言霊(ことだま)を紡ぐミーディアム

猫海士ゲル

甘美かんびにして優雅ゆうが。どこか物哀しい切なさをたたえつつも、太い幹が地面からそびえ立つように力強く未来を目指していた。


大正浪漫ろまん


──小娘、我とちぎるかッ!


それは大きな飛行船が星空を飛び、夜の河原で級友きゅうゆうが倒れた日。


巨大な月が真っ赤に染まり、暗雲はガラガラと音をたてながら空を蠢く。どこかで犬が吠えたが一瞬のことだった。すぐに幻聴だとかぶりをふった美津江みつえは、あらためて手のひらの万年筆へ視線を落とした。


「おまえは、誰?」


問われた万年筆は「ククッ」とわらう。しっとりした大人の女性の声だった。それが傲慢ともとれる態度で美津江にかたりはじめる。


「我は三千大千世界に漂う意思。我は人の手により創られし傀儡くぐつ


「おまえの名は?」


「我が名は、如来姫にょらいひなり」



  *  *  *  *  *  *  *  *



闇夜の学校は暗くて恐ろしい……とは、誰かの言葉だ。


それが誰の言葉であるかは、塚本美津江つかもとみつえは覚えていなかった。そもそも闇夜に学校へ出向くことなど、十四の身ではあり得ない。


だから夜にこっそり家を抜け出して、意中いちゅうの男子と探検でも出来たなら、それはきっと楽しいことに違いない。


「わたしの境遇よりも息苦しい世の中があるものですか。犬や猫を御覧なさい。風の吹くまま、気ままに、生きているではありませんか。あれを羨ましいと感じないのは、きっと心が荒んでいるからですわ」


夕日が射し込む洋間のとう椅子に、西洋ドレス姿で腰掛けながら美津江は、そんな他愛もない愚痴で下女げじょを笑わせていた。


下女は──美津江とさほど変わらない年齢にみえる。おかっぱ頭の女の子は継ぎ接ぎの着物を羽織り、裸足はだしだった。


「あなた、そちらは冷たいでしょう。こちらへ入っていらっしゃい」


縁側えんがわの板張りに正座する下女を、美津江は笑顔で「おいで」と招く。


しかし下女は元気そうな瞳を美津江に向けるだけで、口に手をあてケラケラと笑っているばかりだ。何がそんなに可笑しいのか、美津江には理解出来なかったが、つられて一緒に笑う。


「美津江さん、」


りんと張り詰めた声がした。冷たくこごえた板張りの廊下を白い足袋たびがしずしずと歩いてくる。一見して高級品とわかる和服に身を包んだ、美津江の母だ。


「お稽古の時間ですよ。先生がお待ちかねです……ここで、何を?」


その声に下女は立ち上がる。直立不動でからだ強張こわばり、頬は高揚し、緊張していた。


けれど母が声をかけたのは美津江に対してだ。下女の姿は目に入らない。


「そんなに怖がることはなくてよ。お母様は昔のまま、あなたに酷いことは言わないから」


美津江の言葉に、母は初めて気づいたように下女のほうへ視線を向ける。しかし、その視線は泳ぎ下女の姿を探している。困惑とは違う微妙な表情で再び美津江を見やると「ここに、いるのね」と呟いた。


「お母様、そちらの方と話をしていましたの。昔、うちで奉公ほうこうをしていたそうです」


「そうだったの」


「わたくしが呼んだのよ、悲しそうな表情で庭を歩いていたの。少しお話をして……昔話をたくさん聞いたわ」


いたずらっ子のような明るい娘の表情に母は頬を緩め、下女がいるだろう縁側へ軽く頭をさげた。


下女は深々と頭をさげると、もといた庭へ出て、そして消えた。


「さあ急いで。軍人の娘は時間を守れないのかと誤解されては、お父様にご迷惑をかけます」




封建ほうけん社会から世を開いた大帝が崩御ほうぎょして十年以上が過ぎた。

西洋文化の押し売りが益々図々しくなっていたが、華族かぞくら上流階級の生活に別段の変わりはなかった。むしろ好奇心に餓えていた日本人には喜々として受け入れられた。


塚本家もそうだった。


美津江の母は頑固に着物姿を守っていたが、娘には西洋人と同じ格好を許していた。もとより軍人の家系である。洋の東西から高級将校の階級章をさげた貴族が訪ねてくるたびに、幼い黒髪の少女は白人らの前に引っ張り出された。


生まれついての社交家である美津江は、別段それを嫌がってはいなかった。だから父親も気を良くして、たくさんのドレスを買い与えた。気づけは美津江は、女学校でファッションショーを披露するほどの衣装持ちになっていた。


「洋服が似合うハイカラさん」


それが世間の美津江に対する評判だ。


両親の娘へ対する欲は留まることを知らない。御茶おちゃ御花おはなはもちろん、欧州では令嬢のたしなみとされたバイオリンもやらせた。筋が良いのかまたたく間に上達すると、講師の楽団に混じり、政財界の集まりで演奏するほどになった。


「では美津江さま。先週の課題曲を」


待ち草臥れた初老の講師は開口一番言った。


美津江も言い訳をせず「はい」と、すぐにバイオリンを抱える。その時だった。


「失礼する」


塚本剛介ごうすけ陸軍大将。美津江の父親だ。


「あら、お父様。お早いお帰りですね」


軍服姿の父親は「いや、まだ任務中だ」と美津江へ視線を突きつけた。


「お稽古中なのだけど」


娘の不満げな瞳から視線を外すと、突然のことに呆けている講師へ軽く一礼した。


「先生とは初めてお目にかかりますな。娘が世話になっている」


礼節と同時に感じた威厳いげんに、初老の講師はそのままへたり込み、土下座をした。震えてもいた。


「先生、お顔をあげてください。自分は一介の軍人にすぎません。申し訳ないが、娘と少し話がしたく、不作法をお許しください」


言葉の意味を悟った講師は「では、わたしはこれで」と、自身のバイオリンや楽譜を抱え込むようにして部屋を飛び出していった。


「お父様、なんですかいきなり」


「おまえに尋ねたいことがあるのだ」


じっと愛娘の瞳をみつめる。


「な、なんですの」


「万年筆を返せ」


「なんですか突然。お父様の万年筆など知りません。書斎のどこかに転がっているのではなくて?」


「その万年筆の話ではない。昨晩、おまえが伊集院いじゅういん家の御令嬢と河原かわらを歩いていたことは調べがついている。そこで拾った万年筆だ」


「なんの話ですか」


「美津江、あれはとても大切なものなんだ。帝国にとって重要な遺物いぶつなのだ。昨夜、試験中の飛行船から落ちてしまい探していた……なに、心配することはない。おまえが素直に返してくれるなら、父さんがうまく誤魔化してやる。おまえに罰が下ることはない」




それは飛行船が飛んだ夜。


モダンなかすり模様の着物に海老茶えびちゃ色のはかま。それに革のブーツを履いた女学生がふたりで河原を歩いていた。美津江と親友の伊集院佐智子さちこだ。ふたりはミルクホールの帰り道に寄った河原で不可思議な体験をした。


父親に話せないのは「十四歳の娘が学校帰りにミルクホールへ行った」こともある。特に佐智子の伊集院家は厳しい家柄だ。


けれど、それ以上に話せない理由もあった。




「美津江」


目の前に憮然ぶぜんとした父親の顔があった。軍人の顔だった。


「知りません」


父親の瞳を睨みつけるように放つ。頑固さは父親譲りだった。

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