第4話 フレンチトーストと再会
「仕事終わってほっとしたらお腹空いてきちゃった。何か頼んでいい?」
「こんな時間に食べたら太りますよ」
私はまるで無駄な肉のない、それでいて女性らしい曲線も美しい愛佳さんに少し嫉妬しながら苦笑いした。
「そんながっつりは食べないよ。ちょっとだけ」
そう言ってメニューを開く。料理一つ一つきちんと写真が載せられており、どれも素朴だが美味しそうに並んでいる。
「
「私は遠慮しておきます。太らないようにするのも大変ですから」
「楓ちゃんみたいな若い子に言われたら立つ瀬がないよ⋯⋯。ちょっとだけならいいでしょ。ちょっとだけ」
「愛佳さんは何頼むつもりなんですか?」
「フレンチトースト」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「だってしょうがないじゃない。このお店で一番軽く食べられるのはこれでしょ。普通のトーストセットは朝しかやってないし」
私が黙ったことで愛佳さんは、私が呆れていると受け取ったのだろう。言葉が出なかったのはそういうことではないのだけど、説明するのも恥ずかしいのでそういうことにしておく。
「食べたいならいいんじゃないですか」
「あのね、頭を使うと糖分がほしくなるのよ」
愛佳さんはウェイターを呼んでフレンチトーストを注文した。私もついでにコーヒーのおかわりをもらう。
私が愛佳さんとこの喫茶店『ハニービー』で再会した時、私が食べていたのはフレンチトーストだった。
だからフレンチトーストを見るとあの時のことが蘇る。
あれはようやく残暑が去った十月の始めだった。喫茶店『ハニービー』の窓際の席は、やっと日差しが心地よく感じるようになっていた。
私は土曜休みに開店時間早々に来て、文庫を読み耽る。ホットコーヒーをお供にしつつ、もう何度読んだかも分からない小説を目で追う。すっかり自分に馴染んだ本を読みながらコーヒーを楽しむのが、最近の私の過ごし方だった。
ここはコーヒーも美味しいし、他のメニューも美味しいし、家からも通いやすい。駅にも近くて、ふらりと出かけるのに都合がいい。
何より店内で流れる曲は最高の居心地をプレゼントしてくれる。私が好きなインストゥルメンタルユニット『ゼリーフィッシュナイト』ことゼリナイの曲がよくかかるからだ。
今日も秋のうららかな朝にぴったりの『散歩の小径』が流れている。
ゼリナイのCDは全部持っているし、サブスクでも聞けるけど、喫茶店で流れているというのがいい。私が好きで良いと思った曲を、自分以外の人も同じように感じているというのは嬉しいことだ。
きっと『ハニービー』のマスターもゼリナイのファンなのだろう。カウンターの奥に古びて青くなったゼリナイのポスターが飾ってあった。
私にとってこの喫茶店は落ち着ける秘密基地のようなものだ。こんな喫茶店、きっとこの先も出会えないかもしれない。
だから存在する限りはずっと大切にしていきたい。そんな場所だった。
小説に没頭していたら、店内にボーンボーンと置き時計の音が鳴り渡る。それはお昼になった合図だ。
辺りを見回せば、入店当初より人が増えている。お昼を求めてやって来た人もたくさんいるのだろう。
私もちょうどお腹の虫がきゅるきゅると鳴き出した。すぐ脇を通ったウェイターさんを呼び止める。フレンチトーストとコーヒーのおかわりを頼む。
しばらくして湯気を立てるコーヒーと甘い香りのフレンチトーストが運ばれてきた。口の中が甘いものを求めている。
私は文庫をテーブルの端によせて、ナイフとフォークを手に取った。
ナイフを黄金色のふかふかのフレンチトーストに入れて、一口サイズに切る。
頬張ると口の中で溶けるように優しい甘みが消えてゆく。そして私はまたもう一口分切り分けて食べ、美味しい満足感に浸りながら、コーヒーを飲んだ。
柔らかな日差しに包まれて、幸せな
二枚あったフレンチトーストの一枚目を食べきったところで、ふと通路の方から人の気配を感じる。ウェイターだろうかと顔を上げる。
「あっ、やっぱり。楓ちゃんだよね」
そこには長身の女性が立っていた。赤味がかったショートボブに、ガーネットのピアス。黒いロングカーディガンに白いシャツと濃紺のジーンズ。シンプルな出で立ちなのに妙に様になっている。特にフィットしたジーンズが、足をより長く見せていた。
私の頭は一瞬この人が誰なのか分からずフリーズして、解答を求めてフル回転を始める。そして記憶の隅から嫌な答えを導き出した。
私の中学時代の数学教師。
決まって人のことを馴れ馴れしく「楓ちゃん」と呼ぶ女。
嫌いだった女。
「どちら様ですか?」
私は答えは分かっていて、でもそれを認めたくなくて、出たのはそっけない言葉。
「覚えてないかな。あれから何年もたってるもんね。
やっぱり答えは間違っていなかった。
「ああ、蜂屋先生でしたか。お久しぶりです」
だからこれ以上何だと言わんばかりに私は愛想笑いもせずに冷たく言い放った。多分人間が冷気を発することができたらブリザードくらいは起こせた。
それほどに自分でも驚くくらい私はこの人に冷めていた。
「こんなところで楓ちゃんに会えるなんて思わなかった。本当久しぶりだよね。あの、相席してもいいかな」
愛佳さんは私に
「⋯⋯⋯⋯」
私もいい年の大人である以上、素直に嫌だとは言いにくい。立ち去るのも大人気ない。
「どうぞ」
まるでどうでもいいモノを見るみたいに返答する自分の冷たさに何とも後味の悪い気分を味わう。
「ありがとう」
愛佳さんは微笑むと向かいに腰掛けた。
目の前に嫌いな女がいる。
私の大事な休日。贅沢な時間。美味しいお昼。秘密基地。全てが失われてしまった。
この人の登場で。
よりにもよって何故私の大切なこの空間でこの女と再会などしなければならないのか。私はコーヒーをすすりながら考える。
「最初に見かけた時に楓ちゃんに似てるな〜って思ったんだよね。確信持てなかったけど、近くまで来たら楓ちゃんにしか見えなくて⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯そうですか」
これからどうしようか逡巡する。
記憶にある限り、この女は話好きだ。いつも生徒に囲まれて楽しそうにお喋りしていた。今からお喋りに付き合わされるのだろうか。そんなのはごめんだ。なのにすぐに去るわけにもいかず、私はコーヒーを飲んで
「そのフレンチトースト美味しそうだね」
「⋯⋯まぁ、美味しいですけど」
「私も頼んでみようかな」
愛佳さんは近くにいたウェイターに早速フレンチトーストを注文している。しばらくは目の前に居座るのかと思うと、岩のように重いため息をつきたくなった。
「楓ちゃんはここ、よく来るの?」
何故か目をキラキラさせながら尋ねてくる。
「別に、そうでもないですけど」
この喫茶店が私にとって大事な場所だとは知られたくなかった。そんなことそもそも共有したくもないし。
「そうなんだ。私ね、実はすぐ向かいの学習塾で働いててね、前から気になってたの。夜遅くまで営業してるし、仕事終わりに立ち寄ってみようって思ってたんだけど、なかなか来れなくて。今日はテストの打ち合わせだけで時間もあったからよってみたの。そしたらまさかの楓ちゃんに出会えたから、今日来てよかったなって思ってるところ」
笑顔のバーゲンセールみたいにやたらにこにことしながら私を見るのだから、やっぱり居心地が悪い。さっきまでの快適な空間を返してほしい。
(塾で働いてるってことはもう学校の先生辞めたのかな)
疑問が浮かんだけど、そんなことはどうでもいい。この人が今塾の先生だろうが中学教師だろうが、私の人生には何一つ関係ないのだから。
「そうですか、よかったですね」
私は適当に返事をして、二枚目のフレンチトーストに手を出す。ただ無心になってナイフで切って、フォークで口に運ぶ。
つい少し前まで美味しかったものが、今は何の味かもよく分からない。
喫茶店のいたって普通のフレンチトーストのスパイスは、落ち着ける雰囲気と好きな音楽と、窓からの木漏れ日と、店内に漂うコーヒーの香りだったのだと気付かされる。
それらが今は目の前の蜂屋愛佳にかき消されてしまった。
(さっさと帰ろう)
私は事務作業のようにフレンチトーストを食べて、コーヒーを飲み干す。
そうしているうちに愛佳さんの目の前にもできたてのフレンチトーストがやって来た。
「甘い香りするね⋯。美味しそう!」
「美味しいですよ、それ。私は食べ終えたので先に失礼しますね。この後、出かける用事があるので」
「えっ、そうなの? せっかく楓ちゃんに会えたからもっと話したかったのに⋯」
置き去りにされる子供みたいに顔を曇らせる愛佳さん。
(器用に顔の演技までできるんだ⋯。どうせ私のことなんて、好きじゃないくせに)
私は無性にイライラとした気持ちが湧き上がってきて、気分が悪い。それを悟られるのも何だか
「さようなら、ごゆっくり」
私はそれだけ言って、振り向くことなくレジに向かった。
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