【3】再会 ─尊─

 風が強い日だった。少しずつ暖かい日が多くなってきた3月の初め。後期のテストも何とか通って単位を落とさずに済んでホッとすると、また無気力感が戻ってきて、ダラダラとバイトと下宿先を往復してるだけの生活に戻った。


 昨年夏怪我をしてから、ここ数ヶ月部活には戻らず、そればかりかバイト以外には全くやる気が出ず、食事も適当になる有様だった。


 年末まではしつこいくらいだった、コーチからの連絡もしばらく途絶えていた。


(もう、さすがに諦めたんじゃねーの?)


 尊は、まるで人事のように思った。

 大学の駅伝チーム。そこまで名門では無いが数年前までは箱根駅伝の常連校で、自分、北澤尊は、その大学に陸上部関連の引き抜きの推薦で入学していた。


 それが三年前。1、2年のうちは先輩に選考会で負けて、ようやく今年こそは、と、タイム的に確実だと言われていた3年の夏、右足の靭帯を痛めた。


 治療もリハビリも成功。慣らしながら戻していける、と医者にも言われている。


 だが、同時期にある出来事があり、尊はすっかり走ることへの意欲を無くしてしまった。腐って部屋にとじこもり、単位のためだけに仕方なく授業に出席して。


 それでも季節は巡っていく。去年着ていた春物のシャツが2枚もダメになっていたのを思い出し、まだトレーナーでうろつけるうちに、と久々に街へ買い出しに出かけることにした。


 洗面所の鏡に映った自分を見て、ため息をつく。使わなくなった筋肉はみるみる落ちるし、面倒で食べることも無頓着。アスリートは継続が大事なのは分かってるのに。失くしたものを取り戻すとしたらどのくらいかかるのだろう。考えようとして無理に思考をストップさせる。焦燥感が沸き起こるのはわかってる。走るのを辞めるのか辞めたくないのか、中途半端なままな自分に嫌気がさす。


 それでもカーテンの端から差し込んだ光に外に出る気になれたのは、あとから思えばなにかの力に引き寄せられていたのかもしれないと思う。出かけたついでに、とマンションのすぐ近くの店で髪を切って、さっぱりした頭で電車に乗りこんだ。目的はシャツだ。風が強いことを省けば、麗らかすぎる春の陽気に、久々に尊の心にも温もりが戻っていた。久々に軽い足取りで近場のショッピングモールへと向かう。


 駅から外に出た瞬間、吹き込んできた風で目にゴミが入った。立ち止まって、涙が出るようにすると、何とか異物は目の外へ出すことが出来た。


 その時、軽く頭痛がした。


 脳裏に稲妻のようなものが走り、眼裏に何かが浮かんだ。


(…竜?)


 その瞬間、最近、ずっとおなじ夢ばかりを見ていたことに気がつく。


 どこからか花の香りがした事で、それは鮮明に脳裏に広がっていく。


(なんだ?アレ)


 起きたら気にしなくなるが、いつも、あの竜がこちらをみてなにか話しかけられているような、そんな夢を見ている。これまでは気にもしなかったのに。


 尊はショップのある方へと歩き出した。途中、花屋の前を通るとき、足元のバケツに小分けのフィルムで包まれた色とりどりの花を見かけて、ふと足を止めた。

 実家にいた時は、定期的に花屋から花が配達されて来た。尊の祖母が花を生ける人だからだ。

(…ああ、あれは)

 思い浮かべた家の光景は、実家のそれではなく叔母の家、父親の実家である。大好きな親戚のうちで、しょっちゅう泊まり込んでた。小学校の高学年になる頃までは。

(野球を始めてから、行かなくなっちゃったんだよな)

 尊が叔母の家族を思い浮かべたところで、店の中から声が聞こえた。

 

「すみません、そのスプレーのバラとかすみ草を、ああ、その枝がいいです」


 聞き覚えのある声に、あれ?と思って、店の中を覗いた。


 店内にいた背の高い女性を見て、ドキン、と心臓が跳ねた。


「いらっしゃいませ」


 店員が尊に気がついて声をかけた。ガラスケースの前に、店員と一緒にいたその女性は、パリッとした春物の紺のコートを着て、生成のカットソーとデーパードのアイスグレーのパンツ。足元はハッとしたような鮮やかなグリーンのパンプスを履いていた。


 柔らかそうなくせっ毛の栗色の髪を耳にかけながら、こちらを振り向いたその女を尊は知っていた。


「えっ……尊?」


 その綺麗な形の唇が問いかけた。


「夏姉…」


 それが数年ぶりに顔を合わせた、二人の再会だった。



 ***



「びっくりしたよ、尊、背伸びたよね?母さんのお葬式のとき、私と変わらなかったのに」

 女にしては背の高い従姉の夏乃は、長いまつげの目を細めて笑った。


 花屋のそばにあるカフェに入り、2人はお茶を飲みながら、近況を報告しあった。と言っても尊の方は、胸を張って報告できることは単位を落とさなかったことぐらいで、部活のことは、夏乃も母から聞いて知っているのか触れてこない。


 ホットのアールグレイにミルクをたっぷり、砂糖は入れなくなったのか、と夏乃の手元を見つめる。細長い指と、爪は医者らしく清潔に短く切りそろえられて、せめて、と磨いているのか、艶やかに光沢があった。


 カフェに入ってきた人達が、チラッとみて行くほどに、華やかで凛とした美しさがある。


 夏乃は美人だ。まつ毛の長い大きな瞳は黒目が大きすぎず、白目の透明感が美しい。鼻筋がスッキリ通ってその透けるように白い肌がその顔立ちを映えさせる。


「今日はどうしたの?買い物?」


「ああ、春物のシャツ、去年ダメにしたから」


「そっか。そういうのも自分でするようになったんだね」


 母親に世話されていた印象のまま、夏乃には尊は子供、という認識のままなのだろう。そう思うと、胸の奥がちりっとした。


「何選んでいいかわかんねーけど」


「良かったら一緒に見に行こうか?」


「いいの?」


「うん、今日はもう用事ないし」


 そんなこんなで、多かった夏乃の荷物を持ってやり、自分のシャツを夏乃に選んでもらって、ついでとばかりに荷物をマンションの部屋へと運んでやった。


 夏乃は駆け出しの医者だ。尊の父と同じ道を選んだ。自分はそっちには進まなかったけどな、と、尊は患者の立場に立つ治療を、心がけてきた父親の背中を思い浮かべた。


 父を尊敬もしてる。だけど自分にその道は合わないと思ったのは、いつの頃だったか。


「尊、怪我したって聞いてたけど、もう大丈夫なの?」


 キッチンから紅茶のいい匂いがする。尊はマンションのベランダから振り返って、


「うん、もう完治してる」


「きょうは練習ないの?」


 聞かれたらどう答えようか、まだ決めかねていた。


「尊?」

 夏乃がトレーに乗せた紅茶をテーブルに置いた。

「ずっと休んでんの」

「え?」

「そろそろコーチも諦めかけてる」

「完治したのに?」

 夏乃が隣にやってきた。春の生暖かい風が吹いて、白のレースのカーテンを揺らした。そろそろ春本番だ。こんな日は走りに出ても気持ちいいだろう。

「夏姉は、小児科だっけ?」

「専科はね、でも内科も外科も一応免許持ってるよ」

「努力家だなあ」

 尊は焦りの気持ちが湧いてきて、落ち着かなくなった。その時、手の甲にに柔らかいものを感じた。夏乃がキッチンで洗ったあとの手で触れたからだろう。ベランダの柵の上に置いた尊の手に夏乃のそれが重なる。

「聞くよ、なんでも。他に言えないこと、全部吐き出しなよ」

 胸の端っこが、またちりっと焦げた。

「いまだにねーちゃんヅラするんだな」

「え?」

「いつになったら夏姉に対等に見てもらえんのかな、俺」

 情けない気持ちで顔を背けた。夏乃はその顔を両手ではさんでこちらを向けた。こういう時、夏乃の怒ったような顔がわざとなのは、昔から変わらない。そんな顔すら綺麗だな、と思うあたり、この5歳も歳上の従姉にどんだけ絆されてるんだよ、と自分で呆れる。

「大きくなったのは背だけなの?変わらないな、ほんとに」

「なちゅねえ?」

「ふふふっなんて顔してんのよ、ほら、紅茶飲もう?」

 その笑い声に叔母を思い出した。ああ、そうだ、いつもこんなふうに笑ってくれる人だった。心が柔らかくなったように感じた。虚勢張ってるのも馬鹿馬鹿しくなった。

 紅茶を飲みながら尊はポツリポツリと話した。去年の秋にやらかした靭帯の損傷、確実だと言われていたレギュラーを外れてしまったこと。それから無気力感がずっとあって、どうしても練習に戻れないこと。

「心理的なものもあるのかな。他に怪我の前後で何かあった?」

 夏野の言葉に、尊は思い当たったことがあったのだが、迷ったあと、小さくため息をついた。

「言いたくなったら、話す」

「いつでも聞くよ」

 尊は、その時、頭の端が痺れたように感じ、幻覚をみた。脳の裏側で、また、あの竜がこちらを見つめていた。一瞬の白昼夢。それは直ぐに覚めて、目の前の夏乃がこちらをじっと見ていた。

「最近、竜の夢を見るんだ」

「竜?」

 尊は、さっきの話をした。

 ふとした時に思い出して、それを毎晩夢に見てることを、その時気がついた事。

「なんだろうね。厨二病みたいだよな」

 尊は笑ったが、夏乃は笑わない。紙を取り出してきた。鉛筆でサラサラと何かを描き始めた。

「ざっくりだけど、こんな感じの?」

「ああ、そうだ。片目がないやつ。ほかの絵に見るよりもずっとたてがみが長めで」

「黒い竜だよね?」

「そう…なんで知ってんの?」

 夏乃は鉛筆をおいて、尊を見つめた。その表情は緊張していた。

「私も同じような夢、みるから」

 尊はゴクッと唾を飲み込んだ。


 昔、一緒に映画とかで観たのかな?と夏乃は仮説を立てた。だが思い当たることは無く不思議だよね、と言う従姉をじっと見つめた。


 ただ、これまで目を覚ましたら忘れてしまっていたその夢を、夏乃の言葉によってまざまざと思い出した。そして、幼い頃から幾度となく見てきたあの夢をも。


 尊と夏乃の中で何かが動き始めていた。




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