一章-04 「俺は、灯火朧。職業・死神だ、よろしく」

 俺は家の裏口から逃げ出して、当てもなく走り出した。

 もうすっかり陽が暮れて、辺りは真っ暗になっている。頼りない街灯が、ぱちっ、ぱちっ、と時折明滅する。

 それが恐ろしくて、俺は身を震わせた。どうして街灯が消えかかっているんだ、行政の怠慢じゃないか。そんなことを思って気を紛らわせるしかない。

 本当に当てなんてなくて、どこに行けば良いか判らない。ぱっと思い浮かんだのは、先ほどまでいた公園だった。

 あの公園ならば、例の少年――朧と言ったか――がまだいるかも知れない。もう随分と時間が経っていたけれど、僅かな希望に縋らないわけにはいかなかった。

 走りながら俺は、ひそりと自嘲の笑みを浮かべた。息が苦しくて、顔が引きつる。もう、笑っているのか引きつっているのかも判らない。

 生きづらい人生だった。いっそ死んだ方が良いのじゃないかと思ったことなんて、数え切れないくらいだ。

 薄氷の上を歩むような人生だった。恐る恐る、いつ割れてもおかしくない、薄い薄い氷の上を歩いていた。

 俺の首には縄がかかって、俺が氷を踏み抜くときを今か今かと待ち構えているのだ。その縄は人の悪意だったり、善意だったりするのだけれど。

 悪意も善意も同じことだ。俺にとっては、何もかも。恐ろしい脅威でしかありえなかった。

 悪意のある人の噂話も。例えば、善意からくる人の忠告や助言も。俺を傷つけて、傷つけたことすら無頓着に、俺の上を通り過ぎていく。

 自分って生きていて意味があるのだろうか。

 例えばそんなことを呟けば、きっと善意の第三者は否定してくれるのだろう。死んだら何もかも終わりです、頑張って生きましょう、生きていれば良いことありますよ――。

 うるさい、と思う。うるさい、何もかもうるさい。

 結局のところその善意の第三者とやらは、自分はのうのうと安全な場所に立って、こちらを見下ろしているだけなのだ。安全圏にいて、こちらを眺めているだけ。

 助けてくれるどころか、腕を差し出してくれることすらない善意の第三者などくそ食らえだ。彼らが差し出していると思い込んでいる命綱とやらは、結局はすぐにぷつりと切れてしまう蜘蛛の糸でしかないのだから。

 そんなもの、悪意と何が違うのだろう。自分が優位に立っていることに浸って、上から目線でもの申しているだけだ。

 悪意も善意も、同じように痛いばかりの人生だった。死にたいと思ったことなんて、数え切れないくらいだ。

 それでも。

「し、死にたくねえよぉ……」

 情けない声は、掠れて夏のむわっとした空気に消えた。死にたくない。どんなに死んだ方がマシな人生だって、死にたくない。

 いざ本当に命の危機に出くわせば、生きたいと願ってしまう。そんなありがちな、どこにでもいる、情けない人間なのだ、俺は。

 いっそ死の瞬間まで斜に構えていられたら良かったのかも知れない。そんなだったら俺は、この年まで生きて来られなかっただろうけれど。

 考えれば考えるほど自分の情けなさを痛感して。頭の奥がかっと燃えるようだった。

 死にたくない。どんなに無様だって、生きる意味がなくたって、死んで喜ばれるどころか話題にすらされない人生だって、死ぬことは恐ろしい。

 例えば本当に死にたいのなら、男を待ち構えることだってできるだろう。悠然と呼び鈴に答えることだって。けれど無理だ、俺にはそんな恐ろしいことはできない。

 恐ろしい。ただ、死ぬことが恐ろしかった。

「誰か、誰か、助けて――」

 言いかけて、俺は自嘲した。俺に助けてくれる誰かなんていない。両親だって、できの悪い俺を疎んじている。

 自業自得だった。俺の人生は、俺の自業自得なのだ。

 それでも、死にたくはなかった。あの男が追いかけてきているような気がして、振り返ることすら恐ろしい。

 死にたくない、と思うことを許して欲しかった。どんなに生きることに価値がなくても、死んだほうがマシな人生でも。

 誰に何を願っていたのかは、自分でもいまいち判らないけれど。

「――はぁ、はぁ……」

 息を切らしながら、俺はようやく公園に辿り着いた。公園に駆け込んで、そこそこの広さの公園を見回して、影一つないことに落胆する。

「ぁ……」

 気が、抜けた。気が抜けたら腰も抜けて、俺はずるずると座り込んだ。砂利の感触がズボン越しの尻に刺さる。

 もう駄目だ、と思った。結局俺は誰にも助けて貰えない、こんなところで死ぬ運命なのだ。

 だってほら、――聞こえる。

「――だね……」

 聞き覚えのある声。一度だけ聞いた、あの男の喋る声。

 特徴のない声だった。なのにねっとりと、耳の中にこびり付いて、かき回す。

 不快感と不快感と不快感を煮詰めたような、声が。――俺を呼ぶ。


「美味しそうだね」


 俺はぼんやりと、男を振り返った。いつの間にか、後ろにいる。それを俺は判っていた。

 声と同じように、取り立てて特徴のない顔だった。スーツを着ていることも相まって、街の雑踏の中にいたら誰も振り返りもしないだろう。

 けれど、知っている。人の良さそうなその顔で、口が、口裂け女みたいにぱっくりと割れることを。

 あぁきっと、ここで食われてしまうのだ。俺のそんな考えを肯定するように、男が、

 、と口を開けた。

 もはや悲鳴もでなかった。呆然と見上げる。めりめりと、めりめりと、口を開いていく男を見上げる。

 男の口の中には三重で鋭い歯が生えていて、それがなんだかサメ映画みたいだと、暢気な感想が頭をよぎった。

 男が、身を屈める。それを呆然とみていた途中で、ふと視界の隅を動くものがあった。

 下だ。思わず男から目線を逸らして、下に眼を向ける。

 にゃあ、と鳴き声。猫だ、と思った。今日何度も見た、あの黒猫。思わず、黒猫と男を見比べる。

 男は興味の対象が移ったのか、口を開けたまま、猫に視線を向けた。男が下に向けて手を伸ばす。まずい、と思う。

 考える間もなく、なんて格好を付けられるような状況ではなかった。思わず俺は、地面に這いつくばって抱え込むように猫を庇っていた。

 きっと、男の手が俺の背に触れるだろう。そのときが俺の終わりだ。ぎゅっと眼を瞑る。

 背中が、指に――触れなかった。

「はいこんにちはー、おじさん。いや、こんばんはかな?」

 そんな場違いに軽快な声が、場の空気を切り裂いたからだった。俺は状況が判らず、身を起こす。

 いつの間にか、朧が俺と男の間に割り込んでいた。俺を庇うように背を向けて。

 背を向けられていても判った。きっと朧は、笑っている。


「俺は、灯火朧。職業・死神だ、よろしく」

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ニートの俺が死神助手になった件 伽藍 @garanran @garanran

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