第8話 託された夢
季節は巡り、翌年の春。僕は、中学を卒業することになった。
正直、卒業式がこんなに切ないものだとは思っていなかった。
クラブの仲間とは、同じ高校で会える奴もいる。ただ、もう、先生と会えなくなる。そのことが、ただ寂しかった。まだ満開とは言えない桜の木を見上げて、僕は、ひどく感傷的な気分にとらわれていた。式が終わり、校庭にたたずむ。卒業証書の筒が、変に重く感じた。
「卒業おめでとう」
いつかのように、背後から声が聞こえた。「あっ」と振り向くと、そこには先生がいた。
「おめでとう。感想は……聞くまでもないか」
「え、まあ……。ありがとうございます」
気恥ずかしさが湧き上がって、僕は、気の利いたことの一言も言えずに黙り込んだ。だだをこねたところで、卒業が取りやめになるわけもないし、じゃあ、仮に本当にもうしばらく、この先生と共に過ごせたとしても、それはきっと何かに申し訳なくて、とてもじゃないけど、今まで通りに過ごせないだろうと思う。
「個人的なことで、呼んだんだけどね。黙って笑って君を送り出すのは、もう終わったから」
「えっ?」
「これ」
先生が、一枚の紙切れを僕に差し出した。それは、新聞の切り抜きだった。ざっと目を通す。
「オーディション……?」
そう。それは、ある劇団が、広く一般から役者を募集する、オーディションの募集要項だった。
「どうして、これを僕に?」
「決まってるよ。君に、どうかなと思って。合宿の時に言ったでしょ?」
先生が、ふっと笑う。いつも通りのようでいて、どこか影のある笑みだった。
「東京だから、かなりの思い切りがいるとは思うけど……思い切って欲しい。だって、君は私が一番最初に目を付けた子だから。がんばれると思う」
「…………」
真面目な目だった。真剣な、嘘やからかいのない、もしかすると、すがるようにさえ見える目だった。
「夢を、託そうかなって」
「夢……」
「どうとらえるかは、君の自由。うるさい先生の、とんでもない無茶だと言うなら、それでいいから」
「そ、そんなことは!」
この先生の、こんな顔は見たことがなかった。先生としてのものではなく、プライベートなものだ。それが、直感的に分かった。
「これ、いただきます」
「うん。考えてみて。それから、これもあげる」
先生が、一冊のノートを取り出した。表紙に、『演出ノート』と書かれている。ぱらりとめくると、あの、文化祭の時に演じた脚本における、注意点や重要事項、伝えたいことの要点などが、ぎっしり詰まっていた。
「お守り……に、なるかな」
先生が、少し照れた。本当に初めて見る、純粋に愛らしい顔だった。きゅうっと、胸が締め付けられた。地に足が付かない感覚がして、文字通り、舞い上がった。まだ、実際に挑戦もしていないのに、華やかな気持ちになった。そこを、軽く戒めるように先生が言う。
「そんな簡単なものじゃないって、分かってるよ。でも、やってみないと、何事も始まらないから」
「そう……ですね」
「気楽に言うとさ、『当たって砕けろ』ね」
いつものように、あはは、と先生が笑う。でも、その目は笑っていなかった。
「それじゃ」
ひらひらと手を振って、先生が去っていく。
僕は、ノートと切り抜きを持って、桜色の後ろ姿を見送った。
それから僕は、先生が紹介してくれたオーディションを、受けてみることにした。あまりに突拍子もないことで、当然のごとく、親にはかなり反対された。そこを何とか粘り強く言いくるめ、意を決して、東京行きの新幹線に飛び乗った。
早くも緊張する中、先生が『お守り』と言って渡してくれた、演出ノートを移動中に読んでみた。見慣れた丁寧な字で、事細かに、各シーンの指示や、あるいは、希望、果ては迷いといったものが、克明に記されていた。数ヶ月前の文化祭に至るまでのことが、はっきり鮮明に思い出される。同時に、僕たちも大変だったけど、先生もそれ以上に大変だったことが、ありありと読み取れた。
僕は、そのノートに、確かな勇気を貰った。自信なんて、元々無い。ただ、言われた通り『当たって砕けろ』の気分になった。それは、先生に出会う前から考えてみれば、まさに劇的な変化だった。
そこで、ノートの最後のページに、メモが挟まれていることに気づいた。新しいペンの跡で、こうあった。
『部員名簿の連絡先に、結果を聞かせて』
僕は、またも舞い上がった。そうだ。先生は自分を見込んで、機会を紹介してくれたんだ。思い切りやって、それが良くても悪くても、褒めてもらえなくても、ねぎらわれなくても、正直に報告しよう。それが僕の義務だ。ノートを持つ手に、力がこもった。
やがて、オーディションの本番が来た。審査員の前で、必死に自分をアピールした。後悔の無いようにやった。周りから浮いているように見えようが、やり過ぎぐらいでちょうどいい。その通りに。
すがすがしい気分で帰途につき、数日が経った。
高校の入学式がもうすぐといったところで、一通の手紙が来た。それは、オーディションの合格通知だった。息子の気まぐれとしか見ていなかった両親も、めいっぱい驚いた。この要請を受けるためには、まずは養成所に入る都合で、東京に引っ越さなくちゃいけない。でも、僕の心は決まっていた。僕は、はやる心で、先生に電報を打った。『サクラサク』と。同時に、地元の高校への入学をやめる手続きをした。
年齢の問題なんかもあって、一人での東京暮らしには色々問題があった。そこは、親戚のつてをたどってなんとかしてもらって、僕は、本格的な役者としての第一歩を踏み出した。
先生とは、月に一度ほど、手紙で連絡を取りあった。僕からは、本格的な修行の辛さ、あるいは楽しさ。または、東京暮らしの苦労など。先生は、演劇部のその後、普通の授業のことなど、色々とやりとりした。でも、僕の忙しさが本格的になってくるにつれ、先生との手紙も、数が減っていった。あれだけ恩がある人なのに、デビューから三作目の舞台を踏む頃には、めっきり疎遠になっていた。先生がその後どうなったのか、僕に知る手だてはなかった。
……出会ったときに覚えた憬れの気持ちは、結局直接言えないままだった。
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