【5】突然の来訪者 ─尊─
大学も休みに入ったその日、尊はバイトもない日だからと昼まで惰眠を貪っていた。
コーチから久しぶりに電話が入ったのは、いい加減起きて、たまには掃除しようと思いつつ、重い腰が上がらずにいた午後1時の事だった。
メールではなく電話だったので、スマホを弄っていた弾みで通話ボタンを押してしまったのだ。
「…はい」
切るのも変なので仕方なく対応する。
「お!出た!?良かった、お前、今家にいる?」
久しぶりに聞いた明るい声。人柄とは声の調子にも出るもんなんだなと思う。
「ああ、はい」
「ちょっと寄っていいか?」
「ええ!?いつっすか?」
尊は焦った。足元のゴミの山をとりあえず掴んだ。それを次にどこへやるかを悩んでキョロキョロする。
「恐ろしく散らかってるんですけど」
「ああ、いいいい、玄関先で」
そこが1番やべぇって…顔がひきつりながらも、何とかしようと対策を考える。
「外じゃダメですか?」
「なんだ?女でも連れ込んでんのか?」
「いや、ほんと散らかり方が常識の範囲越してるんで」
やいのやいの言っているところに
ピンポーンとチャイムが鳴る。覗き穴を見て唖然とする。白いラフな上着にストライプのシャツワンピースという出で立ちの夏乃が毛先をいじりながら立っていた。
(夏姉!?なんで!?)
「ああ、学生の部屋なんてそんなもんだろ、気にしないからさ。今近くのコンビニだから、あと15分で着くから」
コーチは電話を一方的に切った。
「あ……ちょっと!」
仕方なく、取り敢えず先客の対応にでる。ドアを開けると、夏乃が、小さな紙袋を下げてそこにいた。
「近くまで用事で出てきたから、ついでに来ちゃった」
「夏姉、助けて……」
泣きそうな従弟の顔に、手に持ったゴミ袋と後ろの荒れ具合を見て目を丸くした夏乃は、
「もしかして突撃訪問は私だけじゃないとか?」
従姉のこの察しの良さは、今の尊にはとても有難かった。
「コーチが15分後に来るって…」
「ゴミ袋!」
夏乃の目の端がキラッと光ったように見えた瞬間、言いはなった。運良く買ってきて買い物袋に放ったらかしだった袋がすぐそばの椅子に引っ掛けてあった。それを渡すと、
「寝室にとりあえず布物、荷物、洋服全部放り込みなさい。ゴミの選別はあと!捨てるもの全部袋に詰める!」
「はい!」
そこまで広い部屋でもないので、夏乃はテキパキと片付けを済ませて、ベランダにゴミを積み上げた。
まだ使ってるこたつの布団を一緒に剥がしてベランダに干し、洗い物をシンクにまとめて、とりあえずバスタオルを上からかけて目隠しした。
久々に日の目を見た床に、夏乃は掃除機をかけつつ、尊にはトイレ掃除をしろと言い出した。
水回りだけは汚れる時になるタチで、時々やっていたので、さっと掃除したら綺麗になった。
部屋に戻ると、夏乃は拭き掃除用のシートで、床の汚れの酷いところだけを拭き取っている。床とテーブルが広くなっただけで随分スッキリした。
「顔と手だけちゃんと洗ってきたら?」
言われて洗面台の鏡で寝癖をみつけ、簡単に身支度を整えて戻ると、すっかり片付いた部屋で夏乃が洗い物を終えようとしていた。
更には買ってきていたらしい菓子をテーブルに出してくれていた。
見ると玄関先の靴も、棚におさまらない物をきちんと揃えてくれていて、ちょっとやるだけで印象が全然違った。
「じゃあ私出るね、また出直すから」
と手を拭いてカバンを持ち上げた夏乃の手を尊は掴んだ。
「なに?」
「居てよ、頼むから」
その顔が懇願に近かったので、夏乃は面食らった。どうしたと言うんだろう。
***
片付けの終わった部屋に程なくしてやってきたコーチは、夏乃を見て目を丸くし、尊の耳元でコソッと言った。
「やっぱり女連れ込んでたのかよ」
キッチンでお茶を入れる夏乃のしなやかな身動きは見ていても気持ちがいい。だが、それをコーチにジロジロ見られるのもなんだか嫌だ、と尊は思う。
「しかもかなりの美人」
「ちょっと……違いますって、従姉です」
尊が言うと、テーブルのそばに膝をついた夏乃は茶を出しながら、
「北澤 夏乃です。尊がいつもお世話になってます」
愛想良く挨拶する。コーチはニコニコと会釈を返す。
「大学の陸上部でコーチをしています相川です。尊君の事は高校の時から指導させてもらってます」
夏乃は、ああ、そうか、と思い出した。高校の駅伝部に出入りしていたどこかの大学のコーチが、尊を見込んで大学に引っ張ったという話を叔母から聞いていた。目の前のこの人物がそうだったのか、と合点がいった。
「あの、もしお話の邪魔でしたら私、出てますけど」
夏乃が気を遣って尋ねると、
「いや、いいですよ、一緒に聞いてもらって」
コーチは、尊がわかる程度にはデレデレしながら言った。
「なんの話なんすか?」
尊がため息混じりに尋ねるとコーチは一変、険しい顔をした。
「お前、本当にそろそろ戻ってこい。でないとうちのチーム、来年の大会、やばいんだよ」
「その話は…」
「駒井が膝、手術するらしい」
「駒井が!?」
尊が驚いてコーチを凝視した。
駒井というのは、尊の所属する駅伝部のエースである。尊と同じ三年で、既に主将としてチームを率いている。
「あいつがいなくなったら、佐野しかいないだろ」
「佐野じゃだめなんすか?」
主力メンバー最後の一人、佐野。尊と同じく一年の時からレギュラーで中継ぎを走っている。
「わかってるだろ、あいつは前に出るタイプじゃない、下手したらあいつの良さ潰すことになりかねん」
「こんな数ヶ月サボってるやつが戻ったら余計に事でしょ」
「そんなことない、みんなお前を待ってるんだぞ?調節しながらでいい、頼むから戻ってくれ」
尊は辛そうに目を伏せた。
「永野との事は本人から聞いてる」
「!?」
「俺以外は知らんはずだ。相談してきたのはあいつだ。彼女とは別れたそうだ、反省もしてる、謝るチャンスが欲しいと言ってる」
「謝ってもらうようなことじゃないでしょ、あいつが永野を選んだってだけの話でしょ。なんなら永野がまとめ役になれば丸く収まるんじゃないすか?」
「ダメだ」
コーチは頑なに首を振った。
「お前が怪我さえしなけりゃ、駒井じゃなくてお前が主将だったんだ、駒井もお前が戻ることを強く希望してる、考え直してくれ」
「監督は?」
「監督の頼みでここに来てる」
「……」
尊は黙ったまま俯いた。夏乃はそれを見守るだけだ。
「今日はそれだけ言いに来たんだ、急に来て悪かったな。夏乃さん、と言っていいですかね、苗字同じですし」
「ああ、はい」
「突然お邪魔してすみませんでした」
「いえ、尊の為にありがとうございます」
「北澤」
もう一度呼ばれて顔を上げた。先ほどまでの労わるような眼差しではなく、まっすぐに尊を狙い定めた目だった。
「待ってるぞ」
相川は、夏乃にもう一度頭を下げて帰って行った。ドアの閉まる音を聞いて、尊は夏乃の方から顔を背けた。
「俺の為じゃなくてチームのためだろ?」
苦いものを噛んだように、尊が言った。
「あなたが走っていたチームでしょ?」
言いながらも、夏乃は気遣う視線を尊に向けた。仏頂面した尊に小さくため息をつく。尊は机の前に座って先ほど夏乃が入れた茶を飲み干した。
「片付け、手伝ってくれてサンキュ。…でも、今日は帰ってくれないかな」
「尊…」
「1人にして欲しい」
夏乃は膝を抱えた尊の背中をそっと見つめた。
「うん、今日は帰るね。でも1個だけ言わせて?」
何も言わない尊にもう一度小さくため息をつくと、
「憶測で言うけど、あなたの言った通り、彼女が選んだことなら、もうそれは変えようの無い過去なんだもの。あなたはここから立ち直らないと仕方ないんだよ」
尊は前を向いたままぎゅっと目を細めた。
「だから、わたしにできることあったらいつでも頼って?」
膝を抱いていた尊の手に、そっと手を重ねてきた。洗い物をしてくれたせいか指先がまだ湿っていた。
「じゃあ、帰るね」
夏乃はカバンを持つと、腰を上げた。やがてドアが閉まる音がすると、尊は大きなため息をついた。
「夏姉に、何がわかるんだよ」
1人になった空間に、尊の声が寂しく溶けていった。
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