伊集院佐智子は学友である塚本美津江の後ろに密着し、その背をしっかと握りしめ怯えた。


親友である美津江を「みつ」と呼び、ふたりは常に一緒に遊ぶ仲だ。みつは面白い子だった。軍人家庭に生まれ育ったわりに奔放ほんぽうな性格で、それでいてハイカラだった。


佐智子はみつに憧れさえ抱いていた。何よりも彼女には不思議な力があった。それが、たまらなく魅力的に見えた。


「みつは妖精とお話が出来るのよ」


自身の世話を焼いてくれる一番親しい下女げじょへこっそり語った。下女は「お嬢様には素敵なご友人がおられるのね」とうらやましそうに応えた。だから、みつを一度会わせようと考えていた。


今日それとなく伝えるつもりだったのに、洋菓子シベリアの美味しさにすっかり忘れていた。


ミルクホールの帰り道。気丈なはずのみつが、恐れを含んだ声色で叫んだ。


「さっちゃん、わたしの後ろへ」


佐智子はそのまま気を失った。意識は俗界を離れ魍魎に連れ去られた。暗黒のとばりが降りた。



  *  *  *  *  *  *  *  *



病室は静かだった。泣きじゃくっていた伊集院家の若い下女も今は一旦、本家へ戻っている。


「あんなに、さっちゃんのことを想う下女がいたのね。羨ましい」


塚本美津江が走らせる万年筆の音だけが個室内に響いている。


あれから如来姫にょらいひは何も喋らず、息遣いも聞こえない。美津江はあれこれ思案したがどうにもならず。結局「ならば万年筆として使おう」と、ベットに身を沈めたまま意識の戻らない佐智子のそばで、がんを込めた文章をしたためていた。


「さっちゃんを守るよう命じたのに」


時々、如来姫を握る手に力が入る。インクが予想以上に出て紙の上を流れ落ちる。


そんなときだった。


「こちらです」


看護婦に案内されて入ってきたのは少年──兎鞠恋之助とまりこいのすけだ。


「誰?」


美津江の問いかけに「陰陽師おんみょうじです」と一礼した。続いて「あなたは伊集院家の方……では、なさそうだが」と訝る。


「わたしは佐智子の親友です」


「ならば出ていってください。これから除霊をおこなう」


眠り姫の佐智子を挟み、少年と少女は対峙する。


「ずいぶん幼い陰陽師ね」


「きみこそ、まだ子供ではないか」


「あなたおいくつ?」


「十四だ」


「同い年じゃないの」


「だから、なんだ。邪魔だから出ていってくれ」


「なんて頭ごな命令口調。この部屋に男と二人っきりに出来るわけないじゃない」


「伊集院家から正式に仕事を請け負った。佐智子嬢のことは全て任されている」


「わたしだって……」如来姫を握ったまま突きつけ、「見えるわ」と呟いた。そこで気づいた。少年の懐から流れ出る邪気の姿。


「女の人?」


その言葉に恋之助の表情が「ハッ」と変わった。しかし驚きの顔はすぐに呆れの表情へ変わる。にやり、と小馬鹿にした笑顔が浮かぶ。


「きみは向いてない。陰陽師を目指すなど諦めて花嫁修業をしなさい」


「失礼ね……!!!」


ふたりの言い合いに、伊集院佐智子が目を覚ました……ように美津江には感じた。駆け寄り、躰に覆いかぶさるように「佐智子、大丈夫?」と声をかける。


「馬鹿、離れろ!」


恋之助が怒鳴ったが、すでに美津江の腕を佐智子は掴んでいた。にんまり、わらう。


「さっちゃん?」


病室は照明が落ちて暗黒に包まれた。日暮れ前のはずが窓辺から射し込んでいたは消滅していた。美津江の耳を河原で聞いた犬の声が包む。幻聴げんちょうだと、かぶりを振るが今度はすぐそばで聞こえる。


「さっちゃん……、さっちゃんなの?」


佐智子は口を開いたまま犬のように吠えていた。目は見開き、充血し、顔は血の気がひいて青白く干からびていた。


「さっちゃん……じゃない!」


──色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしきッ!


恋之助が叫ぶ。


くうくうなり、すべては戯言ざれごと。我を捨て去りしのちに心は成就じょうじゅする」




真っ赤なそらのした、痩せた大人の男が立っていた。


男は泣いている…… 「男が、泣いて、いる?」


美津江にとって、それは衝撃だった。


男とは父親やその部下、そして軍の友人らのようにたくましくたのもしく、涙など流さないものだと思っていた。


そういう生き物だと思っていた。


けれど河原に立つ、その痩せた男は顔をにして涙を流している。足元には子供……寝転んでいる?


「違う」


死んでいるんだ。この人の子供だろうか。


──そうか、これは想いだ。




「ケケケッ」


意識が戻った美津江の耳に、今度は奇っ怪な別の声が聞こえた。


妙乙女みょうおとめだ。


水のように流れる金色の髪に漆黒の単衣ひとえ。透き通るほど白い肌が狐のように飛び跳ねながら、盾のように囲む原稿用紙へ文字を書き連ねている。


「魚、水を行くのに意識はなし。鳥、空を飛ぶのに意識はなし。なれど汝、いまの正体に苦しみないか。いまの姿に悲しみはないか」


伊集院佐智子に見えた……、得体のしれない「何か」は苦しんでいた。


「佐智子……、」


「違う。それはモノノケだ」


「でも、こんなに苦しんで……、」


突如、反撃!


苦しんでいたはずのモノノケの腕が伸びて妙乙女の躰を締め上げた。


佐智子の姿を借りた「何か」は泣いていた。顔をにして泣き叫んでいた。


浮遊していた原稿用紙は力を失い、ばらばらと床に落ちて紙屑となる。


「命など空虚くうきょだ、執着せず往生おうじょうしろッ!」


恋之助の絶叫に美津江は違和感を覚えた。河原で泣いていた、痩せっぽちの男の人。我が子の死に涙した大人。


世の中が「空」なら、その子供と日々刻んだ思い出も嘘になる。そんなこと認められない!


「違うわ!」


「な、なんだぁ?」


──魂は死なぬ、人の想いは永遠なり!


美津江の叫びに万年筆「如来姫」が反応した。魂の鼓動が蘇る。


「塚本美津江の名において命じる。如来姫よ、我が眷属けんぞくとしての役を果たせ!」


御衣ぎょい


天から原稿用紙が降り注ぐ。美津江の原稿用紙だ。十二単じゅうにひとえを踊らせながら万年筆「如来姫」が銀色の髪を振り乱し言葉を描く。


──不生不滅、不垢不浄、不増不減。想いに滅びなく、想いに偽りなく、想いに変化なく。


バラバラと原稿用紙の雨が降り荒ぶ。大洪水だ。


「想いが伝わってくる。悲しくて、寂しくて……そうか、社会の片隅に追いやられ、妻は先立ち、子供まで……ごめんね、苦しかったよね。辛かったよね」


一心不乱に祈る美津江の瞳からは涙が溢れた。


だが、”濡れる”佐智子の表情はすでに笑顔だった。美津江の念唱ねんしょう読経どきょうのように響き渡る室内で、もはや戦意は消失しているようだ。


そして、ついにモノノケたる佐智子は妙乙女から手を離す。


目をつぶり、丸く開けていた口は閉じ、安らかにベットへ横たわる。女学生の伊集院佐智子が戻ってきた。


──今生こんじょうにて暮らしなさい。


眠る佐智子の躰がほんのり輝く。闇に包まれた病室に灯りが広がる。潮が引くように原稿用紙の海は浄化していく。それは、とても優しい色だった。


「いったい、何を」


呆気にとられる恋之助を余所よそに、佐智子の躰から去りゆく「親子」がいた。彼らは楽しそうに微笑んでいた。一瞬、歩を止め、美津江を見やると軽く会釈した。


社会に対する恨みは消えないが、少なくともこの先は静かに暮らそう──そんな意思表示に美津江には思えた。


「たくさんの幸せが訪れますように」


伊集院家の下女が病室に飛び込んできたのは、その後だった。


目を覚ました佐智子は、泣きじゃくる下女に首を傾げ「意味がわからない」と美津江へ視線を投げたが、すぐに下女の黒髪を愛おしそうになでた。



  *  *  *  *  *  *  *  *



「わたしの境遇よりも息苦しい世の中があるものですか。犬や猫を御覧なさい。風の吹くまま、気ままに、生きているではありませんか。あれを羨ましいと感じないのは、きっと心が荒んでいるからですわ」


美津江は今日も縁側えんがわで「下女」とお喋りを楽しんでいる。


「おや、でも約束したんだろぉ」


背後からひょっこり顔を覗かす如来姫が、意地悪に「ケケケッ」と嗤う。下女も興味津々と伺う。


「向こうから誘ってきたの、わたくしが望んだわけではありません」


「深夜の学校に”意中の男子”と探検出来たなら楽しい、だろ?」


「い、いちゅうじゃ、ないわ。如来姫、あなた勘違いしてる」


「兎鞠恋之助。帝都じゃ名のしれた少年陰陽師さ。やつが所持する妙乙女は、あたしの姉妹だよ」


「そうだったの」


「この機会に嬢ちゃんは陰陽師修行するんだね。あたしの主がへっぽこじゃ情けないからねぇ」


「あ、酷い。だいたい、あんなやつに教えてもらう事なんてありません。それよりも如来姫、あなたの存在は、お父様には内緒なのだからね。昨晩のようなことはやめてよ」


「昨晩?」


「お父様の風呂場を覗いたでしょ!」


「いい男だねぇ。わたしゃ、百年ぶりに女が濡れたよ」


「な、なんてこと」


ふたりの会話を聞きながら、夕暮れののもと下女は目を細め、口に手をあて無邪気むじゃきに笑った。そして美津江に、甘える口調でこう語りかけた。


「毎日が楽しくて夢を見てるよう」

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言霊(ことだま)を紡ぐミーディアム 猫海士ゲル @debianman

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