恋之助こいのすけ、ちゃっちゃと片づけて続きやろうよお」


夜の闇に切れ長の涼しげな瞳が悪戯っ子のように輝いていた。


透き通るほどの美肌を隠すのは真っ黒い単衣ひとえ。細身の美女は白い肩をあらわに晒している。


流れるような金髪と宝石のような赤い瞳。ゆらめく煙のような肢体は、ふわりと風に舞って、短いすそからは剥き玉子のように艶めかしい両脚りょうあしが無邪気に覗いていた。


「みょん、はしたないぞ」


鈴のように透き通った声は少年のものだ。


高等こうとう小学校を卒業したばかりの書生服しょせいふくを着た少年が大人の女性を叱る。


「あらあ、照れなくてもいいじゃない。男と女がすることと言ったらひとつでしょ」


からだを猫のようにくねらせ、背中に胸を押し当てる。柔らかい感触に恋之助少年の下半身は……それを何とか誤魔化そうと否定の声が大きくなった。


「おまえは万年筆の付喪神つくもがみじゃないか。そんなもの女とは言わん」


「あ、酷い。恋之助だけの万年筆だよ」


雨雲は全天を覆い星一つ輝くことなく、なのに天空は真っ赤な月に照らされていた。


大きな月だ。ウサギの餅つきがハッキリと観察出来た。


見慣れた町並みもしゅに染まって血糊ちのりのように照り返している。


「みょん、いくぞ!」


「あいよ、恋之助!」


封建社会ほうけんしゃかいの名残である旧家の屋敷を占有するのは、人にあだなす、この世ならざる存在。成仏じょうぶつさせ輪廻天昇りんねてんしょうさせることが少年陰陽師おんみょうじ兎鞠恋之助とまりこいのすけの仕事だ。


「今夜の依頼はたんまりもらえる。思いっきりいくぞ」


妙乙女みょんと呼ばれた金髪の女性は、月光に遊ぶ雌狐のように宙で一回転すると曼荼羅結界まんだらけっかいを貼った。


簡素な図形と文字によって刻まれた略式結界は、恋之助の躰を中心に前後左右四点に浮遊して盾となる──これを破れる魑魅魍魎ちみもうりょうはいないだろう。


「おい化け物、先祖伝来至高のペンにて現世より解き放ってやる」


叫びに呼応するように、原稿用紙がバラバラと豪雨のように降り注いだ。


屋敷で暴れていたモノノケは紙で出来たあまだれを切り裂きながら突進してくるが、妙乙女の作り上げた曼荼羅まんだらは完璧だった。


くうくうなり」


長い金髪が逆立ち、天を貫き、一本のペン先として収束する。あふれ出る漆黒のインクが言葉を文字に変え、マス目を埋めていく。


──むろん、みょんは人間ではない。


西洋人でもないのに金髪が風にそよいでいるのを初めて見たときは驚いたと、恋之助は回想する。


「いつの間にか見慣れた。慣れとは恐ろしいものであり、また頼もしいものだ」


幽霊だの、妖怪だのと、そんなものは子供欺しのペテンだと相手にしてこなかったぶん、現実を突きつけられた恋之助だが『筆降ふでおろし』の晩から十月十日とつきとうか恐怖に悶え苦しんだ。


そのツケを『慣れ』によって払い終わった頃、彼は夜叉鬼神やしゃきじんが戦慄するほどの陰陽師に生まれ変わっていた。


「この世があればあの世もある。当たり前の事だ。それが理解出来たから、今ここにいる」




観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 




……この世はすべてくうなり。


「世界はすべて空なりッ!」


それまであやふやだったモノノケのイメージが写実化した。真っ黒で口だけ赤い。正視するのも憚れるほどの、ぶよぶよした醜い姿だ。


「ウデアゲアァ、ウダガイガァ……」


わけのわからぬ言葉でまくし立てるが、「あいにく日本語しかわからんッ!」恋之助は取り合わない。


「苦しければそれを捨てよ、悲しければそれも捨てよ。俗界ぞくかいに執着するな。一切のカルマを捨て楽になれば、やがては銀河の一滴として悠久のときを謳歌出来ようぞ。それこそが輪廻転生の真髄なり!」


原稿用紙の束は凄まじい紙吹雪となってモノノケを包み込む。もはや醜い姿は視界から消えた。そこにあるのは原稿用紙によって形作られた巨大な手鞠てまりだ。


「兎鞠恋之助」


最後に名を記すと原稿の束が光を放った。その光は凄まじい炎へと昇華していき、爆発を伴う煙となって空の闇に溶けた。


赤い月は本来あるべき青白くも美しい姿へ回帰する。


世界が見慣れた風景へと浄化されていく。モノノケの存在が抹消された、人間が人間としてあるべき場所に。


騒がしかった光景にとばりが降りて木ノ葉このはのせせらぎしか聞こえなくなったことを恋之助は確認すると、ゆっくり深呼吸をした。いつもの東京市の香りがした。


玄関先で震えながら観戦していた屋敷の主人を見つけるや、とびっきりの笑顔を作り、揉み手口調にこう切り出した。


「原稿料、頂戴致します」


「……こいのすけ」


みょんが天を仰いでいる。


「なんだ」


「あれ、なんだい?」


妖艶ようえんなる姿のみょん──妙乙女みょうおとめはさらさらの金髪を風になびかせながら天空を指差した。そこに星空の海を優雅に航海する巨大な飛行船が確認出来た。


「公式飛行船だな。おそらく軍のものだろう。独逸ドイツから輸入したツェッペリン式というやつだ……どうした?」


「変な声が聞こえるよ。あれ、誰が乗ってんのさ」


「軍の飛行船だ。乗ってるのは、鼻持ちならない軍人ばかりに決まっているだろう」


妙乙女の横顔が哀愁を帯びていた。その姿に恋之助は奇妙な違和感を覚えた。



  *  *  *  *  *  *  *  *



「さっちゃん、わたしの後ろへ」


河原に現れたのは夜の闇よりも暗い影だ。敵意剥き出しの激情に塚本美津江はやや後退あとずさった。


ドサッ、と後ろで親友が倒れ込む音がした。気になったが振り返る余裕はない。河原の闇は悪意に満ちていたから。


「おまえは、誰」


こたえなかった。それが不安をより一層大きくした。美津江のひたいから汗が流れ落ちた。まだ啓蟄けいちつだというのに玉のようなしずくは止まる気配を見せなかった。


恐れよりも着物が汗まみれになることが気になりハンケチを探そうと手提げの中を探った。そのとき指が触れた──万年筆だ。


「あ、」


河原で拾ったばかりの万年筆を何気に手に取った。


──朱軸あかじくに銀の胴環どうかん、派手な万年筆だ。あきらかに息づかいも聞こえた。


「……おまえは、誰?」


万年筆がククッとわらう。


「我は三千大千世界に漂う意思。我は人の手により創られし傀儡くぐつ


「名前はなんという」


「我が名は、如来姫にょらいひなり」


万年筆は突然宙に舞うと、河原向こうの悪意に虚勢きょせいを張る。


「このお嬢はあたしの獲物だ、去るか、留まるか、態度を決めろ」


河原の闇がうごめいた。やがてそれは人の姿を形作ったが如来姫を恐れているのか一向に向かってはこない。


「わたしは誰のものでもないわ!」


「ケケッ、元気なお嬢だねぇ。だけど、どうするんだい。あのモノノケ」


「モノノケ?」


「感じないのかい。あいつは華族かぞくに深い恨みをたぎらせている。安穏あんのんと上流世界で暮らしてきたあんたと、その後ろで気絶している令嬢と、まとめて一緒に食われるか。それとも、あたしに食われるか」


美津江はようやく振り返ると、倒れ込む佐智子の躰へ優しく覆い被さった。キッとまぶたを開き叫んだ。


「やらせない。さっちゃんは、わたしの親友だもの。わたしを食らいなさい、でもさっちゃんはやらせない」


万年筆が大きな声で笑った。


「ケケケッ、大正デモクラシーってやつかい。お嬢さん育ちにしては威勢がいいねぇ。あたしゃ気に入ったよ、どうだい、とりあえず目の前のモノノケを始末してから考えようじゃないか」


──小娘、我とちぎるか!


全天を蠢く黒雲の間に稲光いなびかりが走る。如来姫は宙で踊り、美津江の躰を中心として四方八方に曼荼羅まんだら結界を貼った。美津江と、倒れ込む佐智子を守るように菩薩ぼさつ図柄ずがらが並ぶ。


「我を受け入れるか、我に命じるか」


万年筆が問う。


「さっちゃんを守って」


「我を受け入れるか、我に命じるか」


曼荼羅の中心に浮遊する万年筆を手に取り「塚本美津江の名において如来姫へ命ずる。モノノケを打ち払い、我が友を守りなさいッ!」


絶叫にも似た叫びに呼応するように天から原稿用紙がバラバラと音をたてながら降り注いだ。まるで豪雨だ。すさまじい紙の雨は見る間に河原を占有した。


「我が主となりし塚本美津江よ。冥府魔道めいふまどうに向けて書け。願いを鬼神きじんに、想いは魍魎もうりょうに、そのためのふでなら今、ここにある」


──くうくうなり。


この世一切の森羅万象しんらばんしょうは空なり。執着する自我は愚かなり。見えるモノはいろなり、聞こえるモノはまぼろしなり。人は人でなく、魚は魚でなく、鳥は鳥でない。こだわりを捨て自由になれ。さすれば銀河のしずくの一滴となりえし。


万年筆如来姫はまばゆい光のなかでくるりと一回転すると手足を生やした。派手な柄の十二単じゅうにひとえに身を包みながらも真っ赤な月夜に踊る姿は軽やかだった。平安浪漫から抜け出したような身なりでいながら、髪の色は銀色で瞳は深緑だった。美津江は驚いて、一瞬手が止まった。それを如来姫が叱責する。


「やめるなッ!」


インクは流れ続ける。それはまるで世界全てを經典きょうてんで満たそうとする勢いだ。


──聞け、亡者よ。彼岸に行けるも悟りである。


河原の影は震え、怯え、やがて両手を合わせて膝をついた。經典に埋め尽くされた紙吹雪に包まれ動きを止めた。観念したかに思えた。


そんな、一瞬の油断が佐智子を連れ去った。

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