バレンタイン

古川卓也

バレンタイン

 中堅企業の池光エナジーに勤務する営業一課の蕗子は、毎年の習わしだった義理チョコは今年から一切買わないと心にきめていた。本命のチョコを差し出す相手が今いるわけでもなく、単に面倒臭いだけだった。化合物研究所のチーフ助手田浦マイキーに昨年ふられてしまったのが原因だったかもしれないが、マイキーにはそもそも付き合っている彼女がいたことを承知の上で特別なチョコを手渡していたのだった。ライバルが何人いようと、いつかは自分にも靡いて来るチャンスがあるような気がしていたのだが、それは空しい思い上がりにすぎなかった。

 いったい何年同じことを繰り返しているんだろうと26歳の蕗子は、2月14日が近付くにつれ、ついにこの日の呪縛から自分を解放することにしたのだった。

「ねえ、ふきちゃん、今度、岩田屋に行くでしょ?」と同僚の伊津子が後ろから声をかけてきた。

「今年のショコラは、去年と全然ちがうんだって」と伊津子は蕗子の前に顔をのぞかせた。蕗子はそんな新しいチョコなど興味が湧かなったが、岩田屋に出掛けるのは抵抗がなかった。去年も4人で岩田屋のジャン=ポール・エヴァンで高級チョコを買ったのだが、蕗子は自分用のチョコなら買ってもいいかと思い、本命チョコも義理チョコも絶対に買わないと心にきめており、そこはバレないように振る舞うことで岩田屋には付き合うことにした。

「わたしと、いっちゃんと、ミルクに菜々実ね」と蕗子は訊いた。ミルクは三つ年下の後輩で宮野結奈の名前だったが、ウエストが細いわりには、ふくよかな体型の持ち主でプロポーションがひときわ目立っていた。社内で仲のいい間柄では、宮野さんより「ゆな」さんか、ミルクの愛称で呼び合っていた。飲み物は何が一番好きかと伊津子が聞いたら、結奈本人の口から「ミルクです」と答えてからは、仲間のあいだで自然と「ミルク」と呼ばれるようになってしまった。「わたし、ミルクですか?」と結奈が伊津子に確認すると、「ミルクって呼んだら、これ、パワハラかしら? ミルク、好きなんでしょ?」と伊津子は言った。「ミルク、大好きなんですよ。ストレッチしていると、野菜と牛乳が欠かせなくて」と結奈は伊津子に答えた。それ以来、結奈は伊津子らとの仲間入りとなり、伊津子も大切な部下として待遇するようになっていた。伊津子は親友の蕗子と同じ26歳である。

 早瀬菜々実も同期入社で同じ年齢だったが、配属がバイオメカニクス研究所の所員として破格の厚待遇給与を受けていて、蕗子の営業社員給与とは雲泥の差があったものの、菜々実の誠実さと飾らない性格が、二人を惹き合わせていた。そもそも学歴も部署も違い、リケジョの菜々実とは社内で顔を合わすこともない二人だったが、ある日昼食の献立をきっかけに、社員食堂の丸いテーブルで、同じ食事メニューが偶然何度も度重なり、「ここの日替わり、ほんと美味しいですよね」と互いに会話が弾んでからというもの、気が合うようになって、いつからともなく友達になっていた。

「菜々実の彼氏、憎らしいほどイイ男よね。もうすぐ式も挙げそうよ」と蕗子が言うと、

「うっそ。そうなの? ゴールインしちゃうんだ」と伊津子は羨ましそうな顔を浮かべた。

「菜々実はさあ、努力家じゃない。環境とかイヤな人間関係にもめげないし、絶対幸せな家族を築きそうよね。菜々実が一番乗りだわ」と蕗子は言った。

「ふきちゃんの方は、どうなのよ?」と伊津子が訊くと、

「わたしは相変わらずだわ」と蕗子。

「何が相変わらずなのよ。マイキーとはどうなの。わたし、知ってるんだから。化研の前川チーフから直接聞いちゃった。義理チョコって、意外と威力があるのよねえ。筒抜けだったわよ」

「えっ。知ってたの?」と蕗子は顔を赤らめて唇を尖らせた。

「だって、悔しいじゃない。ふきちゃんの片想いにマイキーの奴、全然気が付かないし。まあ、でも、もともと彼女がいたんだから、仕方がないか。独身であるかぎりは、チャンスは平等に訪れてもいいんだけど、ま、今回は乙女心とはきっぱりと切り捨てることね。もう乙女でもないし」と伊津子はストレートに蕗子をなだめた。

「なにそれ。乙女じゃなかったら、わたしって、あせってみえる?」と蕗子が訊くと、

「ううん。ていうか、選ぶのも大事よね。結婚願望は焦りの始まり? 恋愛は運命のときめき? 好きになってしまうのは、どうにもならないでしょ、ふきちゃん」と伊津子は言った。

「女は誰かを好きにならないと、やっていけないのかなあ。マイキーはチャラだけど、前にいちど手を握られたことがあってね」と蕗子はしゃべり始めた。

「ええっ。あいつが?」と伊津子は訝しんだ。

「うん。冗談で手を握られたの。どっか食べに行かないって、誘われてね。勝手にグイグイ人の手を握って、行こ行こ、って」

「で、行ったわけ?」

「まさか。手を振りほどいて、二股かけないでよ、って言っちゃった」

「バカねえ。冗談でも行っちゃえばよかったのに。マイキーは独身なのよ。いろんな子に声くらいかけるでしょ」と伊津子は蕗子をたしなめた。

「いっちゃんの本命は誰なのよ? 教えて」と蕗子が訊くと、

「いないいない、そんなのいないわよ。岩田屋のチョコは、全部、自分が食べちゃう。義理チョコはスーパーで買えばいいのよ。去年なんか、それでも2万円オーバーしちゃった。義理チョコも数が増えるとバカにならないわ」と伊津子は言った。

「えっ? いったい何個買ったわけ」と蕗子が訊くと、

「30個くらいかな。上司用と一般人向けと、あと諸々用ね」

「一般人向けって、なによそれ。まるで鳩にエサまいてるみたいじゃない?」

「でも、効果はあったわよ。社内の殿方って、真面目な人が多いでしょ。10人くらいから誘われたし」

「うそ。で、どうしたの?」

「もちろん全員付き合ってあげた」と伊津子は万遍の笑みを浮かべながら言った。

「いっちゃんは恐るべし女ね」と蕗子は、感心しながら伊津子の顔を覗き込んだ。

「どこまで付き合ったの?」と蕗子は訊いた。

「それなりにね。義理チョコのコツは、安くても30個ぜーんぶ違うものを揃えていたから、同じ物を配らないことが秘訣かしら」と伊津子の説明。

「ふうーん、そうなんだ。義理チョコにも存在感はあるんだ。で、誰と、どこまで、行ったのよ? ちゃんと教えなさい。誰にも言わないから」と蕗子。

 すると、伊津子はクスクスと笑いながら、

「今年は、あなたにもショコラあげるね」と伊津子は話を逸らした。

「いい。要らない。いっちゃん、変じゃない」と蕗子。

「男性だけにチョコ渡すより、わたしね、気が付いたのよ。たくさん義理チョコ配るよりもね、大切な人に差し上げたいなって、思うようになったの」と伊津子は言いながら、

「数じゃないのよねえ。性別なんかでもなくて、ううん、年齢でもなくて、子供からお年寄りまで、大切な人たちにちょっとでもご挨拶変わりの贈り物がしたいなって、この頃バレンタインデーは、そんなふうに思ってるの」と、悟りを開いたお坊さまのように続けて言った。

「へええ、プレイガールのいっちゃんも、ついにそこまで境地を開いたのかあ」と蕗子は言いながら、

「じゃあ、仕方がない。いっちゃんから特大のチョコもらってやろう」と返事をした。

「じゃあ、わたしもいっちゃんにジャン=ポール・エヴァンで特別なショコラを買って進ぜようぞ」と蕗子も応えた。

「かたじけないのお。そちはわらわにそのようなもったいないものを進ぜるというのかえ? わしはそこらのトリュフでいいのじゃよ」と伊津子が言うと、

「何を申しておる。トリュフなんぞと言わずに、ショコアールマニャックを手提げして、うぬのマンションまで参るでござれるよ。お茶の一杯も出してくりゃれい」と蕗子は言った。

「ちと、狭いうちじゃが、14日が過ぎたら、みんなで打ち上げじゃの」と伊津子。

「恒例のバレンタインも、終わってからが楽しみじゃな、伊津殿」と蕗子は笑った。



 2019年2月16日土曜日の正午に、伊津子のマンションには4人が集まっていた。バレンタインデー女子会と称して、4人だけの事後報告とチョコ審査を兼ねた親睦会をひらいた。

「まず、そこのお若いミルク女史に報告をお願いしたい」と伊津子が切り出した。

「はい、先輩。無事に義理チョコを全員に配り、滞りなく済ませ、本命にも告白して、見事ふられました」と宮野結奈はみんなに報告をした。

「義理チョコ全員とは、何人に配ったのじゃ?」と伊津子が結奈に訊くと、「6人に配りました」と結奈は答えた。

「えらい少ないではないかえ、ミルク殿。その内訳は?」と伊津子が訊くと、

「うちの上司と、父と祖父と兄と弟二人であります」と結奈は答えた。

「すると、お前さまは会社の上司1人だけと、あとは家族かえ?」と伊津子。

「はい。そうであります。本命チョコに大枚をはたいてしまったので、残るギリチョンにはいかほどもなく上手に包装をしまして、100均の上等な手提げ袋で心を込めました。にわかの本命チョコは、より上質な100均袋であります」と結奈は答えた。

「して、お前さまの真の本命とは、誰じゃ、正直に申せ」と攻める伊津子。

「お姉さま。実は14日の日にはお渡しできずに、こうして本日、ここにお持ちしてまいりました」と結奈は、大きな手提げ袋から気品漂う手提げ袋を出して、

「どうぞ、本日のためにお使いくだされませ」と言った。

「あら。ミルクちゃんと重なっちゃったのかしら」と蕗子が側で言った。気品漂うショコアールマニャックと同じ箱の姿がちらりと見えた。

「えっ。わたしも同じだわ」と菜々実も言いながら、大きな黒い手提げ袋から同じ箱の入った手提げ袋が出て来た。

「もしかして、もしかして、3人とも同じということは、いっちゃんはわたしたちに何を出してくれるのかな。この部屋の主さまに限って、まさかねえ」と蕗子は伊津子を促した。結奈も菜々実も畏まってる伊津子をじっと見つめている。

「みんな、ごめん。安いトリュフしか用意してなかったわ」と伊津子はうなだれた。そして立ち上がると、キッチンに向かっていった。

「二人とも余計なこと言っちゃダメよ」と蕗子は、小さな声で菜々実と結奈をたしなめた。

「それにしても、菜々実はちゃんと彼氏に本命チョコを渡したのよね?」と蕗子が訊くと、

「小さいトリュフの箱だけね」と菜々実は答えた。

「うそ。ここに持って来たマニャック、帰宅したら彼氏に渡したほうがいいんじゃない」と蕗子が言うと、隣に座った結奈も真顔で「うんうん」と促した。

「心配要らないって。わたしを食べさせてあげたんだから」と自信満々の菜々実。

 すると、結奈がノドをごくりとさせて、菜々実の唇を見つめた。うっすらとピンクの紅を刷いた唇が甘酸っぱくおもえたのか、自分の下唇を舌で少し濡らしながら、

「早瀬さんは、もうすぐ結婚なさるのでしょ?」と訊いた。

「ふきちゃんに聞いたのね。今年の秋に式を挙げる予定よ」と菜々実。

「いいな。わたしも早く結婚したいわ。家を出ようかしら、伊津お姉さまみたいに、マンションに住めたら最高なんだけどなあ。わたしのおうち男系の家族でしょ、色気ないし。伊津お姉さまみたいな女性に憧れるんですよねえ。もちろん、お二人にも」と結奈は笑顔を浮かべた。

 しばらくして、キッチンの方から伊津子がみんなを呼んだ。

「みんな、こっちにいらっしゃい」と言われ、蕗子と菜々実と結奈はソファから立ち上がって、キッチンのある茶の間の方に移っていった。意外と広いダイニングルームだった。

「先にシチューからどうぞ。朝からいろいろ準備してたのよ。お味はどうかしら。わたし好みの味なんだけど、隠し味にホワイトチョコを少し使ってるの」と伊津子は言った。

「器もステキ!」と結奈が叫んだ。すると、

「これは北欧デザインのボールよ」と伊津子が説明した。アラビアの食器で、内側は白く外側にはムーミンの図柄が可愛く描いてある。

「ルーは少し濃厚だけど、白菜をトロトロにして、タマネギとニンジンはオーガニックね。じゃがいもとマッシュルームも入れて、オリーブオイルは適量ね。みんな、味見してみてちょうだい。わたしはクセになっちゃったんだけどな」と伊津子は、手作りのクリームシチューを皆にすすめた。

「これはイケてる。わたし、いっちゃんの作ったシチュー、初めてよね」と蕗子が言うと、

「能ある鷹は爪を隠す、ってね」と伊津子がささやいた。

「美味しい。このレシピ、後で教えてね」と菜々実が言うと、

「お姉さま。このわたくしめにも教えてくだされませ」と結奈も言った。

 シチューを啜りながら会話がはずんでいたら、どこからともなく軽音楽が流れていた。伊津子がテーブルに置いてあったリモコンを操作して音楽をかけていたのだった。壁際の台の上にコンパクトでオシャレなオーディオ機器が置いてあり、曲はそこから鳴っていた。アンドレ・ギャニオンの「インプレッションズ」と、ケニー・ドリュー・トリオの「エバーグリーン~今は夢」のCDアルバム2枚が無造作に重ねてある。

 午後1時頃が過ぎると、結奈が鍋に残っているシチューをおかわりした。伊津子はキッチンで少し温めてから、結奈の器に注いだ。菜々実と蕗子もおかわりしたが、結奈の分しかもう残っていなかったので、二人が残念がると、

「シチューは前菜よ。本番はこれからなんだから」と伊津子は言って、結奈が美味しそうに食べてる様子を嬉しそうにじっと眺めた。三人から眺められているのが気になるのか、結奈が急いで食べようとすると、「ゆっくりお食べ」と伊津子は笑顔のまま言った。

「ねえ、本番っていうことは、まだ何かあるの?」と蕗子が訊くと、

「あなたたちのために、スペシャルを用意したの」と伊津子は言った。

「じゃあみんな待ってて。わたし、お茶を淹れるから」と伊津子は言いながら急須に湯を注ぎ始めた。

 蕗子は三つのショコアールマニャックの箱を開けて中身を取り出すと、テーブルの真ん中にそれらの四角いキャンドルを寄せて、その一つだけに火を灯した。伊津子は大倉陶園の白い皿を4枚それぞれ客人の前に並べて、宇治茶の熱湯玉露をいびつな湯吞に注ぐと、皿の横に置いた。そして、ナプキンの上にオシャレなノリタケのナイフとフォークとスプーンをそれぞれの前に並べた。

「よければ、スペシャルな手作りチョコ、お披露目するね」と伊津子は言いながら、冷蔵庫から大きなタッパーを取り出し、電子レンジのオーブンでショコラフォンデュを2個ずつ順番にセットした。やがて電子レンジがチーンと鳴って温まると、ケーキトングで一つ一つ取っては各自の皿に載せていった。

「ゆなさん、熱いうちに召し上がれ」と伊津子が丁寧に言うと、結奈は真っ先に飛びついた。中央にナイフを入れて生地を切ると、とろりとしたチョコが中からあふれ出してきた。そして4人のお皿にそれぞれ配り終えると、

「さあみんな、存分に召し上がれ」と伊津子は笑みを浮かべて促した。伊津子も椅子に座って、目の前の柔らかいショコラフォンデュにナイフを入れた。

 しばらくすると、あたりにほのかなブランデーの香りがテーブルに漂いはじめた。黒い箱に溶け込んだショコラフォンデュ似立てのキャンドルから、最高級グランクリュカカオの名品がアルマニャックと交わった深い香りを演出し、有無を言わさず物静かにしっとりと刺激を与え始めた。二重の舌触りを誘発させてしまう恍惚の瞬間は、たちどころに体内に滴り落ちて広まっていった。まさかそこに、高貴さと卑賤なコクが絡み合っていようとは思えぬ出来栄えだった。

 伊津子の手作りショコラフォンデュには、これまた秘密の隠し味があった。生クリームとブランデーのナポレオンを少々入れた鍋に、手頃で安価なミルクチョコレートを二枚ほど入れて中火で加熱し、シンプルに溶かして混ぜたものだった。盛り付けには、皮をむいて薄く半月切りにしたキューイと、一口サイズのバナナ、お菓子のマシュマロを各数個だけ可愛く添えたものだった。

 陶酔してしまった甘味な時間は、瞬く間に昼下がりの時刻を奪い、バレンタインの概念を4人ともそれぞれが打ち抜いていった。ムードと味を占めてしまった味覚に罪悪感はまったく無かったが、この世の中には知らなくてよい事もあるのだと、蕗子はふと思った。

 この日のバレンタイン女子会は、夕方まで続いた。

「いっちゃん。来年もまたここで、女子だけのバレンタイン復活祭をしない?」と蕗子が言うと、

「そうね。今度は質素な復活祭でもいいんじゃない」と伊津子は応えた。

「早瀬さんはすでに結婚してるから、無理かもしれませんね」と結奈が言うと、

「妊娠してなかったら必ず来るから、連絡はしなさいよ」と菜々実も応じた。

 この年の彼女たちのバレンタイン復活祭は、和やかに幕を閉じた。2月14日は女性から男性に贈るバレンタインデーだったが、見栄を張って幾つもチョコを買う楽しみは、最早彼女たちには微塵もなかった。チョコは愛を告白するためでも、義理を果たすものでもなくなっていた。美味しいものを食べてエンジョイし、心が通う者にだけそっと手渡すチョコに時代は変貌しつつあるようだった。ショコラの形には、人を惑わす魔法があるのかもしれない。(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バレンタイン 古川卓也 @furukawa-ele

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ