食い逃げ男との2時間
三笠るいな
食い逃げ男との2時間
これは、スペインのバルセロナにある私の店で実際に起きたことである。
ある週末の晩、ひとりの背の高い男が私の店に入ってきた。ここに来る前にかなり酒を飲んで来たらしく、足元がふらついていた。
「ビールと寿司」
男が話すスペイン語には、フランス訛りがあった。男はカウンターに座り、ビールを一口ラッパ飲みしたと思うと、頬杖をついて目を閉じている。何か考え事でもしているのかと思って見ていると、そのうちにこっくりこっくりと船を漕ぎだした。私の店は飯を食いに来るところであって、眠りに来るところではない。
「Aquí lo tienes(お待たせっ)!」 と怒鳴りながら少々乱暴にカウンター上に皿を置くと、居眠りしていた男はビクッと体を震わせながら顔を上げた。
箸を重そうに持ち上げた男は、握り寿司のネタだけはがして食べ始めた。スペイン人の客の中にもたまにこういう不思議な食べ方をする人がいるので、私はそのくらいでは驚かなくなっている。しかし、私が厨房に入っている隙に男が店の外に出て行ってしまったのにはさすがに慌ててしまった。
男が外に出たのは、煙草を吸うためでも、電話をかけるためでも、知り合いを出迎えに行ったわけでもなかった。そのまますたすたと歩いてどこかへ行こうとしている。追いかけて勘定を払うように言うと、悪びれる様子もなく
「あんなのは日本食じゃねぇ。俺は寿司を頼んだのに、違うものが出て来た」、などといちゃもんをつけてきた。
話を聞くと、彼が食べたかった料理は生魚の切り身、つまり刺身であって甘酸っぱいシャリの上に申し訳程度に切り身が乗っかっている物などではなかったと言う。
こちらではサシミと寿司を混同している人は意外と多いが、だからといってそれが無銭飲食をしても良いという理由にはなるはずがない。
では、刺身を出したら金は払うのか? と聞くと、金はないから払えないと言う。元から勘定を払う気もないくせに言いがかりをつけるとは、ふてぶてしい食い逃げであった。
このままでは埒があきそうに無いので、警察に電話をかけることにした。しかし、待てど暮らせど警察官が来る気配はない。その間、私は店の仕事をスタッフに任せ、男が逃げないように見張っていなければならなかった。
これは後でわかったことだが、スペインの警察は食い逃げくらいでは出動してくれないらしい。また食い逃げ犯を捕まえたからといって、その犯人を牢屋にぶち込むわけでもない。ただ、これこれこういう事をした、という書類にサインをするだけなのだ。前科もつかないそうである
そこに、幸運にも偶然そばを通りかかった警官がいたので呼び止めた。警官は食い逃げ男に向かって尋問を開始した。
「なぜ飲み食いした勘定を払わないんだ?」
「ケッ。金がないからに決まっているだろう。あれば払うさ」
「後ろを向いて壁に両手をつけ」
警官は白い手袋をはめて食い逃げフランス人の身体検査を始めた。ポケットをごそごそと探ったが、出てきたものといえば糸くずと丸まった鼻紙くらいのもので、身分証はおろか小銭すら出てこない。身分証不携帯という事で、この男は一応警察署に連れて行かれることになったが、代金の回収は不可能だろう、と警官は言った。さらに、こんな忠告をもらった。
「訴えるのは勝手だけど、時間と労力の無駄だと思うよ」
そんな警察の対応が知られているからだろうか。スペインに来て食い逃げをする不届きな外国人観光客は、決して少なくないという事であった。
警察に連行される際、食い逃げ男も多少は気が引けたのかもしれない。
「代金の換わりにこれを置いていく」
と、自分が着ているセーターを脱いで私に差し出した。善意のかけらを見せてくれた彼の申し出は心の慰めになったが、小汚いセーターだったのでその好意は辞退することにした。
食い逃げ男との2時間 三笠るいな @mufunbetsunamonozuki
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