第2話 花

 

 ベッドから抜け出し、お昼を食べ終えた私たちは、市内にある自然公園に来ていた。愛佳あいかさんがどうしても行きたいのだと言う。


 自然公園はとても広く、すべり台やブランコ、アスレチックがある遊具ゾーンに、噴水や芝生の広場、野球場、小さな梅林に薔薇園など雑多に色んなものが詰め込まれていた。


 休日ともなれば大人から子供まで人々で賑わっている。


 今日は野球場でプロ野球チームの対戦があるとかで、普段以上に人出が多かった。


 どこもかしこも人が行き交っている中、私たちは人気のない遊歩道を進んでいた。球場から流れてくる歓声が、どこか別世界なくらい、周りは誰もいない。


 愛佳さんはその遊歩道をずんずん進んでいる。


「どこに向かってるんですか?」


「もうちょっと待って。あと少しだから」


 と焦らさせる。


 確かこの先は大きな噴水広場に繋がっていたはず。そこを目指しているのだろうか。私はただ黙って愛佳さんの後を付いて行く。


 しばらく歩いて、愛佳さんは白い花が咲く木の前で止まった。それは見上げるほどに高い辛夷こぶしの木で、まだ芽吹いてない木も多い中、そこだけ光が当たっているかのように目を引いた。


「辛夷の花、ですね」


「そう。かえでちゃんにこの木を見せたかったの。近場でどこか咲いてる所ないか探したら、たまたま見つけたブログで自然公園にあるって知って」


「でもどうしてこの花を?」


 私は桜より向日葵より辛夷が好きだけど、そんな話を愛佳さんにしたことがあっただろうか。


「だって楓ちゃん、辛夷好きでしょう?」


「好きですけど、話したことありましたっけ?」


「覚えてない? まぁ十年近く前じゃ仕方ないか」


 少し寂しそうに愛佳さんは笑う。


「写真でも撮ろうかな。楓ちゃんも撮らない? ほらこんなにきれいに咲いてるんだし。⋯⋯待ち受けにしよっかな」


 愛佳さんはいそいそとスマホを取り出して、一生懸命写真映えしそうな角度を探している。


 そんな楽しそうな横顔を見て、私はある記憶が蘇った。





 あれは中学二年生の時だった。


 私はじゃんけんで負けて、希望していた保健委員ではなく、園芸委員になって、少しふてくされていた。


 花は好きだったけど、園芸委員の担当教師が嫌いな先生、蜂屋はちや愛佳だったからだ。


 いつも無駄に明るくて、人のことを馴れ馴れしく「楓ちゃん」などと呼びつける数学教師が大嫌いだった。


 まず、先生のくせに妙に距離感が近いのが受け付けなかった。そもそも数学も嫌いだったし、私が問題に苦戦していると、わざわざ席まで覗きに来て、どうすればいいか教えてくる。他の子たちがすらすら解いている(ように見えた)のに、私に恥をかかせる嫌な女教師。それが当時、私が愛佳さんに持っていた感情。


 何で園芸委員の担当が数学の先生なのか。理科の先生の方が適任ではないか。


 私は自分でもよく分からない小さな怒りと理不尽さを抱えながら、朝早く来て学校の花壇にジョウロで水を撒いていた。


 ちょうどゴールデンウィークが明けたばかりで、初夏の陽気だった。そこへ太陽の化身みたいな愛佳さんがやって来た。


「楓ちゃん、ご苦労様。私も何か手伝おうか?」


 余計な奴がやって来た。私は吐きたいため息を飲み込んで「先生おはようございます。一人で大丈夫です」とだけ答えて、背を向ける。ジョウロの水がなくなったから、私は水道のある所まで歩いてゆく。その後を愛佳さんも付いて来た。


(一人で大丈夫って言ったのに。早くどっか行ってよ)


 私は愛佳さんに気づかない振りをして、水を汲む。


「私もやっぱり手伝うよ。他の子はいないの?」


 水場に置かれた緑のジョウロを手にして、愛佳さんは聞く。


「今日は私の当番なので」


「二人一組で水やりするはずだよね。もう一人の子は?」


「部活の朝練で忙しいみたいです。彼女は放課後にやってくれるので。私は一人でも平気です」


 それだけ言い放った私は愛佳さんを残して、再び花壇に戻る。


 花壇に水を撒き始めると、ジョウロを持った愛佳さんが目の端に映った。愛佳さんはまだ水をやってない花壇にジョウロを傾ける。ふんふんと鼻唄まで付けて。朝から元気な人だ。日陰で暮らすような私には眩しく、鬱陶しい人。


「ねぇねぇ、楓ちゃんはさ、何の花が好き?」


 向かいで楽しそうに水やりする愛佳さんに私は面倒くさい気持ちを抱きつつ、適当にはぐらかすか、本当のことを答えるか逡巡した。


 一番好きな花は辛夷。花としてはそんなにメジャーではないだろう。


 でも私はこの花が好きだった。母の実家の庭に咲いていて、辛夷を見ると大好きな祖父母を思い出す。


 幼い日に、桜がまだ咲いていないのに私がお花見したいと駄々をこねて、祖父母が辛夷の下でお花見を開いてくれた。あれは私の大切な思い出の一つ。


 果たして目の前のこの数学教師は辛夷なんて知っているのだろうか。私は少し見下すような気持ちを抱いて素直に「辛夷です」と答えた。


 下手に桜だの朝顔だの答えたら話が広がりそうだったから。


「へぇ、楓ちゃんは辛夷好きなんだ。渋いチョイスだね。でもいいよね、辛夷。春先に真っ白な清廉な花をつけて、見てると心が洗われるような花だよね。小さな白い鳥が羽を広げて休んでるみたいで、綺麗な花だよね」


 愛佳さんは私に微笑む。


 ちゃんと辛夷の花知ってるんだ、この人。教師なら当たり前なのかもしれないし、たまたま知ってただけかもしれない。


 けど確かにその時、愛佳さんの言葉で私の胸に温もりが宿った。小さなろうそくのような温もりが。


 嫌いな教師にそんな気持ちにさせられて、私は悔しいような敗北したようなそんな感情に苛まされる。


 こんなことで懐柔されたりなんかしないって、反発心がわく。


「先生、辛夷なんてよく知ってますね」


 私は随分嫌味な返答をしていた。


「あはは、私花とか知らなさそうに見えるもんね〜。意外だった? 正直そんなに花に詳しくないけど、園芸委員を受け持つならってことで花のことは勉強したんだよ」


 何だ、いつもへらへらしてるくせに真面目なところもあるんだとぼんやり思いつつ、私はそろそろ空になりそうなジョウロを持て余しそうになっていた。


 やっぱりこの教師と話をするのは苦手だ。逃げたい。日陰にいたいのに、燦々と光を当ててくるんだもの。


「楓ちゃん、うちの学校にも辛夷あるの知ってる?」


「⋯⋯いえ」


 それは初耳だった。どこの学校にもある桜や正門横の松や百日紅さるすべりは思い浮かぶ。中庭には梅があって、校庭の隅には藤棚がある。でも辛夷の木はあっただろうか。あったなら絶対見落とさない自信があるけれど。


「辛夷好きの楓ちゃんでも知らないか。実は学校の裏山に生えてるんだよ。一本だけね」


「そうなんですか」


 私が通っていた中学校の裏は小高い丘になっていた。雑木林のように鬱蒼としているし、虫が多いしで、生徒たちは滅多に近づかない場所だ。私だってたまに旧校舎に行った時に廊下の窓から目にするくらいしか、裏山に接する機会などない。


「楓ちゃん、水やり終わったし行ってみる、辛夷の木を見に。花は咲いてないけどさ」


「何でですか、行かないです」


 私は相変わらず馴れ馴れしい愛佳さんが嫌で、間も置かず断った。


「だよねー。咲いてないもんね」


 咲いてるとか咲いてないとか関係ないです、って言いそうになった言葉を飲み込む。


「水やり終わったので、失礼します」


 私はジョウロを抱えて走り去った。


「楓ちゃん、ご苦労様。ありがとうね」


 背中の向こうから届いた声に振り返ることなく私はただ振り払うように、校舎へと戻ったのだった。

 

  



「二人で並んで撮ろう!」


 私は愛佳さんに腕を引かれて、辛夷の前に立った。愛佳さんが掲げるスマホを何だか直視できなくて、目を逸らしてしまった。


「楓ちゃん、カメラ見ないとだめ。もう一回撮るよ」


 こういうことに愛佳さんは拘るなぁと、そんな彼女らしさに私は口元が緩んでしまった。


 二回目はばっちりカメラ目線の私たちが並ぶ。


「おぉ〜、上手く撮れた」


 愛佳さんは素直に喜んでいた。この人は本当にいつだって真っ直ぐで私は敵わない。


「愛佳さん、よく私が辛夷が好きだったなんて覚えてましたね。花壇で水やりした時に一度話しただけですよね」


「思い出してくれた? そりゃ楓ちゃんと話して楽しかったもの。忘れるわけないでしょ。薔薇とか向日葵とかじゃなくて、辛夷を選ぶのが楓ちゃんっぽいなぁって」


「それって褒めてます?」


「褒めてる、褒めてる。あの時に辛夷咲いてたら一緒に見られたんだよね」


「どうでしょうね。私は咲いてても断ったと思いますけど」


「そっか、そうだよね。あの頃は楓ちゃん私のこと嫌いだったんだもんね。えーん」


 愛佳さんはわざとらしく顔を覆って嘘泣きする。


「今は好きなんだからいいじゃないですか」


「私は現在、過去、未来の全ての楓ちゃんに好かれたいし愛されたい!」


 愛佳さんが私に抱きつく。


「ちょっ⋯⋯、愛佳さん場所考えてください」


 とは言っても相変わらず人通りは無く、風に運ばれて野球場からの賑やかな声援が響くだけ。


「まぁ、まぁ。誰もいないし、楓ちゃんを愛でてもいいでしょ。良かった、二人で辛夷見られて。積年の想いが叶ったよ」


「大げさな人ですね⋯⋯」


 昔は嫌いだったのに、今は心の底から愛おしさが滾々こんこんと溢れ出す。


 私は愛佳さんを好きになってよかった。


 彼女とならずっと歩いて行くことができそうだから。


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