【2】花と陽と記憶と

 ─── 緑の鮮やかな草原を裸足で踏み、サワは風のそよぐ草原を森へと急ぐ。途中流れる小川のそばでひざをつくと、水をすくって1口飲む。雪解け水は柔らかく冷たい。村からずっと歩いてきて火照った身体に染み込んでいくようだ。



 今年もいいお米が取れそうだ、と顔を上げた目線の先に愛おしい影を見つける。いつも待ち合わせる森の入口の岩の所に彼は腰掛けていて、サワにはまだ気がついていないようだ。


 手に持っていた草鞋をギュッと握ると、その男の元へと駆ける。ようやくこちらに気がついた彼は、袿の裾が足に絡んで転びそうになったサワを抱きとめる。顔を見合せた二人から笑い声がこぼれた。


 まだ朝方は冷えるが、こんな暖かな日が増え始める春。その訪れが嬉しくて仕方ない。それをあなたと迎えられる喜び。


 ただそれだけの事がこんなに幸せだとは──── 


 *


 二月の終わり。暖かな日が増えてきた。陽のきもちいい日なので、夏乃は冬の間、布団乾燥機に頼りっぱなしだった布団を、思い切ってベランダに干した。


 風に乗って来たのか、どこかで咲いているらしい花の香りがする。

 梅、沈丁花、水仙。去年、夏乃が医大卒業の年に、勤務の決まっていた病院から一駅隣の街へ引越しをする際、この部屋を見に来て、ベランダから花の香りを感じた。

 それが、この河原沿いのこのマンションに決めたきっかけになった。


 生まれた時から家族で住んでいた家の庭にも、香りの良い季節折々の花木が植わっていた。今は両親と祖父が亡くなり、祖母も伯父に引き取られた事で、人に貸しているが、いつかまたあの家に住めたらな、と夏乃は思っている。


 こちら側と対岸の堤防沿いを、近くの学校の部活の子たちが走りに出ている。掛け声が微かに風に乗って聞こえてきた。それを見て、先日、伯母から貰った電話を思い出す。


 ─怪我は治ってるらしいんだけどねぇ─

 心配げに電話の向こうでため息をついた。


 ─こんな事ならちゃんと医学部に進むように言えばよかったな。教育学部じゃうちの人も畑違いだから、手助けしてやることもできないしね─


 従弟の尊の事である。駅伝チームの引き抜きで進学した大学だが、去年の怪我から、精神的に立ち直れないらしい。


 尊の進んだ大学は、名門、という程ではないが、毎年、箱根駅伝に出場していて、尊はそこで活躍するものだとばかり思っていたのだ。

 1、2年の頃は、控えの選手として名前を連ねていた。3年に上がってようやく、それまでのエースが卒業し、力をつけた尊が一日目のアンカーを務める事になっていたのだ。山道を登るのは昔から得意で、近所の小高い山を庭のようにいつも駆け回っていた事が項をなしたのだろう。


 だが、その年のチームでの選考会の前に靭帯を傷める怪我をし、その年のレギュラー入は夢となった。夏乃もお見舞いに行かなければと思ってるうちに、退院してしまい、尋ねるきっかけを逃してしまったことで、尊とは長く会っていない。


「どっちにせよ、本人がやる気出さないと戻るのも無理なんだろうし」


 夏乃は干した布団に頬をつけた。既にほんのり暖かくなった布団の柔らかさに、ほっとする。寝不足のせいかそこで昼寝したら気持ちいいだろうな〜、などと思っていると、昔をおもいだした。縁側に布団を干して、そこに尊と一緒に横になってゴロゴロした事を。


 五歳年下の尊は、朗らかで程よくやんちゃで、夏乃によく懐いていて可愛かった。夏乃が中学のとき、ある事がきっかけになり、親戚である伯父夫婦と距離を置くようになった。


だが母が亡くなったことで、夏乃の後見人になってくれた伯父夫婦とも、また昔のような家族間の付き合い方に少しずつ戻ってきていた。


 伯母である沙都子は、まだ子供っぽい娘たちよりも、夏乃の方が色々話しやすいのだろう、夏乃を気にかけて電話をくれるが、いつしか尊の話になる。この間の電話では、沙都子についに頼み込まれたのだ。


「尊に会って、話を聞いてやってと言われてもなぁ」


 母の葬式からこっち、尊とは三年ほど会ってない。会いたいとは思うが、数年会わないと、やはり少し躊躇してしまう自分がいる。


 数日後、久々にガッツリ買い物して、ショッピングモールから帰ろうとした時だった。駅へ向かう途中の店の並びに花屋がある事に気がついた。

 コデマリやスイートピー、フリージア、春の花がピンとしたセロハンに包まれてバケツに入っている。

(東向きだからな、近くに病院もあるし、花屋にはいい立地だなぁ)

 などと思って、ふらりと店へと足を踏み入れた。


 店員にショーケースの中から枝を選んでもらっていると、入口に男子学生らしい男が立っていた。こちらを見ている視線に気がついて顔を上げた。


「いらっしゃいませ」

店員が声をかけた。


「え……?」


 夏乃は目を丸くした。紺色に白いラインの入ったオーバーサイズのパーカーを着て、ストンとしたダメージジーンズを履いている。黒髪は無造作に見えるように軽く整えている。



「夏姉……?」


 呆然と呟いたのは、久々に会う、従弟のたけるだった。

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