 私も何でもなかったように立ち上がって、傘を拾う。


倉井くらいさん、大丈夫?」


 後ろから声をかけてきたのは、去年同じクラスだった沢野さわのさんだった。


(よりにもよって、彼女に見られるなんて⋯)


 沢野さんは、私が密かに好きだった女の子。


 誰にでも分け隔てなく優しくて、笑顔が可愛くて、一番に情けない姿を見せたくなかった相手。


 今日は運がついてないのかもしれない。


「うん、大丈夫。ありがとう」


 惨めな自分を見られたくなくて、私は傘で顔を隠しながら返した。


「怪我してない? 制服も濡れてるし、学校着いたらすぐに体操服に着替えた方がいいよ」


「⋯⋯そうだね。そうする」


「学校に乾燥機ってあったっけ?」


「乾燥機はないんじゃないかな」


「だよねー。事情を話したら保健室でならタオル借りられると思うんだ。私、先生に言ってくるよ!」


 こちらが止める隙もなく、沢野さんは赤い傘を揺らしながら、校門に向かって走り去ってしまった。


「大丈夫なのに⋯⋯」


 困っている人を見たら居ても立っても居られないのが、沢野さんだ。そんなところもやっぱり好きだなとしみじみしてしまう。


 結果として沢野さんと久しぶりに話せてよかった気持ちが勝る。


 私はささやかな幸福を噛み締めながら、学校へと歩き出した。




 昇降口でスニーカーから上履きに履き替えていると、バタバタと走ってくる音が近づいてくる。視線を向けるとそこには沢野さんがいて。


「倉井さん、先生呼んできたよ!」


かえでちゃん、制服濡れてるじゃない! 膝も擦りむいてるし⋯。大丈夫?」


 何故か担任でも何でもない蜂屋先生がいた。


(どうして蜂屋先生がいるの?)


 隣りにいる沢野さんを見て気づいた。沢野さんのクラスは三組。そして三組のクラス担任は蜂屋愛佳。沢野さんは私の担任でもなく、保健室の先生でもなく、自分の担任を呼んできてしまった。


 何で沢野さんの担任がこの人なのか。タイミングが悪いというか、運の巡り合わせが悪いというか、やはり今日はついてない。沢野さんは私が蜂屋先生を嫌っていることは知らないし、全く悪気などなく連れてきてしまった。それが余計に堪える。


「楓ちゃん、取り敢えず先に保健室に行かなきゃ」


 何故か慌ててる先生に腕を掴まれるまま、体育館へ続く廊下へ引っ張られる。


「蜂屋先生、そっちじゃないです!」


 沢野さんが保健室のある方を差す。


「ごめん、沢ちゃんありがとー。間違えた。あっちだ。楓ちゃんも怪我してるのにごめんね」


「⋯いえ、大丈夫です。一人で行きますから」


 私は多少強引に先生の腕を振り払った。

 

 怪我だってちょっと擦りむいた程度だし、制服も濡れてるけど、さっさと体操服かジャージにでも着替えれば済むことだ。


 沢野さんの親切を無駄にしたくはないけど、蜂屋先生とはなるべく関わりたくない。園芸委員で一緒なだけでも嫌なのに。


「でも、心配だよ楓ちゃん」


「大丈夫です」


 私は先生の顔も見ずに言うと、教室へ続く階段の方に進む。色んな感情が渦巻いていて、腹が立つのか、悲しいのか、情けないのかもよく分からなくなっている。


 勢いよく歩き出した拍子に、私はつんのめって、またもや転んでしまった。雨で廊下が所々濡れているのも良くなかった。今日、二度目の醜態を晒すはめになる。


「楓ちゃん!!」


「倉井さん!!」


 先生と沢野さんが駆け寄って来た、と思ったら私の体が浮き上がった。


 咄嗟の事態に混乱していて、言葉が出ない。


 私は先生に抱き上げられていた。


「わぁ、目の前でお姫様だっこ初めて見ましたー」


 と感心したように呑気な声を上げたのは沢野さん。そう、私は蜂屋先生にいわゆるお姫様だっこをされている。


「せ、先生!?」


 私が降りようとすると、がっしりと抱えられて、身動きできなくなった。


「保健室に連れて行くから!」


 有無を言わさぬ力強さで、抱き上げられたまま、私は保健室の方へと連れ去られた。


 すれ違う生徒たちの視線が痛い。


「蜂屋先生すげー」


「女が女をお姫様だっこしてるの初めて見た」


「王子様とお姫様みたいー!」


 次々上がる歓声に私は一刻も早く時間が過ぎてほしかった。


 昇降口から保健室なんてすぐ近くなのに、先生に抱き上げられている間はいやに長く感じた。


 保健室の黒い長椅子に下ろされて、ようやく解放される。


(この人のせいでいらない恥かいた! しかも沢野さんの前で! 一生絶対許さない!)


 私は精一杯睨みつけたけど、先生はそれに気づかないのか、室内を見渡している。


木下きのした先生まだ来てないのかな〜」


 言われてみれば、保健室は無人だ。むしろこれ以上恥ずかしい姿を見られず済んだから無人でよかったけれど。


「職員室に木下先生呼びに行ってくるね。楓ちゃん、座って待っててよ。絶対だからね」


 私が蜂屋先生がいなくなった隙に教室に行こうと考えたのを、まるで見透かしたみたいなことを言ってくる。


「⋯⋯⋯⋯」


「楓ちゃん、怪我してるんだから大人しくしててね」


「⋯⋯はい」


 念を押される。教室に戻って探されても厄介だし、大人しく待つことにした。


 その後は木下先生が手当てしてくれて、保健室で体操服に着替えた。捻挫や打撲などもなく、膝と肘を少し擦りむいた程度の怪我だった。


 でも蜂屋先生はやたら心配して、手当てされてる最中もおろおろしていて、木下先生から「倉井さんは大丈夫ですから」と言われてやっと大人しくなった。


 このくらいの怪我で心配するなんて、バカみたいでうざい。仮に骨折でもしてたら失神でもしそうだ。本当に鬱陶しい。


 どう考えても蜂屋愛佳は好きになれないと改めて実感した。





***




「あ〜、美味しい〜。生き返る」


 目の前で愛佳さんは実に幸せそうにフレンチトーストを食べている。


 この人はいつだって日々幸せそうで、きっとどんなことにも幸せを見いだせる人なのだろう。


 だからこそ、一緒にいて幸せだし、私の気持ちも満たされる。


 学生時代の私には逆にそれが煙たかったのだけれど。


「楓ちゃんさっきからぼんやりしてどうしたの? 楓ちゃんもフレンチトースト食べたくなった? 

一緒に食べる?」


「私はいいです。ちょっと昔のことを思い出してただけです」


「昔のこと? どれくらい昔?」


「色々です。去年のことだったり、もっと昔のことだったり。あっ、中学時代の"あれ"は忘れてないですからね。私、恥ずかしかったんですから」


「中学時代⋯⋯?」


 愛佳さんは真剣な表情で考え込む。


 その間、私はコーヒーを味わう。


 カップの中身が三分の一まで減ったところで、愛佳さんは「全然分からない⋯⋯。どうしよう⋯⋯」と絶望したようにつぶやいた。


 そんな愛佳さんに笑いそうになる。きっと必死に思い出そうとしてくれたと分かるから。そして何か分からないことに、不安になっているから。


「お姫様だっこ。あれ、すっごく恥ずかしかったんですからね」


「ああ!! 梅雨の時期に楓ちゃんが転んだ時のこと?」


「そうですよ。もう、教室に戻ったらクラスメイトに騒がれて大変だったんですよ」


「いや、あの時は急に楓ちゃんが転ぶから、どっか具合も悪いのかと思っちゃって⋯⋯」


「だからってお姫様だっこなんてします?」


「急いで連れて行かなきゃと思ったらお姫様だっこしてた。ほら、中学時代の楓ちゃんって小さかったじゃない」


 確かに当時の私は背の順で前から二番目で小柄な方だった。身長だって背の高い愛佳さんの肩くらいまでしかなかったし。


「なんかね、小さくて可愛くて、他の子以上にほっとけなくて⋯⋯」


「私より背の低い子もいたのに?」


「楓ちゃん、おとなしかったし。そういう子は余計に心配になっちゃうんだよ。楓ちゃんは私のこと、そんなに好きじゃなかったでしょ。私には具合が悪くても打ち明けてくれないかもって思ったし」


「好きじゃないというか、嫌いでしたけどね」


「そんなはっきり言わないで⋯⋯。過去のことでも悲しいから⋯⋯」


 愛佳さんが手を握ってくる。


「⋯⋯今は嫌いじゃないですけど」


「うん、知ってる」


 フレンチトーストを食べていた時以上の笑顔を真っ直ぐに向けられて、こそばゆくなる。


「楓ちゃん今はどう?」


「どうって何がですか?」


「お姫様だっこされたい?」


「なっ、何いきなり変なこと聞くんですか!!」


「何で怒るの? 今もお姫様だっこされたいならしようかなって。もちろん、家でね。ベッドに運ぼうか?」


「しなくていいですよ、バカ! バカ!」


「それは素直じゃないツンデレな楓ちゃん? それとも本当にされたくない?」


「知りません!」


 苦い思い出に包まれた夜も少しずつ更けてゆく。

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