第5話 水族館と巡る記憶
私はただ黙々と歩いていた。急いでいるわけでもないのに早足になっていることに気づいて、立ち止まり地面から顔を上げる。向かいには大きな駅ビルがそびえていた。
自分でもよく分からない怒りのようなものが、今の私を支配している。
多分相手からしたら理不尽極まりない私の怒りは、夜の湖面のように静かに静かに広がっている。
気分転換をしたい。そもそも土曜の朝から『ハニービー』にいたのは、いつもと少し違う時間を過ごしたい、まさに気分転換だったわけで。あの人さえ来なければ、私はまだあそこでうららかな午後を過ごせていたのだ。それが失われたのだから、新たな気分転換が必要だ。
私は駅ビルのエレベーターへと足を向ける。到着したのは駅構内。私は切符を買った。どこか遠くへ行きたい気分。でも実際に遠くまで行くには何の準備もしていないから、三駅ほど電車に揺られることにした。
ホームに行くと、ちょうどよく目的地まで走る電車が到着する。乗り込んで南側のドア付近に立つ。どうせ三駅なのだから、座らなくてもいい。何より景色が見たかったから。立っている方が車窓を眺めるのに都合がよかった。
走り出した電車はしばらく住宅街を走ると、橋を渡る。大きな川とその先に開けた海の水面は太陽の光できらきらと輝いていた。橋を渡り切るとあっという間に海は遠ざかって見えなくなる。
目的地に海は入れてなかったけど、追加しよう。
降車駅に到着し、更に別の路線に乗り換える。電車は住宅の合間を蛇行して、終点までたどり着く。駅を降りると海はもうすぐそこ。波の音は聞こえないけれど、ほんのり潮の香りがする。
たった数十分で別世界まで来てしまった、そんな感覚が楽しい。
私は行こうと決めていた場所に行くために、スマホで地図を確認する。以前に行ったことあるとはいえ、久しぶりなので道順はうろ覚えだった。確認したらルートは至ってシンプル。迷わずに行けるだろう。
私は歩いて目的地へと向かった。
水族館へ。
私は久しぶりにやって来たその建物に、思わず感嘆の声が出る。
ここの水族館は地元ではとても有名で、県内の人間なら誰でも一回は訪れたことがある。なにせ幼稚園や小学校では必ずと言っていいほど、遠足先になっているからだ。
私も家族と来たり、遠足で来たり何度も足を運んだ場所。でも来るのは中学生の時以来だろうか。
そこで再び脳内に蜂屋愛佳の顔が浮かび、私は慌てて打ち消した。今思い出すことではない。
忘れていた嫌なことを一つ思い出してしまったけど、後戻りするには場所が悪かった。
(私は魚を見る。魚を見に来たんだから!)
気を取り直してチケット売り場へ赴く。土曜日とあってか、少し列ができていたが、そんなに待つこともなさそうだ。私は列の最後尾に並ぶ。前に並ぶ人たちは家族連れが多い。他にも若いカップル、友だち同士で来ているらしいグループなど様々な人たちが見て取れた。私のように一人で来てそうな人もいる。
五分ほど並んだところで、ようやくチケットを買い、私は水族館へと足を踏み入れた。
まず最初に目に入るのは巨大水槽。水族館の前に広がる海を再現しているらしい。ここに泳ぐ魚たちは、あの海にも泳いでいるのだと思うと不思議な感じがした。あの少し蒼く沈んだ海も、中に潜ればこの見上げるほどに大きな、光溢れる水槽と同じような景色が広がっているのか⋯。
悠々と泳ぐ小さな鮫やエイ、群れを作る魚たち。近くにいる人たちは夢中になって水槽を見つめている。私はしばし、現実を忘れて眺めていた。
館内は各ゾーンごとにテーマが決まっていて、それに合わせた水槽が並んでいる。
(中学生の夏休みの自由研究で来たんだよね)
理科の課題でレポートがあって、テーマは好きに決めてよかった。だから私は遊びも兼ねて水族館に行こうと決めて。
誰も誘わず、誘えるほど気心が知れた人もいなくて、私は一人で水族館まで来たんだった。
確かあの時は火曜日で、思ったほど人はいなくて。でも誰か知り合いに会ったらどうしようって、少し緊張していた。
けれど魚たちを見ていたら、そんなもの全部吹き飛んだ。きれいな魚たちが泳いでいるのを見ているだけで、癒やされて、私は水槽一つ一つに惹き込まれた。
そしてこの水族館の目玉の一つとも言えるクラゲの水槽コーナーに来た。
深い青に沈んだ空間に、クラゲの水槽が幻想的に浮かび上がる。
当時知ったばかりだったゼリーフィッシュナイトの曲、「
帰ったら「海月月夜」を聞きながらレポートを書こうと心に決めた。
クラゲコーナーは薄暗いせいか、何だか落ち着く。人も全然いなくて、自分だけの世界みたいで、私は白く優雅に泳ぐクラゲを見つめ続けた。
「ちょっと
楽しそうな人の声で現実に引き戻される。それはどこかで聞いたことがある声だった。背筋がぞわっとする。まるで天敵に合った時みたいに。
私の視線は自然と声がした方に向いた。
女性の二人組だった。二人共女性の平均身長からすると、高めで目を引いた。よく見ると二人は手を繋いでいる。
「アイカ、こっち来て。ほら、クラゲたくさん泳いでるよ」
よく知っている名前が聞こえた気がした。
嫌いな数学教師と同じ名前、アイカ。
二人組の顔は暗がりではっきりとは見えない。それでも背の高い方の女の顔は蜂屋愛佳に似ていた。でも気の所為かもしれない。きっとそう。
二人は仲睦まじそうにクラゲの水槽を覗き込んでいる。私の存在に気づいてないのか、ぴったり寄り添って。
この二人は二十代後半くらいに見える。それなりの大人だ。
その大人が子供でもないのに手を繋いでいるなんて、余程仲がいいのだろう。
そうでなければ、いくら同性でも手なんて繋がないはずだ。
(恋人同士⋯⋯? まさかね)
心臓がどきどきしてくる。
私は見てはいけないものを見ているのかもしれないという気持ちと、自分も同性が好きだという向き合いたくない事実を突きつけられたような⋯。何だかそれは胸が痛くなる光景だった。
(姉妹かもしれないし)
どんなに仲がいい姉妹でも大人ならば手なんて繋ぐわけない、いや、あるかもしれない。
私は目の前にいる二人が何なのか分からなくて、分かりたくもなくて、慌ててクラゲコーナーから走り去った。その時にアイカと呼ばれていた女性が振り返った気がするけど、多分暗くて私のことなんてよく見えなかったはず。
その後のことはよく覚えていない。出口付近の水槽を適当に見て、お土産も買わずに電車に飛び乗った。
そんな中学時代のしょっぱい記憶がじわじわと蘇ってこなくてもいいのに、蘇る。
結局あのアイカと呼ばれた人が蜂屋愛佳だったかどうかは分からない。声が似ていた。背丈も、雰囲気も。でもあんなところで、恋人かもしれない女性と蜂屋愛佳がいたというのは、どうでもいいことだ。
世の中には自分と似ている人が三人はいるというし、あれも蜂屋愛佳に似た赤の他人の可能性がある。
だから水族館の記憶に蜂屋愛佳はいない。ここで思い出すことでもない。
それに、何で蜂屋愛佳を抹消したくて水族館まで来たのに、また思い出さなくてはいけないのだ。こんなのは損だ。
私は深呼吸をして気持ちを入れ替える。
今はただ一人でこの海の世界を楽しむ。それだけでいい。
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