第3話 喫茶店の夜
駅から徒歩五分ほどの場所にそのビルはあった。四階建てのビルは夜九時を過ぎても、煌々と明かりを灯している。
そこは小学生から高校生までを対象とした学習塾のビルだった。塾以外のテナントは入っておらず、丸々一棟が塾になっている。
私は向かいのビルの二階からその塾を眺めていた。窓が店内の風景を鏡のように反射して、外が見づらいけれど、学習塾の明かりははっきりと見えた。さすがに人影までは分からないが、あのビルのどこかに
私は目の前に運ばれて来たコーヒーを啜りながら、持ってきた文庫に目を通して、ただ時が過ぎるのを待った。
私が今いる喫茶店『ハニービー』はよく愛佳さんとの待ち合わせに利用している場所だ。目の前が愛佳さんの職場だから、会う場所として都合がよかった。夜遅くまで営業しているのも便利だし、何よりこの喫茶店でかかる音楽が少々マニアックで、その曲目の大半が私も愛佳さんも好きな曲であるというのも、愛用する理由の一つである。
振り返れば愛佳さんと再会したのも『ハニービー』だった。まさかこんな所で会うなんて予想外すぎたけど、今では思い出の場所と言ってもいいかもしれない。
再会した時は愛佳さんとその後付き合うことになるなんて微塵も想像していなかったから、ここに来るたびに少し不思議な気分になった。
出会いにも運命があるのなら、出会いこそが運命ならば、私たちはなるべくしてなったのだろうか。愛佳さんならなんて答えるだろう。気になるけど、私にはまだそれを聞けるだけの度胸がない。
文庫本をかなり読み進めたところでふと顔を上げると、窓の向こうで光を放っていたビルが暗くなっていることに気づく。
カランカランとドアベルの涼し気な音が耳に響いて、私は入口の方を見た。そこにはベージュ色のトレンチコートを来た美長身が立っていて、すぐにこちらに気づいた。手を振って私の席までやって来る。その姿がおしゃれなファッション誌からそのまま飛び出して来たみたいで、私は息を飲んだ。
「
「⋯⋯そんなには。本読んでましたから」
相変わらず眩しい光を放っている愛佳さんを直視できなくて、私は目を逸して文庫本をかかげて見せた。
「愛佳さん、お仕事お疲れ様です」
「ありがとう〜、楓ちゃん」
少し疲れが滲んだ顔もすぐ笑顔にして、愛佳さんはコートを脱ぎながら私の向かいに座った。
私が学生の頃は中学校の教師だった愛佳さんは、今はこの喫茶店の向かいの学習塾で講師として働いてる。
教師人生が楽しそうに見えた愛佳さんも、見えないところではたくさん苦労もしたらしい。だから今は転職して塾講師になった。
どうして中学校の教師をやめてしまったのかは、多くは語らない。何でも打ち明けてくれる愛佳さんが唯一語らないこと。だから私もあえて辞めた理由は聞かないし、聞けないでいる。
「その本、
愛佳さんは私が閉じてテーブルの端に追いやった本を指した。暗い水槽の中に青白く浮かび上がるたくさんのくらげが泳ぐ表紙の本。
「そうですね」
「私まだ読んでないんだよね〜。どう、面白い?」
「ゼリナイの楽曲をモチーフにしてるから、できれば曲を聞きながら読みたい感じかも⋯⋯」
「いいね、それ。私も買ったら曲聞きながら読む」
愛佳さんは近くにいたウェイターさんを呼んで、コーヒーを注文し終えると、思いっきり伸びをした。
店内で流れる音楽が変わって、私と愛佳さんは目を合わす。
静かな凪いだ夜の海を彷彿とさせる曲が店内をゆるゆると流れてゆく。
私と愛佳さんが好きなアーティスト、通称ゼリナイこと『ゼリーフィッシュナイト』の曲だ。敦子さんとはこのゼリナイのメンバーの一人である。
「『夜に深く沈む』ですね、これ」
「うん。いいよね、この曲」
私たちはしばらく流れる曲に聴き入っていた。
ゼリナイことゼリーフィッシュナイトはシンセサイザーを使ったインストゥルメンタルの曲を中心に作っている敦子と
知名度は正直ないと思う。名前を出してもそもそも何なのか分からない人が大半。でも曲を聞けばすぐにピンと来る人もいる。彼女たちの楽曲は映画やCMによく使われているから、知らずに耳にしている人は多いはず。ゼリナイは世間的にはそんなポジション。
そんなマニアックとも言えるゼリナイ好きの愛佳さんと私は音楽を通じて仲良くなった。私たちを結んでくれたのはゼリナイと、その曲を流してくれるハニービーだ。
私と愛佳さんは黙ってコーヒーを味わいながらBGMに耳を傾けた。
曲が変わる。次にかかったのもゼリナイの曲。柔らかな春の日差しを感じるような優しくて気分が弾む曲『芽吹きの季節』。今の時季にぴったりだ。
「ゼリナイの曲が聞けるなんてさ、やっぱハニービーの選曲は最高だよね」
愛佳さんがしみじみと微笑むから、私も頷いた。
「あぁ、あの頃に楓ちゃんもゼリナイ好きって分かってたらもっと早く仲良くなれてたのかな」
残念そうにため息をつく愛佳さん。
「あの頃って中学時代ですか?」
「そう。だってさぁ、当時もゼリナイ好きなんて周りにいなかったから。もし楓ちゃんもゼリナイファンって知ってたら私、喜び踊ってたと思う」
「仮に当時愛佳さんがゼリナイ好きって知っても私は反発してたかもしれないですけどね」
「え〜何で仲良くなってくれないの⋯。悲しい〜。私は楓ちゃんと仲良くなりたかったのに」
「まぁ、当時の私は愛佳さんが嫌いでしたから、逆にゼリナイ聞かなくなってたかも⋯⋯」
「そんな⋯⋯。中学生の楓ちゃんとも仲良くなりたい⋯⋯」
「今の私じゃ不満なんですか」
目の前にいて仲良くしている私に不満なのかと、ちょっと嫉妬めいた感情が湧き上がる。過去の自分の私に嫉妬してもしょうがないのだけど。
私はくさった気持ちになって、テーブルの上の愛佳さんの手を指ではじいた。
「まさか。今の楓ちゃんも大好きだよー。もちろん。でも前にも言ったけど、私は現在過去未来全ての楓ちゃんと仲良くしたいんだよ」
愛佳さんは私の手を両手でぎゅっと握る。
(誰の目があるかも分からないのに、相変わらずこの人は!)
私は思わず辺りをきょろきょろしてしまったが、こんな時間の喫茶店にさして人はいない。
「私、楓ちゃんから好かれてないって分かってた。それでも私が諦めなければきっと楓ちゃんに好いてもらえる日が来るって思ってた。結局そんな日が来ないまま楓ちゃんは卒業しちゃったけど⋯⋯。まさかこんなに後になって好いてもらえるとは思わなかったけどね」
愛佳さんは私の手を取るとそっと唇をよせてキスをする。真っ直ぐ私を見る愛佳さんの、慈愛に溢れているのにどこか妖艶な瞳に私の心臓はうるさくなった。
視線を逸したいのに逸らせない。
「⋯⋯⋯私も大嫌いだった愛佳さんのこと、好きになるなんて思わなかったです」
取り敢えず間をもたせるために喋る。
顔が
過去の自分が思い描いていた未来に愛佳さんの姿はなかった。卒業した時に切れたと思った縁だったから。
でも音楽と喫茶店が私たちの切れていた糸を結んでくれた。
「楓ちゃんに好きになってもらえるのは、あの時の私のたくさんあった目標の一つだったからね。ハニービーには感謝してもしたりない」
「⋯⋯なっ、なんですか、その目標。そんなの普通目標にしませんよねっ!?」
あまりに恥ずかしくて、うっかり強い語調になってしまった。
「そうかな? 楓ちゃんが数学好きになって、ついでに私のことも『嫌いではない』くらいになったらいいなーって。今は楓ちゃんから愛されてるから、目標達成だけどね」
何でこの人はこんなまっさらな人なんだろう。私はついていけない。本当に太陽のように眩しい人。でも、そんな愛佳さんだからこそ、私の固まった心が溶けたとも言えるわけで⋯⋯。
愛佳さんは今も昔も同じまま真っ直ぐに私に好意を向けてくれる。好意の形は変わったけれど、あの頃と変わらない優しさが私には少しこそばゆくて、でももう、きっと手放せない。
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