第6話 微かなつながり

 水槽をふわりふわりとのんびり泳ぐクラゲたちに別れを告げて、最後の水槽に向かう。中学生の頃に見忘れた魚を眺め、この広い水族館も出口が目の前だった。


 そこを出ると海底から水面に浮き上がったかのように、明るい光に照らされる。まるで夢から醒めたような、美しい幻が消えてしまったような、寂しさが去来した。


 出来ることなら余計な感情をまっさらにして巡りたかった。また来よう、次は気持ちがくさってない時に。


 私はお土産ショップを見て回る。せっかくだから何か買いたい。


 ショップ内は当然だけれど、海の生き物グッズで溢れていた。リアル系から可愛いマスコット系まで、様々だ。


 特に目を引くのはぬいぐるみだろうか。種類も豊富で、可愛いから欲しくなる。


 心の隅で「いい年して」ってもう一人の私が呆れているけど、大人になっても可愛いものは可愛いのだ。


 私は手のひらで包めるくらいの小さなメンダコのぬいぐるみを手に取った。つぶらな瞳が愛らしい。


 陳列棚に二列に並んだメンダコを見ていると、何となく二つ買って私も揃えて置きたくなってしまう。


 二匹のメンダコとペンギンのポストカード集も合わせて買って、ささくれた心も和らいだ。


 ショップを出て外に行くと、自然と海へ続く遊歩道の方に向かう。


 木製のスロープを進み、砂浜へと続く石段を降りた。


 さくさくと乾いた砂浜を踏みしめて、海へと近づく。子守唄のような波の音が、心地よく耳に響いた。開けた海辺にいると、気持ちにもゆとりが増える気がする。


 数時間前にむしゃくしゃしていたのが馬鹿みたいだ。


 たった一人の、たかが中学時代の教師に何を苛立つ必要があったのだろう。


 波音が私の心の棘を集めて流してしまったせいか、今は妙にさっぱりした気持ちになっている。


 少し海辺でのんびりしようと思った私は、カバンからお気に入りのあの本を取り出そうとした。石段に腰掛けて海を感じながら読むのに最高の本を。


 しかし、いくらカバンの中を探しても見つからない。持ち物なんて大して入ってないのだから、すぐ見つかるはずなのに。


 私は喫茶店での光景を思い出す。


 蜂屋はちや愛佳あいかが来て、私は本をテーブルの隅に追いやった。それから⋯、それから⋯。


 私は本をそのままにしてしまったことに気づく。カバンにしまう動作は記憶にない。


 早く立ち去りたくて、すっかり文庫のことを失念していた。


 おそらく本は喫茶店にあるだろう。よく通ってるから、店員さんが回収して預かってくれているかもしれない。


「はぁ⋯⋯。何やってんの私」


 ため息まじりの呟きは波音にかき消された。

 





 翌日の日曜日、私は喫茶店まで本を取りに行くか行かないかで迷っているうちに、無駄に時間を消費した。


 もし行ってまた蜂屋愛佳に会うのは嫌だったから。


 確か喫茶店近くの塾で働いていると言っていた。日曜日なら塾は休みの可能性が高い。休みの日にわざわざ職場近くの喫茶店に来るだろうか。きっと来ないはずだ。


 でも、万が一のこともあるし。


 なんでこんな下らないことで悩まなければいけないのだろう。


 あれもこれも蜂屋愛佳が存在するせいだ。脳裏に浮かぶ笑顔が憎憎しい。


 平日よりは日曜日の方が会う確率は低いと踏んで、私はメイクもそこそこに家を出た。今日は本を回収してすぐ帰ろう。


 喫茶店前に来て、向かいの学習塾を確認する。見たところ休みのようだ。


 これであの女に会う確率は極めて低くなった。


 安心して喫茶店へ続く階段を登った。


 扉を開き、レジ奥に向って声をかける。


 よく見かけるウェイターさんが出てきた。私は昨日、本を忘れたことを説明する。


「本ですか。少しお待ちいただけますか」


 手持ち無沙汰なまま待っていると、しばらくしてウェイターさんが本を持って戻ってきた。


「こちらの本でお間違いないですか?」


「はい、そうです。ありがとうございます」


 何とか無事に見つかって、私はほっとした。本なんてまた買えばいいじゃないかと思うけれど、ずっと手元にあったものだから愛着がある。


 本を回収したら帰るつもりだったけれど、見つかった安堵感から、一息つきたくなった。


 窓際の席でいつものコーヒーを注文して、私は本を開いた。すると一枚の紙がテーブルに落ちた。



 かえでちゃんへ 

 昨日はありがとう。久しぶりに会えて嬉しかったです。もし何かあったらいつでも連絡してね

 蜂屋愛佳



 の文字とメールアドレスが記されていた。 


(連絡することなんて何もないんだけど)


 こんなメモが入ってるなんて、おそらくあの人がこの本を店員さんに預けたのだろう。黙って預けてくれればいいのに、余計なものを挟まないでほしい。


 メモ帳を握りつぶしそうな衝動を抑えて、改めてそのメモを見てあることに気づいた。


 メモ帳は淡い水色で、クラゲのイラストが薄く印刷されている。下の隅に小さく『Jellyfishゼリーフィッシュ Nightナイト』の文字とサイトのアドレス入り。


 私が大好きな音楽グループ、ゼリナイのグッズだった。


 このグッズはファンクラブ会員限定サイトで売っているもので、私も買ったことがある。そこらの文具店などでは入手できないものだ。


(なんで、あの人がこのメモ帳を⋯?)


 ゼリナイ自体は世間から見れば、かなりマイナーなアーティストだ。そうそう誰でも持っているグッズじゃない。


 仮にゼリナイが誰もが知ってるアーティストであっても、ファンクラブ限定サイトのグッズを持ってる人は多くないはず。


(あの人もゼリナイのファン⋯⋯?)


 そんな想像はしたくない。だって、私の好きな音楽を、私が嫌いな女も好きだなんて、そんなの、不愉快だ。


(もらいものの可能性もあるし)


 とにもかくにも、あの人と何か共通点なんて持ちたくない。この喫茶店で遭遇するのだって嫌なのに。 


 私の大事な場所が、音楽が浸食されてしまいそうで、なぜか涙が出そうになる。


 嫌いだから、私は蜂屋愛佳が嫌いだから。


 でもなんで、こんなに嫌いなのだろう。


 自問自答しても明確な答えは出なかった。

 



 



 

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