鬼
小谷灰土
鬼
チヨは夜中に目を覚ました。真夏の虫が鳴いていた。
目を覚まして、しばらく天井を見つめたのち、睡眠薬を飲み忘れていたことに気がついた。まる二年、毎晩飲み続ける習慣を続けていても、たまにうっかり忘れてしまうことがある。年のせいばかりではない。忘れるという行為は、ふがいない自分に対する無意識の復讐でもある。
夫と二人三脚で切り盛りしてきた場末の居酒屋も、階段を踏み外して腰を強打して以来、奥に退くことが多くなった。狭い敷地に修繕と建て増しを重ねた店舗兼自宅は、階段が細くて急だった。
身体が思うように動かなくなり、薬に頼る頻度が増してからは、ダメだとわかっていても夫に辛く当たるようになった。平日の夕方に手伝いに来てくれるようになった知人の娘が、主人と上手く連携しながら忙しい店内を立ち回り、接客しているのを見ると、穏やかな表情とは裏腹に、いらいらさせるものが身のうちに渦巻くのを感じた。
こうして夜中に目覚め、天井板を眺めていると、木目が人の顔に見えてくる。手形らしきものも浮かび上がり、一旦そうだと思い込んでしまうと、それにしか見えなくなる。そんな気分になるのが嫌だから、夜中に目覚めないよう薬を飲んでいたのに。日ごろからうっかりしていることが多くて、元気な頃でも夫によく注意されていたものだが、こんな時こそ自分の性格を呪わしく思うと同時に、ざまあみろとも思う。
忘れるということで思い出すのは、幼い頃に故郷の祖母が話してくれたイスワラ
チヨにとって普通であっても、周りにとって普通ではないことに気がついたのは、周りの人間が見えないものを見えると言った時の周囲の反応だった。以来、気味が悪がられるので何も見えないふりを続けていたら、大きくなるにつれて本当に何も見えなくなった。
イスワラ
ある村人が山で柴刈りをしていると、辺りに霧が立ちこめて眠りこける。するとその村人の夢の中に鬼は出現し、お前が善行を施した思い出を頂こうと言って、二つ折りにした懐紙を、袋に入れて持ち去ってしまう。村人は目を覚ますと、まるで人が変わったようになり、村に帰ってからは意地の悪い守銭奴となって、近隣の者を困らせるようになる。
他方、夢の中で籠を盗まれたある者は、籠の作り方を忘れて出稼ぎに行けなくなり、夫の衣服を盗まれたある者は、夫の記憶一切を喪失して、離縁せざるを得なくなった。村人たちはその鬼の存在を知るや、恐れ慄いた。
こんな真夜中に、眠らなければならない焦燥を募らせてるおりに、人の顔に見える天井を見ながらイスワラ鬼の話を思い出すのは、どこか根源的な不安を煽るものがあった。耳を澄ますと、押しつぶされた沈黙が呻き声に変ずるような気までして、やおら恐怖がつき添う。
チヨは重い身を起こして、ベッドの端に腰かけた。扇風機が静かに羽を回している。サイドチェストには、白湯の入った小さなやかんと、湯呑みがあった。湯呑みには埃が入らないよう、蓋がかぶせてある。チェストの引き出しから薬箱を取りだして、睡眠薬を探した。飲み始めの頃は、一錠をさらに半分にしたものを飲んだだけでぐっすり眠れたものだが、今では一錠飲んでも効果が薄く感じられるほどだった。
やかんの把手に手をかけた時、何やら人の声がはっきりと聞こえた。気のせいに思えた呻き声は、現実に聞こえる声のようだった。チヨはそのままの姿勢で、しばらく動かずにいたが、それ以上の音は聞き取れなかった。やかんを持ち上げる。やかんの水は、ほとんど入っていなかった。
長く垂らした電灯の麻紐を引っ張り、部屋を明るくした。豆電球の弱々しい明かりに支配されていた寝室の邪気が、それで追い払われた。だが夢うつつの境地から一転して、はっきりとした現実の感覚に引き戻されても、今度は現実的な利害が頭をもたげ始めるだけで、チヨは苦笑するほかなかった。これではどちらに転んだって、同じようなものではないか。
イスワラ鬼の話は、ひとりの少女の活躍によって幕を閉じる。少女は村の
やかんを手にしたチヨは、意を決して立ち上がる。寝室のドアを開けると、突き当たりの階下から、ぼんやりとした光が漏れていた。廊下の途中まで来て、主人の寝室の引き戸に耳をそっとつける。静寂が耳を聾した。思い切って開けると、布団の敷かれていない六畳間の畳の上に、窓から差し込む月の光が落ちていた。夫が階下にいることは、ほぼ間違いなさそうだった。だが、先に進むべきか否か、チヨは迷った。心臓は早鐘を打ち、自分が何歳も若返える心地がした。
少女がイスワラ鬼の棲む山頂の洞窟にたどり着いた時には、八つ手の葉はボロボロになっていた。もはや日も暮れ、寒い時節でもあるので、少女の小さな諸手は真っ赤にかじかんでいた。そうこうしているうちにも、眠りの霧は彼女を取り囲もうと、どんどんその距離を縮めてくる。時間は差し迫っていた。息つく暇もなく、少女は洞窟に足を踏み入れた。洞窟の中は、外の闇よりも一段と暗く、身体の芯から凍りつくような寒気が、辺りに満ちていた。
先に進むと何があるの、と幼き日のチヨは思った。
祖母は穏やかな表情を、こちらに向けている。おかっぱのように切り揃えられた祖母の真っ白な髪は、チヨが手に触れたいと感じる美しいもののひとつだった。雪のように冷たい色。その頃はまだ、目に見えるものすべてが不可思議な魅力で輝いていた。チヨは熱心にそれらを見逃すまいとした。昔話の世界も、この世と地続きであって、草むらの奥の洞穴にも床下の影にも、お話のなかにあるような形にならざるものの存在を、肌身に感じ取ることができた。穏やかにこちらを見つめる祖母の瞳には、暗闇の洞窟をひた走る少女の姿が見えた。
チヨの身体の周りに、うっすらとした霧がたちこめる。しだいに濃くなっていき、祖母の姿もやがて霧に飲まれていく。耳には少女が息せき切って、洞窟の闇を一心に駆け抜ける声が聞こえてきた。洞窟内では少女を寄せつけまいと、さまざまな音が威嚇するように反響している。ガタガタと何かが当たる音、木の軋むような断続的な鋭い響き。獣の呻きに似た、地面を震わす野太い声。反響する少女自身の荒く激しい息遣いは、もはや自分の声とも思われなかった。それでも果敢に走るしかない。チヨの胸の早鐘も、それに呼応して大きくなる。
チヨは階下に何があるのかを、すでにはっきり感じ取っていた。それはもともとわかっていたことで、予測のできたことだった。日ごろ身のうちで黒々と渦巻いていたものは、女の姿となって形をとり、主人の久しく見なかった笑い方を目にしたときから、それらは無意識下で結びつけられていた。
一階に通じる階段を下りた。なるべく音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりと洞窟の冷たい地表に足裏を合わせるように歩を進める。店のフロアは、下りてすぐの洗い場を抜けた、カウンターの向こうにある。薄暗いフロアのテーブルの上で、不気味な呪わしい音をたてて、うごめく二つの影が見える。チヨは階段下の物陰に隠れ、目を見開いてその影に見入っていた。その目は幼い頃に世界を眺めていた、あの熱烈な眼差しに似ていた。
少女は洞窟の一番奥に辿り着き、鬼のねぐらを目の当たりにする。ねぐらには大きな竈があり、そこに焚べられた薪の炎で、春の日和のように暖かかった。鬼は藁床の上で、ふんぞり返っていびきをかいていた。
ここで明らかになる鬼の弱点とは、誰かの夢に侵入するためには、鬼自身が眠りにつかなければならない、ということであった。そのために鬼は、あたり一帯に眠りの霧を撒き散らし、自身は一日中、藁床のねぐらでいびきをかいていた。
だが、少女にとって最も不気味に思われたのは、鬼は両目を閉じて眠っているものの、眉間にある第三の目だけは開いていることだった。少女が右に動くと、その目も右に動く。左に動くと、左に動く。背筋に冷たいものが走った。と、思う間もなく、鬼はもぞもぞと動きはじめる。少女は、鬼が完全に起き出してしまわないうちに、燃えさかる薪の一本を素早く引き抜くと、鬼の第三の目をめがけて、力一杯振り下ろした。鬼の悲痛な叫びが、洞窟じゅうに響き渡った。
チヨは目の前にいる鬼も、悲痛な叫び声を上げるのを聞いた。それは明らかにお話の中の鬼の声で、獣の雄たけびをあげた後、もうひとつの影の上に力なく覆いかぶさった。二つの影はひとつの塊になり、微動だにしなくなった。
眠りの霧は、今やすっかり晴れ渡っていた。だが、突き刺すような寒気だけは周囲にまだ残っていて、チヨの身を容赦なく襲った。真夏の虫の音が、急速に耳に入り込んでくる。カウンターの内側で身を潜めるチヨは、全身を寒さで震わせながら、ガスの元栓を全開にした。眠りの霧が再び充満するなか、その手は鬼に振り下した薪を、必死に探し求めていた。
了
鬼 小谷灰土 @door-door
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