第七話~音楽教室、閉鎖

 退会の連絡を電話で行った松宮和人まつみや かずひとの母が、茉莉花の担当する教室へ挨拶に来た。

「小倉山荘」のおせんべいの詰め合わせの包みを取り出した松宮さんは

「すみません、先生。急に」

と、頭を下げた。

「はい、驚きました。何かありましたか」

茉莉花が声をかけると、松宮さんは申し訳なさそうにうつむいた。

「いろいろありまして。あとレッスンが1回残っているんですが、もう和人も来られないので、私だけ挨拶に来ることになってすみません」

「松宮さん、まさかうちの教室が閉鎖するという話を聞いて?」

松宮和人の母は驚いたのか、目を見開いた。

「え、そうなんですか?!知りませんでした」

これには、茉莉花の方が驚いた。

「ご存じなかったのですか?!」

「はい、今はじめて」

 松宮さんは嘘をついているようには見えなかった。和人くんの退会の理由は、音楽教室閉鎖とは全く関係のない家の事情だったのだ。

「実は、主人の父が1週間前に脳梗塞で倒れたので、主人の実家のある福井に帰って家業のお寺を継ぐことになったんです」

 松宮さんのご主人はサラリーマンだが、ご主人の実家がお寺で、ご主人も得度は済ませているのだそうだ。

「もともと、和人が高校を卒業する頃に主人が継ぐという話だったのが早まって。

主人は急いで来なくていいと言ってくれたんですが、福井で高校受験することになるなら、動くのも早いほうがと思いまして」

閉鎖が理由ではないと知って、茉莉花は胸をなでおろした。だが、松宮和人が教室を去ることに変わりはない。

「カズくん、西村先生のレッスンは…」

「ええ、西村先生にもお伝えしました。残念がっておられて、西村先生の知り合いの先生を紹介していただきました。なんとかピアノは続けられそうです」

それはよかったと思った。

「本当は今日、和人もまりか先生に挨拶したいと言っていたのですが、熱を出してしまって」

賢そうな瞳の中学生の男の子の顔が目に浮かんだ。几帳面な子で、演奏にもそれが出ていた。合唱コンクールの伴奏で伴奏賞を取ったと喜んでいた。福井でもがんばってねと言ってあげたかったが、それはできそうにないのが寂しかった。


 正式に音楽教室閉鎖の連絡が生徒側に伝えられた。ただ閉鎖という案内文が郵送されただけで、生徒の行先などは全く未定だったため事務所にも電話が鳴り響いた。主に苦情と、行先についての質問だ。だが、事務員は答えられず連日の電話にうんざりして欠勤する事務員が出た。

 もともと音楽教室担当の事務員は2人で回していたのだ。だが行先が分からず不安がる保護者から、直接関係ない英語教室担当の事務員は何も答えられなかった。

茉莉花も、保護者に

「どういうことなんですか」

と詰め寄られたが、自分もなぜ錦城堂書店が音楽教室業務から撤退するかという肝心な話は聞かされていない。その話を告げると、怒りに満ち溢れていた保護者たちも肩を落とした。

 書店本部にまで苦情電話があり、事情を知らない事務担当が病んでしまった話も聞いた。収入を元々あまり求めていなかった年配の定年間近の講師たちはいろいろ理由をつけて早々に退職してしまい、退職講師の担当教室では行き場のない生徒たちが右往左往していた。とはいえ、茉莉花も、ほかの講師も、教室自体が閉鎖になるのに自分の行き先を決めるのに精一杯で、退職講師の生徒の面倒まで見る余裕はなかった。


「村越先生」

 事務所から出てくると、営業の尾関が声をかけた。

「村越先生は、音教が閉鎖したらどうされるんですか」

「まだ、何も決まってないんです。どうしたらいいのか、頭がついて行ってなくて」

「そうなんですか。高島先生は、自宅で本格的に開業するっておっしゃってました」

「開業?」

 モデルのように美人で、華やかな雰囲気の高島夕菜たかしまゆうなの姿を思い浮かべた。大阪の有名音大の1つ、関西芸術大学の声楽科を出ており、芸術家協会の会員にもなっている高島夕菜は、元々ピアノ科志望が声楽に転向したこともありピアノもうまい。茉莉花と同じ年、同期で、結婚したのは25歳だが不妊治療をして5年前に出産した。かなりの美人なのに、威勢のいい関西弁のおばちゃんキャラがギャップで受けている。

 子どもの幼稚園の役員もやっており、そちらのルートで既に幼児の生徒が2人来ている。「美人だけど気さくなおばちゃんキャラ」の夕菜先生は、子育ても仕事もそつなくこなしているようだ。彼女ならそこそこ成功するだろうと、茉莉花は思った。


「村越先生は、ピアノの先生を続けたほうがいいと僕は思います」

尾関の訴えに、茉莉花は驚いた。まだ続けるともやめるとも、茉莉花自身は決め兼ねていた。何しろ、大学を出てからピアノ教師しかやってこなかったのだから、やめて何が出来るのか、できないのかもわからなかった。

「続けるって、ほかの楽器店の講師にとか?」

「そういうご希望が?」

尾関に尋ねられ、茉莉花は頷いた。

「職場は変わっても、経験がある仕事の方が」

「それなら急いだほうがいいです。はっきり言うと、年齢制限ぎりぎりです」

「はっきり言うわね」

「事実です。僕も、別の楽器店で講師募集をしていないか二、三、あたってみましたから。30代後半以上のキャリア持ち講師って使うほうからしたらやりづらいです。自分のスタイルがあるということは逆にいえば新しいことを取り入れづらい。あくまで、雇い主の視線ですけど」

誰かが尾関に泣きついたりしたからだろうか、そんな情報を尾関が持っているとは思わなかった。

「村越先生は指導力あると思います。でも多分…今更別の楽器店講師に収まってうまくいくとは思えないんです」

「尾関くんはどうしてそんなことを」

「今迄錦城堂うちでやっていたやり方を一から変えてくれと言われてすぐに対応できますか」

茉莉花は黙り込んだ。楽器店講師の仕事などどこでもさほど変わらないだろう、と思っていたのだ。

「指導者を続けたいのなら、高島先生のような自宅での開業という方法はあります。ですが」

尾関は言葉を切った。

「個人教室って開業するのは簡単っぽいけど、うまくいかなくてやめちゃう人も多いんですよ」

あまりにもあけすけに尾関が言うのを聞いて、茉莉花は目を丸くした。

「うまく、いかない?」

錦城堂うちを退職して、自宅で個人教室を開いた講師さんは今迄にも何人もいます。ただ、その中でずっと開業していられる先生はごく僅かなんです。それくらい、厳しいです、現実は」

尾関は息を吐いた。

「思い切って別職種に応募するのも、一つの手、ですけどねえ。まあ使う側としては使いづらいですよ」

尾関の言葉で、茉莉花は初めて現実を見せられた気がした。


 閉鎖の日は刻一刻と迫っていた。茉莉花は自分の身の振り方も、担当している生徒のことも、考えてもいい結論が出ないままいたずらに日々をすごした。

 見切りをつけて別の大手教室や個人教室へ替わるもの、やめてしまうもの、もいたが、茉莉花には手を差し伸べる余裕はなかった。

 手の中にある、キーホルダーのついた鍵の束を茉莉花は握りしめた。最初に担当を始めてから6年。キーホルダーは退職した前任者がつけていたものをそのまま使っていた。茉莉花は封筒にキーホルダーを入れ、封をして常町ビルの管理人室のポストに封筒を入れた。

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がけっぷちラプソディ さきぱんだ @sakipia-panda

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