馥郁として、霧

木野かなめ

馥郁として、霧

 家庭裁判所の階段の踊り場で、俺はたばこをふかしていた。


 磨り硝子一枚を隔てて、七月の日差しが俺の半身を焦がす。聞こえてくるのは、建築業者の指示出しと蝉の声のみ。そこはまるで、霧の中のようだった。

「お待たせしました」

 急遽きゅうきょ雇った行政書士が、ハンカチで額を吹きながらドアを開ける。奴の手には、一枚の紙が。

「これで、結沙ゆいさちゃんと本宮もとみやさんの審判申請が完了しました。本日の手続きはここまでとなります」

「ああ、そう」

 俺は無造作に言って、たばこの先端を銀板でねじ潰す。

「じゃあ、あいつは本郷ほんごう結沙ゆいさじゃなくて、本宮もとみや結沙ゆいさになるってことか」

 まあ親子だろうが他人だろうがどっちでもいい。本郷結沙は、俺たち親族から金を奪いとって疾走したあの――、本郷ほんごう字朗じろうの一人娘なのだから。親戚どもが「養子縁組なんてとんでもない!」と騒ぎに騒ぎ、そのお鉢がひとり暮らしの俺に回ってきただけさ。俺は行政書士から申請用紙の写しを受けとり、スラックスの上から膝を掻いた。

「ところで結沙ちゃんは今日、どこに?」

 行政書士はとろとろの笑みで俺に訊く。ああ、こいつ、結沙に初めて会った時から「かわいいかわいい」を連発してたもんな。このロリコンハゲ野郎め。

「学校だよ、小学校」

「転入の手続きをされたんですね」

「子供は黙って勉強してりゃいい。学校行かなくてどうすんだ」

「はは、それは……また、一緒に事務所に遊びに来て下さいね」

 行政書士は踊り場の壁に足をかけ、ブツブツと詠唱を始める。たちまちに奴の背中に、光の羽が生えた。

「私はこのまま事務所に戻りますが、一緒に飛びますか?」

「ごめんだけど、俺、魔法使えないから。電車で帰るよ」

 首を傾けて告げてやると、行政書士の鼻が少し膨らんだ。

「あの……忘れないで下さいね。私は、上位主義者ではありませんので」

「はいはい」

 羽が震え、光の薄片が踊り場に散る。

 行政書士は、人の群れなす空の道へと舞い上がっていった。

 ……「上位主義者ではありませんので」か。

 わざわざ、そんなこと宣言しなくてもよかろうに。

 俺はもう一本たばこを吸って、非常階段のコンクリートを軽く蹴った。



 帰宅してヤカンを火にかける。

 ひと昔前なら電気ポットみたいに便利な機械もあったらしいけど、ここ三十年前から生じた『魔法文明』のおかげで電気製品は衰退の一途をたどった。まあ、湯をわかしたいなら沸騰ボイリングの魔法を使えばいいだけだからな。

 湯がくらくらと沸いてきた。インスタントコーヒーの紙シートを通過させ、カップに湯を注いでいく。芳醇な香りが俺の1LDKを支配する。ネクタイをソファーに放ると同時に、玄関の鍵が貧相に鳴った。


「ただいま……です」


 音さえ聞こえないが、気配でわかる。あの小娘は靴を丁寧に揃えて、リビングへと入ってきた。赤いランドセルを背負って。

「ただいま、帰りました」

 本郷字朗の娘――結沙はそう言って、深々と頭を下げた。

 一つ一つの仕草が苛立つ。薄幸な娘気取りで同情でも買いたいってか?

 俺は、結沙がランドセルを下ろすのを待たず、奴の前に封筒を放ってやる。封筒は一直線に滑空し、彼女の膝頭へと当たった。

「いちおう、手続きを始めてきた」

「その……私と文彦ふみひこさんが親子になるっていう……」

「本宮さん、だ。勝手に下の名前で呼ぶなと言っただろうが」

「でも、『本宮さん』ですと、たくさんの親戚の方がいらっしゃいますし」

「んなもん関係ねえ。いいかぁ? 仮に法律上の親子になったとしてもだ。お父さん、なんて呼びやがったら張り倒すぞ」

 俺が声に険を乗せると、そこで結沙は押し黙った。ランドセルを背負ったままで直立不動。サイドにぶらさがるネズミのストラップがわずかに揺れている。


 知ったことか。


 親の愚行に子は関係ない? そりゃそうだろうよ、親と子は他人だ。子が過ちを犯したのなら親の教育に責任をとってほしいものだが、その逆となれば話は別。

 だが忘れるな、小娘。

 お前の親はその人道的大前提を覆すほどのことをやったんだ。『俺自身の金を奪われた』わけじゃないけど、『金を奪われた親戚同士の責任のなすりつけ合い』に巻きこまれたことだけはけして忘れない。優しい叔母? 夏休みに行くおじいちゃんの家? んなもんどこにあるんだ。奴らの顔はすべからく修羅だ。親父とおふくろが生きていた時には、親戚の悪口以外の話題は食卓に上らなかった。くそみたいな、一人の野郎のせいでだ。


「どけ。あと、奥の部屋から出てくるな」

 俺は結沙の細い首をグイと押した。肩から少しはみ出すくらいの黒毛が、わずかに膨らむ。結沙は奥の布団部屋の電気を入れて、プラスチック製の横扉をゆっくりと閉めた。

 俺は細めた横目でじろりと睨む。

 今、あいつは『指』で電気のスイッチを入れた。

 やっぱりあいつは……。

 しかし俺はすぐに意識をぶった切り、洗濯機にワイシャツを入れた。結沙の着替えを待たないと洗濯機を回せないのが忌々しい。やることも特にないので、洗面所の整理でもしながら晩飯の献立を考えることにした。



 嫌なイベントがついにやってきた。

 家庭訪問。

 要は小学校の先生様と俺が、自宅で結沙について語るというなんの付加価値もない取り組みだ。これまで理由をつけてのらりくらりとかわしてきたのだけど、どうやらいずれは実施しないとことがおさまらないと知って観念した。先生様が訪問される前日にはできる限りの掃除を行った。これ以上目をつけられてはたまらないからだ。ただし当日の定刻直前には換気扇をつけずにたばこを三本吸ってやったし、二十回くらい舌打ちをした。


「いつもお世話になっております。結沙ちゃんの担任の北村きたむらと申します」

 四十代くらいのおばさんはそう名乗ると、きつそうな靴を強引に脱いだ。靴を揃えようともしない。豊かな腹を揺らしながら、わがリビングへと侵入してきた。

「結沙ちゃんですが、成績の方は特に問題ありません」

「そうですか」

「宇宙にかなり関心があるみたいでなによりです。宇宙開拓の分野は、旧科学技術が唯一役に立つ部分ですからね」

 ふうん。あいつ、宇宙なんかに興味があったんだ。似合わねえ。

「ただ、友達付き合いに関していえば、けして良好とは言えません」

 そして北村は、手扇で自らを仰ぐ。冷たいお茶の一杯でも出してほしいというジェスチャーなのかもしれない。ひじょーに残念だけど、ヤニの臭いで我慢してくれよ。

「まあ、もうすぐ夏休みだし別にいいんじゃないですか。俺もありますよ。合わない奴に無理に合わせる必要はない」

「それが……」

 北村が言い淀む。どうした、なにか問題があるのか?

「その、私は上位主義者ではないんですけどね、結沙ちゃんは魔法を使えないじゃないですか。その部分でお友達と衝突することもあるみたいです。私としては、どちらの肩をもつわけにもいきませんから、いったんはご家庭での対応をお願いしているのですが」

 俺は指でネクタイを緩めた。もう、固く結ぶ必要などどこにもない。

 魔法を使えるか、使えないか。

 そんなくだらないことで衝突する相手の、なにが「お友達」なんだ?

「ちょっと教えてほしいんですけど、いいですか?」

 俺は足でカーペットを蹴り、回転椅子の角度にわずかな斜をつくる。

「上位主義っていうのはいったい、なんなんですかね?」

 北村は呆れたような顔をした。それはカバにそっくりな顔だった。

「本気でおっしゃっています? 魔法を使える人間が、魔法を使えない人間を同じ人種と見なさず淘汰しようという主義主張を差すのですが。何度も言いますが、けして私は上位主義者ではありませんよ。多少の問題を覚えているのは事実ですけど」

「なるほど。よく考えたら小学校の道徳の時間に習いましたね」

 俺は肌で感じていた。

 北村大先生様は、『俺が魔法を使えるかどうか』を知りたくて仕方がない。彼女の脂肪の全てがそう告げている。

「ところでこの臭い……たばこですか?」

 ついに北村は眉根を寄せて鼻をつまんだ。そしてなんの許可もなく布団部屋の扉を開けて大きく息を吸いこむ。

「たばこはやめた方がいいですよ。ほら、この部屋。こっちはこんなにいい香りがするじゃないですか」

 俺は立ち上がり、北村のすぐ隣に近づいて扉を閉めた。

「ミルクの匂いでもしますか?」

 北村はたちまちに鞄を肩にかけ、玄関へと歩いていった。

 部屋にひとりぼっちになるとともに、妙に喉が渇いてきた。

 ……やっちまった。



 夏休みが始まってから、平日の間は結沙を学童に預けることにした。

 だがこの小娘は厄介なことに、学童から帰ってきたら勝手に飯の準備なんかをしてくれやがる。俺がやるから食材に触るなと怒鳴りつけても、その癖は一向になりを潜めない。

「なぁ、わかってくれよ」

 俺はとうとう根負けし、ある日の夕べで懇願をした。

「お前が包丁で指でも切ったりしたら、俺は児童相談所から呼び出しをくらうんだよ」

「すいません……」

 ほんとにこいつは理解しているのかいないのか……なめこ入りの味噌汁を静かにすすっているところを見ると、たぶん後者なんだろうな。

「この関係は仕方なくやってんだ。お前が中学か高校を卒業するまでの話なんだから、せいぜい大人しくしててくれよ」

「……気をつけます」

 やっぱり言葉から本気を感じとれない。これじゃ堂々巡りだ。俺は素麺を箸で引っ張って、その素麺ごと箸を結沙の眼前に突きつけた。

「お前……魔法、使えないんだろ」

「使えます」

 それは、さっきまでの右往左往が嘘みたいにハッキリとした返しだった。

「嘘つけ。俺ぁ、見たことないぞ」

「本当です」

「まあ、どうでもいいけど。俺も魔法は使えないんだ。でも、他人の言うこと聞いて大人しくしてるから、サラリーマンやらせてもらってる。自慢じゃねえけど俺だけなんだぞ、同期の中で魔法使えないのは。お前みたいにガキの頃から目立ってどうすんだ」

「文彦さんは、魔法を使えると思います」

 俺は、大きなため息を一つ。

「その呼び方もやめろって言ってんじゃねえか。で、どういう意味なんだ今のは?」

「頑張って働いて。お金をもらってお野菜やお肉を買ってきてくれます。私を引きとるのが嫌だって言うのに、それでも私をこの家に住ませてくれています。これが魔法じゃなければ、なんだっていうんですか」

 俺の箸から、素麺が粘りながら落ちていく。いったん突き出した腕を引っこめることもできず、俺はロココ調の置物のように固まっちまった。

「クソガキは、黙って食ってろ」

 舌打ちを一つしてから、ようやく箸をトマトに向け直した。

 結沙のダイナミックにうねった髪が、見ていて実にうざったい。

 俺は財布から五千円札を取り出し、それを結沙の膝元に放った。

「これで明日、散髪に行ってこい。他のことに使うんじゃねえぞ」

 五千円札を両手でピンと伸ばし、瞳を絢爛けんらんに輝かせる結沙。こいつが激安散髪屋に行って、浮いた金で肉を買ってきやがったから叱り飛ばしたのは、次の日の夜のことだった。



 けたたましい鳴き声で、俺は目を覚ました。

 八月の夏真っ盛り。休日だから午前いっぱいは眠ろうと思っていたのに、どこかのバカ狼がギャンギャン吠えやがるから鼓膜が「起きろ」と言ってきたわけで。

 ベランダに出てみると、ちょうど俺のマンションの下で狼が騒いでいるようだった。

「おい、結沙」

 と呼んでみて、思い出した。

 休みの日はできるだけ外で遊んでこいと言いつけていたんだった。

「しゃあねえなぁ……」

 放っておけばいいんだろうけど、あの鳴き声は異常だ。見ればどこぞの小学生が狼のリードを握ってやがる。あの野郎……平然とした顔なんかしやがって。自分の家の狼ならさっさとなだめろってんだ。あるいは『魔法で制御できるなら狼を飼ってよい』とかいう悪法をこの世から削除するかのどちらかだろう。

 こら、ガキ……、

 喉から声を張り出そうとして、俺はベランダの枠をぎゅっと握った。

 狼が吠えている相手は、なんと結沙だ。しかも相手の男子小学生はニヤついてやがる。隣に立ってる男子なんぞは腹を抱えて大笑い。結沙は壁際に追いこまれて、びびってしまったのか逃げることも叶わずに突っ立ったままだ。両腕で顔をガードしている格好がやたらと痛々しい。

 俺は玄関に急いだ。クロックスを履いて短パンのままマンションの階下へ。急ぐ音が踊り場に響く。階段は二段飛ばしだ。オートロックの扉を蹴り開けた時、リードを持った男子がこちらを向いてギクッとした顔をした。

「どこのガキだ? 危ないだろうが」

 注意をするも、返答はない。

「狼はなんもわかってねえんだから。狼を悪モンにするんじゃねえよ。ほら、早く帰れ」

 やっぱり男子たちに動きはなかった。俺は当初、小学生たちは俺を怖がっているのだと思っていた。いや、事実そうだったのかもしれないが、男子たちはわずか三十秒で呼吸を整え直し、今度は狼の注意を俺に向けさせた。

 狼は俺に、攻撃的な歯をのぞかせて唸る。

「お前ら、誰になにやってんのかわかってんのか?」

 訊くと、リードを持っていない方の小学生がアハッと笑った。

「おっさん、魔法使えねえんだろ?」

 俺は短パンのポケットに片手を突っこみ、もう一本の手で後ろ頭を掻く。

「ああ、使えねえよ。で、それがどした?」

「やっぱな! 北村先生の言うとおりだったぜ!」

 ん?

 ……ふむ、そういうこと。

 こいつら二人組は結沙と同じクラスなわけだ。そして担任の北村は俺と結沙の事情をベラベラとうたい、それがクラスの中に広まってしまったと。もしかすると、ちょっとした負への誘導もあったかもしれない。

「なあ、やっちまおうぜ」

 リードを持っていない男子が、無礼にも顎で俺を差す。おいおい、そういうのは論外だぞ少年?

「よっしゃ! 行け、ライコウ!!」

 リードが地面に降ると同時に、ライコウと呼ばれた狼が俺に向かってまっしぐらに駆けてきた。ちょうど道を一本挟んでいるだけなので、ものの数秒でこちらに到達しやがるだろう。どうしたもんか……マンションのドアでも閉めてやるかな。でも、そうしたら結沙の奴が外にとり残されちまうし。

 ああ、やだねえ。

 結沙のボケが。ほんとにめんどくさい奴だよ、お前は。

 俺は短パンのポケットの中で『あるもの』を握る。固い二枚の板の間、薄いラインが幾百に走っている。さあ、精神集中。この狼を、怪我をさせない程度に追っ払おうと考えていた――、


 まさに、その時だった。


 ぞわっとした。

 霧が流れこんできた。狼の像を消す。足下の階段も自転車通行用のベニヤも、寸毫すんごうの間もなくグレーのもやへと沈んでいく。夏の日差しもまったく届かない。それはまるで宇宙をイメージさせるような空間だった。

 そして、いい香りがした。

 牛乳の香りから臭みを剥ぎとり、さらに砂糖をズンズンとまぶしたような香りだ。

 まさか、香りに『味がある』なんて知らなかった。その霧は俺の鼻の穴へと進入し、たちまちに舌の根へと落ちた。馥郁ふくいくとして、霧。その『通り霧』が晴れるとそこには、狼を愛おしく抱く結沙の姿があった。

「今のは、まさか……」

 結沙は目を閉じたまま狼を両腕で包みこんでいる。俺は道路を渡り、小学生男子たちの前へと立った。彼らの瞳に、攻撃性はまったくない。

 俺が二人の男子にデコピンを一撃ずつくらわせると、彼らは子供らしく「びえええええええええ!!」と泣き出した。俺と結沙に対して、文句の一つも飛ばさないまま。そして、コカコーラの自販機がウイーンと音を立てて冷却を開始する。

 俺は、結沙の隣に寄った。

「それは本郷字朗の……『魔書』だな?」

 結沙の指の先には、一冊の本。結沙はアーチ型の車止めを凝視しながら声を圧殺する。その行動そのものが、なによりもの雄弁な答えだった。


 本郷字朗の、魔書。


 奴はかつて自分の両親に『魔法を使える』とうそぶかれ、リバプールにある魔法学院へと入学させられたことがある。もちろん字朗の両親が、字朗の背後で魔法を使うことにより学校そのものを騙した上でだ。一度枯れた花を元に戻す。それはそれは、高度な魔法だった。学校も、字朗の才能を喜んだ。

 字朗本人も胸を張っていたらしい。自分は伝説的な魔法使いになれると。しかしその幼いプライドは、入学後わずか半月も経たないうちにズタズタに引き裂かれることになる。

 入学当初は字朗のことを神のように扱っていた先生、そして同級生は字朗の嘘に失望した。次に苛立った。退学処分を言い渡すその当日に字朗を半裸にして校庭をずっと走らせたらしい。愚か者への、罰だと――。

 だが……いや、だからこそ本郷字朗は諦めなかった。

 彼は魔法の構造を文字へと起こし、『魔書』を完成させたのだ。

 全てのページに彼の血液が染みこんだ、執念の作品。その本は小説形式で書かれているのだが、身の毛もよだつほどの内容だと聞く。事実、魔書を読んだ親戚は一人、心に大きな傷を負ってしまった。その魔書は俺たち親戚の間だけでのタブーとして扱われている。

 しかしその魔書を本当に解読できた時――。

『魔法を使えない者』も、一時的に魔書の力を借りて魔法を使えるようになるのだ。

 それを、この、年端もいかない少女が……、解読していたのか。まさか。


「結沙」

 名前を呼んでも、結沙はこちらを向こうとしない。ただ、清楚な頬が、かすかにかすかに振動している。

「お前は、どんな地獄を生きてきたんだ?」

 俺は結沙の肩に手を置こうとする。

 だが、それは叶わなかった。

 上空から豪速の竜巻が、雪崩れ落ちに降ってきたんだ。

「あの、うちの子供になにをしてくれたんです?」

 その脂ぎった声は、どの部分を切りとっても怒りの二文字に満ちているようだった。



 見覚えがあった。

 あの丸い腹、黒縁の眼鏡。スーツに身を包んだその男は、まごうことなく俺が雇った行政書士だ。

「おじさん……?」

 結沙が狼から手をそろりと放して立ち上がる。行政書士の顔が、アシンメトリーに歪んだ。

「おじさん、情報結合魔法インフォマ・ノウインを使ってね、うちのシンヤがいじめられてるってわかったから急いで来てみたわけ。そしたら……、なんだ、結沙ちゃんと義理の父親じゃないか」

「違うよ。いじめたんじゃなくて、あの子たち悪いことしてたから文彦さんが叱っただけなの」

「結沙ちゃん、魔法が使えたんだね。隠しごとしてるなんて、結沙ちゃんこそ悪い子だ」

 結沙と行政書士の会話が噛み合っていない。奴は結沙の膝から喉元までを、赤いペンキを塗ったくるように視線でなぶった。

「悪い子にはおしおき。そうだね、正しいね。おじさんも結沙ちゃんにおしおきしなきゃ!」

 行政書士が下顎を震わせると、中空に黄色の塊が浮かんだ。その塊は放電を繰り返し、やがて黒へと濁っていく。途端、俺の身体が行政書士の方へグイッと引き寄せられた。

「な……ッ!!」

「下民ガァァァァ」

 行政書士が内ポケットから刃付きのショートステッキを抜き出す。魔法の発動に際して魔力を増幅させるグッズだが、奴はあのステッキを違う用途で使おうとしている!

 白刃一閃、ステッキが俺の眼球を狙う。サイドステップでかわしたものの、依然として身体ごと引かれていく。さっきの光球は……重力球グレイブか!

「ほらぁ。ほらぁぁ!!」

 峻烈しゅんれつな一発が俺の頬を掠める。身体から液体の流れる感触を覚えた。続けざまに、全体重の乗せた突きこみ。この凶刃は空を穿つ。だめだ、防御の姿勢をとることができない。

「よくもっ! 下民のくせに! うちの子を!」

「よせっ、」

「それに、こんな可憐な少女ををおおををををををを!!」

 きびすがL字側溝にかかる。後方の状況がわからない。だが目を逸らすことはすなわち死を意味する。こいつは本気だ。本気で、俺を突き殺しにかかっている。

「逃げ足が上手だなぁ! 下民ッッ!!」

 男が叫ぶと同時に、ステッキが肥大した。それはまるでサーベル。俺の横っ腹すれすれのところを通過し、そして……狼の脳天を鈍く貫いた。

「狼さんッ!」

 結沙の悲痛な声が聞こえる。だが一瞥した限り、あの一撃は致命傷だ。

「ひひぃ。どストライクだぞう」

「い……いやぁああぁぁぁぁあぁぁぁあぁああ――――――ッッ!!」

 結沙が両手を頭に当てて身をよじらせる。だが行政書士は結沙のおののきをまったく気にせず、ペロリと舌で上唇を舐めた。

 この男は狂っている。

 自らの飼っている狼ですら物扱い。

 それならこっちだって……、やるしか……、


「なんでえええぇぇぇぇえええぇぇぇえっぇえ――――――――――ッッ!!」


 俺の気迫を、芳醇な香りが押さえつけた。

 それはついさっき嗅いだ、ミルキィな香り。

 霧が俺の首の後ろからやってきて、たちまちに行政書士へと躍りかかる。

従順魔法フォロウインかッ! そんなの大人には通じないよ!」

 行政書士がステッキを水平に薙ぐ。空間がパカリと割れるや、そこから業火がわき起こった。まるで、巣穴から出てくる軍隊アリのように。

 霧が揺らぐ。炎熱が霧を蒸発させていく。結沙の思いやりも希望も、全てを刈りとってベルベットの色に染め変えていく。

 俺はポケットに手を突っこみ、ざらざらとした塊を緩く撫でた。

「ほぅらお天気ごっこはおしまいだよ! 熱いでしょ!? 熱いよね!? 早く謝らないとね! そこのお父さんみたいなヒトと一緒にね!」

 俺は動かない。

 結沙と自らの危機に瀕していても、動かない。

 奴の焔は、間もなく終焉を迎えると知っているからだ。

「大人を本気にさせちゃいけないよ! 熱かったら服を脱いでもいい……」

 行政書士の喉に気団が詰まる。

 そしてガチガチと歯合わせを始め、奴はゆっくりと自分の左手に目をやる。


 さっき『死んだはずの』狼が、行政書士の腕に食いついていた。


「ぎゃああああああああッッ!?」

 焔は消え去った。そのショックで行政書士はステッキを地面に落とす。俺はすかさずステッキを拾ってマンションの庭へと放った。

「こ、これは……反魂リ・アニマ……!! ばかな、お前、なぜこんな高度な魔法を使える!?」

 俺は行政書士の問いには答えない。

 だけど無垢な視線で臨んでくる結沙には、簡潔な回答を用意しなけりゃならなかった。

「知りたいか?」

 両手を結び、コクン、とうなずく結沙。俺は肩全体で深い息をして、ポケットから一冊の手帳を出した。ここには、いくつかの物語のタイトルとあらすじをしたためている。


「俺は、九百七十二冊の魔書を解読している」


 結沙の瞳が、星の光を放つ。

「こんなところが答えで、いいか?」

 結沙は俺の腰に抱きついてきた。まだまだガキだなと思いながらも、引き離せない俺もまたガキな一面があるんだと自認した。

 俺は結沙のすすり泣きを聞きながら天を眺める。

 新月が太陽の供をしながら、ワイングラスのように淵を輝かせていた。



 行政書士のおっさんと二人の小学生、そして狼のナイスガイはとぼとぼ帰っていった。

「なんで怪我してるんだろう? いつ? どこで? 病院に行かないと……」

「お父さん大丈夫?」

「おじさん、ライコウに噛まれたんじゃないの?」

「いやぁ、ライコウは大人しくしてたよ」

「ウォォォォォォ――――――――ン!!」

 タネは簡単。結沙が霧で一同の心を和らげてくれたからだ。

 俺たちと争ったことも覚えていないらしい。目をパチクリとさせながら「あれ、本宮さん?」となんの気なく言う行政書士が妙におかしかった。

 とはいえ、結沙に対する差別の心が奴らからとっ払われたかどうかはわからない。

 俺たちは喜んでいいのかどうなのか、よくわからないまま互いの顔を見合った。

「そうだ」

 突然、いいことを思いついた。

 だって、せっかく早くに起こされたんだ。この時間を無駄にすることもあるまい。

「お前、宇宙に興味があるらしいな」

「えっ。どうして知ってるんですか?」

「さあ。どうしてでしょう」

 俺はおどけて背中を反らす。結沙の好きな太陽の光が、1億4960万キロメートルを隔てて俺の前面を焼き焦がす。軽走りで部屋へと戻り、簡単に着替えて財布を持ってきた。

「今から科学館行くか?」

「……え」

 結沙がケロリとした顔をして、やがてそのままくしゃくしゃに歪む。

 こいつはほんとにボケだ。

 俺の休日を邪魔するどころか、人混みの中に俺を突っこもうとしている。お前がいなきゃ、行くわけねえだろ科学館なんか。

「どうすんだ?」

 尋ねると、結沙が俺の手をとってきた。

「夏休みの自由研究とかやらせねえと、俺は児童相談所に呼ばれちまうんだからな。よく覚えとけ、クソガキ」


 結沙と歩き出す。

 結沙と緩やかな坂を下る。

 ケンブリッジ・ブルーの天穹から、斜め風が吹き降りてくる。その青の中を、魔法使いたちが列をなして翼をはためかせていた。

 結沙が小さな声でなにかを言った。

 俺は、聞き間違いであることを強く祈り、その祈りは無駄なのだろうと知る。

 だってこいつは、やめろと言っても絶対に聞く耳をもたない奴なのだから。

 髪の間から無防備な耳をのぞかせて。それも、未来なんかを期待したふうに光を反射させて。二つの影法師が、夏にケンカを売るように伸びていく。

 やっぱり文彦さんは魔法を使えるじゃないですか――、とか。

 あー、あー。


 聞こえないね。これっぽっちも。



                              了

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