第9話 花見酒
ひゅうっと少し冷たい風が吹いて、小さく花びらが舞った。
「先生と縁が遠くなっていくにつれて、皮肉なものだよ、私は着実に成功していった……」
「なるほど。それで、今のあなたがあるんですね」
「ああ、そうだ。あの先生がいなかったら、最初に声をかけて、芝居の素晴らしさを教えてくれなかったら、私は……どうしてただろうな。想像もつかない。安定と引き替えに、平凡な毎日を送っていただろうな。だが……」
「だが、なんです?」
力強くうなずいた後で、私は、この大切な思い出話の、切ないと言うにはあまりな結末を話した。
「いつか、先生に、成功した今の私を見せたい。会いたいと思っていた時のことだった。久しぶりに、先生の家から来たはがきは……彼女の訃報を知らせる、それだった」
「…………」
まったく突然のことだった。あっけないと言えばあまりにあっけない、有無を言わさない幕だった。あの白黒のはがきの、目を覆いたくなるような鮮やかさは、それまでの思い出の美しさが強い分、なおさら絶望的に見えた。
「急性白血病、だったな。ショックだったよ。信じられなくて、初めて先生の家に電話したら……沈痛な親御さんが出た。泣いていた。私も……泣いた」
「…………」
しかし、嘆いたところで先生が生き返るはずもない。ないのだが、私が自分の中で事実を受け止めるのには、かなりの時間がかかった。ふうっと溜息をつく。
「辛気くさい締めになってしまったが、これで、私の話は終わりだ。桜色が、あの先生のシンボルカラーだったから、毎年桜を見ると、いろいろなことが去来してね。私が、毎年の、春の花見に消極的なのも、さっきの話が原因なんだ」
「…………」
人付き合いは大事だから、飲みに呼ばれれば行くし、それなりに騒ぐのだが、桜の木の下だと、どうしても、どこか遠慮が出てしまう。幸い、のりが悪いと言うことで怪しまれることはないのだが。
桜の木を見上げる、マネージャーの横顔をちらりと見る。この思い出話を他人にしたのは、掛け値なしで初めてだ。我ながら恥ずかしい話なのだが、こと、この彼を前にすると、なぜだか、背負ったはずのない肩の荷が下りる感じがした。改めて、彼に感謝したくなる。
「この話を、他人にする機会があるなんて思わなかった。君だから話せた気がするよ。しかし、不思議だな。常日頃思うんだが、君と仕事していると、馬が合うとかよりも、頼もしい存在に、いつも見守られている気がする」
「…………」
「それで? 一番最初に君が言おうとしてた話は、何なのかな? やけに思い詰めた顔をしてたようだが。なに、今更遠慮する間柄でもないだろう。言ってくれよ」
私の賛辞にも、彼は無言だった。しばらくの間をおいて、ふっと私の方を見る。
「……覚えていてくれたんですね」
「うん? なんだって?」
「覚えていてくれたんですね。その先生の話。そこまではっきりと」
彼の顔は、どこか嬉しそうだった。そんな表情をされる理由が分かりかねる。その時は、まだ、彼の言葉の深いところを、微妙なニュアンスを読み取れなかった。
「そりゃあ……私にとって、忘れたくても忘れられない話だからな。しかし、『いてくれた』とは、どういうことだ?」
「僕は、似ていませんか?」
「なに?」
「父親は違いますが……似ていませんか?」
「だから、どういう……」
ことなんだ、と聞こうとして、彼の顔をまじまじと見つめて……私は、重大なことに気が付いた。
「……あっ!!」
息をのむ。なんてことだ。毎日毎日顔を合わせていて、どうして見過ごしていたんだ。今の今まで。
彼の面立ちには……見覚えがある!
「君、は……」
「父親は違いますが、同じ腹から生まれた、姉がいたんです。教師をやっていた」
「あ、ああ、あ……」
「姉は、それまで平凡だった赴任先の中学に、演劇部を作りました。自分がかつて芝居に出会って、人生を変えられることの素晴らしさを、生徒達に教えるために。特に、クラブ創設の時に、一番最初に目を付けた部員を、ずっと気にかけていました。かつての自分を見つけたからと言うことで」
私は、愕然とした。彼の顔に、あの人と同じような影が差す。
「でも……志半ばで、病死しました。最期を看取ったのは、僕です」
「…………」
「遺言があります。『私が東京へ送り出したあの子に、よろしく。私は、空から見てるから』と」
「先生……」
「でも、空から見ているだけでは心許ないと思って……僕は、マネージャーを志すようになりました。姉の意志を継ぎたくて。姉のように要領は良くなかったので、時間はかかりましたが……」
彼が、じっと私を見つめる。
「あなたの役に、立てる。立ちたい。そう思って、頑張らせていただきました」
「ずっと……そばにいて、くれたのか……」
先生が。先生の意志を継ぐ者が。私と共に歩んでくれていた。
だから、私はこんなに成功できたんだ!
なんてことだ。なんて巡り合わせだ。なんて……なん、て……
「と、ところで、どうして『頑張らせていただいた』って、過去形なんだ? これからも、君は……」
その時、一陣の突風が舞った。
「うわあっ!?」
ごうっと、桜吹雪が舞う。視界が遮られる。
その、桜色の世界の中……小さな影を見た。
マネージャーではない。もっと小柄な、女性の影。
長い髪。伸びた背筋。花びらをそのまままとったような、桜色のスーツ。
「先生!!」
叫んだ。ところが、はらりと花びらが収まったかと思うと、その先には、不思議そうなマネージャーの顔があるだけだ。
「どうかしましたか? そんな、取り乱して」
「え? あ、ああ……。あれ? 今、確か……」
幻? それはそうだろうが、あまりに鮮烈に過ぎる。思い出の中の彼女が抜け出してきたようだった。不思議がっていると、マネージャーが、なんだか、今、私が幻を見たのを知っているかのように言う。
「さっきの思い出話を聞けて、満足でした。これで、安心してお別れが出来ます」
「お別れ? おい、どういうことだ?」
驚き、訝しむ私に、彼は、改まって向き直って、きちんと姿勢を整えた。
「一身上の都合で、今の仕事を最後に、マネージャーの職を辞めることになりました。この業界自体から、足を洗います」
淡々とした調子に、私は、今度は別の意味で愕然とした。彼が離れていくだって? この彼は、私の二番目の恩人であって、これからもその力が必要なのに。
「そんな……。私のマネージャーは、君以外に誰がいるって言うんだ!」
必死になって引き留める。だが、彼の決意は固く、静かに頭を振るだけだ。
「大丈夫ですよ。もうあなたは大丈夫。この先、誰とやってもうまくいきます。姉と僕が保証します」
「そ、そうか……?」
幻の中で見たあの人と、面影が重なる。
「楽しかったですよ。あなたに会えて、僕は幸せでした」
穏やかに笑う笑顔まで、あの人のようだ。私は、背を向けようとする彼を呼び止めた。
「ちょっと待った! まだ締めるな! そうだ、最後に一杯やろう! 桜の下で、三人で飲もう!」
「飲もうか」
振り返っての、気さくな返事。きっと、あの人を飲みに誘ったら、こんな風に応じるだろう。そんな声だった。
――了
花見酒 不二川巴人 @T_Fujikawa
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