【6】雨の夜 1

 四月に入った。新年度の新体制に慣れるまで、色々込み入る仕事が多く、忙しい日をすごしてるうちに、桜が散り始めていた。


 その日は花冷えだとテレビのニュースのお天気アナウンサーが言っていたので、夏乃はスプリングコートの下にカーディガンを1枚着込んで出勤した。


 仕事が終わって病院を出たのは、9時を回っていて、夕方から降り続いていた雨の中、駐車場を傘を差して家路についた。


 マンションに入る頃には足元のパンプスと、パンストの足はビショビショに濡れて冷たかった。ぶるっと震えながら、早くお風呂に入ろう、とエレベーターから降りた。


 部屋の前が見えてくると、夏乃は立ち止まった。部屋の前にうずくまるようにして座っている人影が見えたのだ。


 傘の先からぽたりと垂れた雫が足の甲に当たって、ハッと身じろぐと、その動きに、その人物はこちらを見た。


「尊…」


「…夏姉、おかえり」


 弱く笑った尊は同じく雨に濡れたのか、髪が濡れていたが、薄手の黒いパーカーや、トレーニング用のスパッツは乾いている。随分ここにいた証拠だ。


「髪、濡れてるじゃない!傘もってなかったの?」


「ランニングに出てたの。ちょっとこっちまで遠回りしたら、急に降るんだもん」


 つい医者の癖で、座ったままの尊の頬に触れると、無精髭がチクリとした。その手を逆に上から握られて、ドキッとした。


「ちょ…手、冷たいじゃない!入って、シャワーした方がいいよ」


 立ち上がって、部屋の鍵を開けようと手を離しかけた時、その手をぎゅっと尊が握った。


 驚いて尊を見下ろす。

 見上げてくる、尊の目が熱っぽくて、思わずたじろいだ。


「……なんか、あった?」


 ようやく絞り出した言葉は掠れている。


「無かったら来ちゃダメなの?」


 尊はふっと笑った。夏乃はその力のない笑顔にドキッとした。こんな顔する子だっただろうか。


「ダメじゃないよ。とにかく寒いから中、入ろう?ね?」


 戸惑う気持ちを振り切って、尊を引っ張って立たせると、その勢いでバタバタと鍵を開けて、変に暴れかけている胸の鼓動を気にしないようにし、部屋に入る。


 スリッパを出してやって、エアコンを付け、浴室のお湯が出るようにボタンを押す。


 とりあえず髪を拭かせる為にタオルを尊に渡すと、大きめの自分のスウェット、前に付き合っていた人の買い置きにしていた新品のボクサーパンツを一瞬だけ迷って、引き出しの奥から引っ張り出す。一通りを浴室の前に置いた。


「先にシャワーしてきなさい」


「夏姉も手冷たいじゃん」


「あんたは昔から風邪ひきやすいから、私はとりあえず着替えするから、先に入って?湯船溜まったらちゃんと温まってね」


 尊の背中を押して強引に脱衣所に押し込む。自分は湯を沸かしながら寝室で温かい部屋着に着替え、濡れたものをカゴに入れる。


 尊が出てきた時のために、作り置きのスープを温めながら自分にはコーヒーを入れた。


 冷蔵庫を開けて、冷凍うどんと切った油揚げを取り出して、出汁と一緒に鍋にかけて、卵を落とすともう一度蓋をしてしばらく加熱する。


「夏姉、ありがと、風呂お先」


 やはり、袖も、ズボンの股下も足りてない、ちょっと情けない格好の尊がタオルで髪を拭きながら出てきた。


 ちょっと痩せたのか、この前会った時より顎のラインがスッキリした気がする。


「お腹すいてるでしょ?おうどん食べて?」


 切ったネギを散らすと、レンゲと一緒に出してやる。スープは野菜たっぷりなので、汁物がふたつになるが、健康のために食べてもらうつもりだ。


 この間会った時は、貧血気味なのでは?と感じる程度に顔色が良くなかった。気になっていたのだ。一度うちに呼んでしっかり食べさせよう、そう思いつつ、日々をバタバタしてるうちに声をかけ損ねて今に至る。


「ありがとう、腹減ってた」


「じゃ、私もお風呂入ってくるね、ゆっくりしてて」


 脱衣所の引き戸を開けようと手をかけたところで呼ばれた。


「なあ」


「うん?」


「なんで男物のパンツがあんの?」


 一瞬固まる。真っ直ぐ自分にあてられた視線から、ゆっくりと目を逸らした。


「…前に付き合ってた人の」


「…ふーん」


 それ以上何も言わずに、夏乃は浴室に入った。少なからず動揺している。

(変に思われなかったかな?)

 夏乃は今年26になる。そういう相手が過去にいてもおかしくもない。普通にしてたらいい。夏乃には気にしていることがある。それは極力、誰にも知られたくない事実だ。


(二十六歳か…)


 尊は二十一歳だ。前に顔を合わせていた時はまだ高校生だったのに、不意に大人びて目の前に現れたものだから、どんな顔していいか時々分からなくなる。


 先程自分のスウェットから出た、尊の首すじのしっかりした感じや、幼さの名残が微かに残る顎のライン。元々、伯父に似て、端正な顔立ちなのは分かっていたが、こんな数年でこうも変わるものかと、尊に時々見とれてしまう自分がいる。


 花屋で会った時だって、重い荷物をサッと持ってくれたり、店に入る時のドアを押さえてくれたり、以前にはなかった女性に対しての気遣いが自然に出る度に、大人になったんだな、と姉のような気持ちで嬉しく思っていた。思っていたのだけど。


 先程、雨に濡れてこちらを見上げて弱く笑った尊の視線には、妙な色気が滲んでいた。


 走ることへの挫折や、元カノとの別れなど、色んな苦悩を抱えて悩んできたことが、今の尊を作っている。


 湯船に、鼻まで浸かる。


 カタン、脱衣所のドアが軽く開いた音がした。

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