【7】 雨の夜 2

「夏姉、ちょっといい?」

「うん、なあに?」

「宅配来たんだけど、受け取っていい?」

湯船から上がって脱衣所の方を軽く開けた戸の隙間から見ると、すりガラスの小窓の向こうで、背中を向けたまま尊が言った。浴室側から磨りガラス越しにそれを見て、思わず身体を自分で抱きしめる。


「うん、お願い、サインでいいから」

「了解、上がったらちゃんと鍵閉めて?」

 言ってドアを閉めた。普段は誰もいないから、うっかり鍵を閉め忘れた。

 ドキドキしながらため息をつく。

 

 苦い思い出が脳裏をよぎった。2年前に数ヶ月付き合った彼氏。

 思い出した光景に目をぎゅっと瞑る。

 いつもなぜだか邪魔が入った。彼と何度目かに一緒に夜を過ごす約束だったあの夜。けれどいつもなぜか上手くいかなくて。


 ─悪いけど、帰るわ─


 そう言って帰って行った彼とは、気まずくなったまま、二度と会わなくなった。先程、尊に出した下着はその日の彼のために夏乃が用意しておいたものだった。未練たらしいのか、もったいないという貧乏性のせいか、それを引き出しの奥にしまい込んでいた。


それが結果、今夜役に立ったわけなのだが。


 もう一度ため息をつく。


 夏乃は奥手だった訳でもない、高校の頃もそれなりに付き合った人はいたし、大学時代だってそうだ。だけど何故か上手く関係を深めることに繋がらず、ちゃんと付き合っていたその時の彼でさえ、夏乃が一線を超えることはついぞなかった。


(知られたら、ドン引きされるよね)


 実はまだ性交渉の経験が無い。それは今、夏乃のコンプレックスのひとつでもある。年齢的に周りにはそれなりに経験がある振りをしているが、知識のみで実戦が伴わない。


そんなことであるので、こんな夜に、尊が同じ部屋にいる事に妙に緊張する。尊にそんな気がなかったとしても。


 風呂から上がると、尊はソファに座ってテレビを見ていた。


 夏乃は、緊張を和らげるために、棚を開けて取り出したグラスに氷を幾つか放り込むと、ウィスキーのシングルをサーバーの水で割った。その音で振り返った尊と目が合う。


「尊も飲む?チューハイ?ビール?」

「ああ、でも…」


 尊は躊躇した。


「お酒弱い?少しぐらい、いいじゃない。服は浴室乾燥にかけたけど、まだまだ乾かないと思うし、今夜は泊まって行きなさいよ」


 夏乃が言うと、尊はようやく口角を上げた。


「じゃあビール」

「はい」


 冷蔵庫からビールの缶を取り出して渡す。プシュっと音を立てて缶を開けた尊の前に棚から出した背の高いグラスを置いた。


そして、寝室のクローゼットを開けて、上の棚に置いてある布団を引っ張りだそうとした。


ふと、照明が陰って暗くなったと思ったら、夏乃の後ろから、尊がそれを下ろそうと腕を伸ばしていた。背中に感じた尊の体温にドキリとする。


「言ってくれたら自分で下ろすって」


 耳のすぐそばで笑い混じりに聞こえた声は、どこか伯父に似ていて、少しかすれる。もう少し若い声だった高校生の頃はそんなふうに思わなかったのに。幾分か乾いた髪はまだ濡れている。自分と同じ石鹸の匂いがする。妙に落ち着かない気持ちになって、顔を背けてリビングのテーブルの前に座ると、先程のウィスキーの水割りを1口飲んだ。ふと寝室に目を向けてぎょっとした。


「ちょっ…!布団!あなたはこっちで寝るの!」


 夏乃のベッドの隣に布団を敷こうとしていた尊に、焦って夏乃が言うと、はた、と手を止めた。

目を上げた尊と目が合った。変な空気が流れる。


「ああ、昔からのくせで…わりぃ。夏姉のとこ泊まりにって小学校のとき以来だよな」

 一度敷き始めた布団をまとめてリビングに運びながら、尊が言う。夏乃は手元のウィスキーを飲もうとして、変に緊張が抜けなくて手が震えた。


「夏姉、シーツ入ってない」


 布団セットの不織布のケースをもう一度覗いて、尊が言う。


「ああ、パットのやつ出すね」


 クローゼットに戻って、引き出しから換えの敷パットを出す。

 馬鹿だな、弟のような尊相手に、なに緊張してるんだろう。夏乃は尊に気が付かれない程度にため息をついた。

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