一章-03 どうせ誰も助けてはくれないのだ。
俺の家は、公園から徒歩十分のところにある。元のバイト先の寿司屋がそこからさらに徒歩五分、合計徒歩十五分。
働く側にとって理想とも言える、徒歩圏内の仕事ですらクビになったのだ。これからどうしよう――などと、考えている場合ではない。否、いずれは考えなければいけないのだけれど。
それよりも今は、例の男だった。かぱりと開いた口を思い出せば、ぞっとして身震いする。
家に帰りながら、後ろを振り返る。一度角を曲がったから、もう公園もそこにいる朧少年も見えなくなった。
「……べ、別に何でもない」
自分に言い聞かせようと、俺はそう呟いた。そう、これくらいは何でもない。今までだって、これくらいのことはあったじゃないか。
逃げてしまえば、それで終わりだった。人間に覚えられないのと同じように、怪異――朧少年曰く、『鬼』――だって俺のことを覚えていないのだから。それくらい、俺という存在には価値がないのだから。
もう一度角を曲がって、近所の家を通り過ぎる。俺が心の中で薔薇屋敷と呼んでいる家だ。ほんの一ヶ月前は垣根に薔薇の花が満開で、それはそれで綺麗だったけれど、薔薇が散ったあとがどうにも汚らしくて毎年好きになれない。
その石で出来た門柱の、上に。一匹の、猫がいた。
黒猫だ。にゃん、と上機嫌に鳴いている。その猫に見覚えがある気がして、俺は猫を凝視した。端から見れば、不審者丸出しだっただろう。
見覚えがあるも何もない。先ほど公園で見かけた猫だ。先ほどは気づかなかったけれど、尻尾が鍵のようになっている。鍵尻尾だ、と少しだけテンションが上がった。祖母が昔、鍵尻尾は幸運を運んでくるんだよと教えてくれたのだ。
全体的にずんぐりとしていて、フォルムが丸い。触ったら気持ち良さそうだった。
その、猫が――。
暢気に欠伸をしていたと思ったら、じっとこちらを見下ろしているのだ。
表札のかかっている門柱はそこそこの高さがあったけれど、手を伸ばせば届きそうだった。そっと猫に手を伸ばしてみる。
もう少し、もう少し。逃げようとしない猫が手に触れそうになった、そのときだった。
猫が、口を開くのが見えた。まるで人間みたいに。
「後ろだよ」
「――えっ」
思わず手を引っ込めたときには、猫はその場からするりと抜け出して、俺の足を掠めるようにしてから公園とは反対の曲がり角へ歩いて行ってしまった。たとえ走っているんじゃなくても猫という生き物に追いつけた試しなど一度もないから、もう追いつけないだろう。
「後ろ……?」
何の話だ。いや、まずは猫が喋ったことを驚くべきか。
今までの経験と、今日一日でだいぶいろいろなものが麻痺していた俺は、猫に言われるまま公園の方向へ視線を向けた。途端、それが見えた。
何か。答えは簡単だ、口のぱっくりと裂けた、三十代ほどの、男――。
「ひ、ひいぃっ!」
叫んで、俺は腰を抜かしてどんと尻餅をついた。その瞬間には、男は姿を消している。
見間違いか。いや、そんな訳がない。俺は這うように家の方に体を引きずり、ようよう起き上がった。
「何だよ、何だよ、何なんだよ!」
喚き散らしたところで、誰が答えてくれるでもない。自分があまりにも異様に見えているだろうことに思い至って、俺は慌てて続く罵声を飲み込んだ。
落ち着け、落ち着け。どうせ誰も助けてくれない。自分で何とかするしかないのだ。
家に帰ろう、と思った。家には俺が買い集めた怪しげな呪具やら、塩やらが置いてある。所詮眉唾だし効かないかも知れないけれど、何もなく無防備に突っ立っているよりはよほど良い。
泣いたって喚いたって、どうせ誰も助けてはくれないのだ。
俺は体を引きずるようにして、家に戻った。平日ど真ん中、当然のように両親は働きに出ている。共働き夫婦のろくに働きもしない馬鹿息子、それが俺の立場だった。
俺が生まれたときに買ったらしい、築二十年の家の扉を開ける。取り立てて特徴のない、他の近くの住宅とまとめ売りに出されていたような一軒家だ。
玄関を入って、すぐ左が階段。その階段を上がった先に、俺の部屋がある。
迷いに迷って、靴を部屋に持って行くことにした。今の状況で、何が起きるか判らないからだ。
狭い我が家だが、その狭さが落ち着いた。ベッドに飛び込んで、どこかの寺だか神社だかで買ったお札を握りしめる。
何もないよりマシだった。こんなものが効いた試しは、一度もないけれど。
しばらく、布団にくるまって震えていた――あんなに狙いを定めたように追いかけられたことがないから、正直どうしたら良いか判らなかった。
金髪の少年を思い出す。そういえば、見かけたら教えてね、とか何とか言っていた。
「連絡先知らねーよ、畜生……」
こんなことならば、訊いておけば良かったのか。否、人見知りの自分に初対面の人間に連絡先を訊くなんて芸当が出来たとは思えないのだけれど。
俺は途方に暮れて、――途方に暮れて、しばらく眠ってしまっていたらしかった。
俺をたたき起こしたのは、玄関の呼び鈴の音だった。
――ピン……ポーン……
奇妙に間延びした音が、家に響き渡る。俺はびくりとして、ますます布団を被った。
しばらく待つ。何も起こらない。二度目の呼び鈴も鳴らなかった。
ややあって、冷静な思考が戻ってきた。もしかしたら通販か、普通のお客か何かかも知れない。何も覚えなんてないけれど。もしかしたら、両親のどちらかが、鍵を忘れたのかも。あのしっかり者の両親に限って、そんなミスをするとは思えないけれど。
どうしよう、と思った。出るべきか、出ざるべきか。けれど恐くて、どうしても恐くて、玄関に近寄る気にもなれなかった。
そうだ、と思いつく。この部屋の窓からは、体を伸ばせばギリギリ玄関が見えるのだった。本当はそれすら恐いけれど、確認しないわけにはいかない。
そう思って立ち上がった、そのときだった。
――ピン……ポーン……
「ひいっ……」
図ったようなタイミングで二度目の呼び鈴が鳴って、俺は身を竦めた。やはり誰かが困っているのかも知れないと、思い直してベッドから出る。
あいにく、部屋の電気は煌々と付けてしまっている。居留守はできなかった。
俺はそろりと窓を開けて、身を乗り出す。そうして下を見て――言葉を失って、慌てて身を隠した。
そこに、いた。スーツ姿の、一見普通のサラリーマンのような三十代の男。
けれど俺は、既に知ってしまっている。男の顔が、冗談のように、口裂け女みたいに、ぱっくりと開くのを。
――ピン……ポーン……
三度目。段々と間隔が短くなっている気がする。
もはや一刻の猶予もなかった。俺は持ち込んでいた靴を履いて、家の裏口から脱出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます