私は教師で僕は先生。

らぶらら

過去も昔も

 

 これから、私が会った一人の生徒にまつわる話をしよう。

 

 新任教師だった私が、配属された高校は私が学生の頃に通っていた高校だった。

 歴史の趣のある校舎は実際に通う彼ら生徒にとっては、ただのぼろいだけに映るらしい。

 

 偏差値も大して高くない学校で、何を目標に中学から来たのかも知れない人ばかり。

 

 本当に、何もかも、変わっていなかった。

 

 「今日から、このクラスの、担任になりました、○○△△です。よろしくお願いします」

 

 俯きがちに言った挨拶に耳を傾ける生徒はいない。

 

 ヘッドフォンをしてゲームに興じる大人めの男子。

 訳もなく片足を机に乗せて、歌を歌う女子達。

 どこを見ているのかもわからない視線を窓枠に注ぐ生徒。

 

 「では、HRはこれで終わりになります」

 

 そう短くまとめると、最後に、教室を出る直前、顔を上げてクラスの中を見た。

 

 一人。

 

 こちらを見つめる人がいる。

 短い髪で、黒髪で、細めの体躯で、うっすらとこちらを見つめていた。

 

 あんな生徒いただろうか。正直、見覚えのない顔だった。

 まあ、生徒の名前と顔なんて誰も一致していないのだから、今さら一人くらい知らない生徒がいたところで問題はない。

 

 けれど、それからその生徒を見かけることが増えていった。

 授業中、ふと目線を教室へと向けた時。廊下ですれ違った時。職員室の窓から校庭を眺めていた時。視界の端にその生徒が移ることが多いように感じた。


 そんなある日。


 「あれぇ、先生。今日はどうしたのぉ」

 

 妙に間延びした声が私の脳内に絡みつく。

 彼の慇懃ない口調に違和感を感じたが、特に口にはしなかった。


 「図書室に、本を借りに…………」

 

 私がそう答えるとその生徒は笑った。


 「そうだよねぇ。図書室に来てすることといえば、それくらいのもだよねェ」

 

 その生徒は性別がどちらかわからなかった。

 名簿では、確かに男子生徒であるはずの彼(ここでは彼と呼ぼう)は怪しくもどこか親し気のある雰囲気で、こうして対面しているのにどこか同性であるという気がしてしまう。

 

 「先生は何の本を借りに来たの?」


 「今日は、『ドグラマグラ』を読もうかと、思いまして」

 

 一冊の本へと視線を落として、私は話す。

 本は好きだ。

 現実の苦々しい想いから一時だけでも切り離してくれるから。


 「ふーん…………そうなんだァ」


 つまらなさそうな返事だと思った。

 まあ、今どきの高校生からすれば関心が向かないのも無理はない。

 そこに落胆はなかった。


 「あっ、そういえば。先生はいつも一人でいるよね。何で?」


 「え?なんで、と言われても…………」

 

 私は返答に窮した。

 今まで考えたこともなかった。単にその質問をしてくる相手すらもいなかっただけかもしれないが。


 そんな私の表情を読んだのか、彼は少しだけ?申し訳なさそうに言った。

 

 「あー。でも、一人も悪くないかも」

 

 少し鼻にかかる言い方だと思った。同時に変だと思った。

 その時初めて、私は彼の顔を見つめた。


 不思議だった。

 人の顔にそのような感想は変だが、そうとしか形容できなかった。

  

 「…………あ、あなたも、いつも一人ではないんですか?」

 

 「どうだろう?先生にはそう見えた?」

 

  私は少し正直に答えるべきか逡巡した後で、おずおずと口を開いた。


 「は、はい。すみませんが」

 

 「なんで謝るの?」


 彼の瞳が開かれ、私を見つめてくる。

 

 「え、いや、すみません」

 

 「だからなんで謝るの?」

 

 苦手な空気だ。

 覆いかぶさるような空気に押しつぶされそうになる。


 コミュニケーションは苦手だ。

 考える項目が多すぎて、頭の中がパンクしてしまう。

 

 「まあ、いいや。先生それじゃ」

 

 彼は私の顔を凝視してしたが、ふっと弛緩した笑みを浮かべて図書室を後にした。

 

 不思議な生徒だと思う。

 話した会話は少なかったが、どうにも彼のことが頭の端でちらついて考え込んでしまう。

 

 その日の夜、夢を見た。

 耳をつんざくような声が部屋中に響いていて、それを私は壁越しに聞いていた。

 それが少女が泣いているとすぐに感じた。

 ではなぜ泣いているのだろう。

 

 何か悲しいことがあったのだろうか。嫌なことがあったのだろうか。

 かえって嬉しいことがあったのだろうか。

 

 けれど、直感的に後者ではないのだろうと思った。

 

 「今日は何を読んでいるの?」

 

 彼は私と本の視線の間に割り込むようにしてその顔を覗かせる。

 

 「うわっ」

 

 それに私は思わず声を上げた。

 驚いたのはいきなり声を上げたからではない。彼の手先がやけに毛むくじゃらに見えたのだ。けれど、すぐに見間違えだと思った。

 

 「ごめんごめん、そんなに驚くと思わなかった」

 

 申し訳なさそうに彼が言う。けれど、そう言う彼の口端が緩んでいるのが見えた。

 それを見ていたのが彼もわかったのか、気まずそうにこちらを一瞥する。

 

 「それで?何を読んでるの?」

 

 「詩集です。たまにはこういうのもいいかと」

 

 私は本を畳んで表紙を見せる。

 あまり詩を嗜むことはなかったが、丁度図書室の新刊棚に並んでいるを見て手に取った。

 

 「へー、お気に入りの詩はあった?」

 

 「…………どうでしょう?」

 

 私は質問に質問で返す。その意味がわからなかったのか彼が首を傾げる。

 

 「普段あまり読まないので」

 

 「そうなんだ」

 

 自分から聞いておきながら、あまり興味のなさそうな返事だった。

 

 「見せて」

 

 私の返答を待たずして彼は詩集を取ってぺらぺらと捲る。

 

 「僕はこれが好きだなぁ」

 

 そう言って、彼が指さした詩集のタイトルは『叫び』

 文を読んでみるとどこかその内容が昨日見た夢にどこか似ていて、気味が悪かった。

  

 ぴちゃぴちゃと音が聞こえる。

 すぐに私は直感して、これが夢だと悟った。

 

 暗闇は何時だって傍にいて、私を覗きみてる。

 空には星はなく、月すら出ていない。

 

 私はそっと頬をなぞる。

 涙は枯れ果てていて、熱をもち腫れぼったい感じだ。

 

 「痛いなぁ」

 

 私は胸元に手を置いて、呟く。

 けれど、その言葉がなぜ出たのかわからない。

 痛みは感じない。傷を負っているわけでもない。なのに、息を吐くように自然に出てきた。

 

 次の日、私が学校に行くと慌ただしく動く他の先生方が見えた。

 昇降口の前には朝早くに登校した生徒もいて、行き先を失って立ち往生している。

 

 不思議に感じたのが、普段なら開かれているはずの昇降口の扉が固く閉ざされていることだ。

 

 私がその異様な光景を流し見ていると、こちらに向かってくる影を捉えた。

 

 「○○先生!ちょっといいですか?」

 

 「は、はあ…………」

 

 その先生の勢いはものすごく、私は思わず一歩下がる。

 

 「こちらへ!」

 

 無遠慮に私の腕を掴み足早に歩くので、何事かと思っているとすぐさま一階の事務室へと案内される。

 中には五人の先生が額に皴を寄せて話し合っている風に見えた。そのすべての視線がこちらへと向けられる。


 「な、何かあったんでしょうか?その…………」

 

 私はそこで事の異常さに気づき始めていた。

 

 「実は、」

 

 一人の教師が代表して話しはじめる。

 

 「現在、ウチの高校に立てこもり事件が起きていまして…………」

 

 「は?」

 

 私は素っ頓狂な声を上げる。かなり大きな声だったが、周りの先生も同じ反応をした経験があるのか、理解の目があった。

 

 「そ、それで、何故私が呼ばれたのですか?あまり役に立てるとは思えないのですが」

 

 「行けばわかると思いますが、立てこもっているは生徒なのです。それもあなたとの対話を要望しているとのことで…………」

 

 ますます訳が分からない。

 

 「とりあえず現場まで案内したいと思います。既に校長には確認しています」

 

 「…………わかりました」

 

 気はまったく進まなかったが、上の決定に口出しできないと思った。

 

 「ここです」

 

 他の先生の案内で運ばれたのは自分が担当するクラス。薄々感づいてはいたが、立てこもり犯は自身のクラスの生徒なのだろう。

 

 スライドドアの窓には昨日まではなかった布のようなものが垂れ下がっており、外から中の様子はうかがえない。

 

 「では、私はこれで」

 

 そう言うと、その先生は殆ど走りの速度で元来た道を引き返していった。

 さすがにそこまで露骨にされると私も感じ取る。これは責任を取れと言うことだろう。

 

 警察沙汰にもしたくないのかここまで先に来た先生方のみで対応することに少なからずの違和感を感じていたのも私一人に責任を押し付けようとするのだから納得だ。

 

 私は何度か深呼吸すると言葉を投げかける。

  

 「○○です。入ってもいいですか?」

 

 返答は沈黙だった。 

 

 「入ってもいいですか?入りますよ」

 

 ドアに手をかけると鍵はかかっていなかった。

 

 「先生、来たんだね」

 

 静かな空間に彼の声だけが響いた。

 

 「……………………ぅ」


 私は広がった光景に瞠目する。


 壁一面に伸びていたのは絵具みたいな赤。

 鉄の匂いが充満していて、私の鼻腔に鈍重に響いてくる。

 

 「……………………っ」

 

 何か言葉を紡ごうと口を動かすも私の喉からは息の音しか出てこない。

 

 「大丈夫?顔色悪いよ、先生」

 

 彼はこの状況がただの日常であるかのようにふるまってくる。

 けれど、明らかに普通じゃない。


 ぶちまけられた血は本物で逆流しそうな胃液をなんとか口元で抑えて蹲る。

 何人分のものだろうか。

  

 「先生?もしかして怖いの?」

 

 少しずつ彼がこちらへ近づいてくる。

 

 命の危険。

 全身の毛が逆立って、逃げろと訴えかけてくる。

 

 でも、


 「逃げないの?」 

 

 彼の顔がすぐそばにまで来て、私の瞳を覗き込んできた。

 

 「……………………っ!」

 

 「ねえ、先生」

 

 彼の手らしきものが私の頬に触れる。

 

 「どうして、目を瞑ろうとするの?」

 

 その声音は酷く優しかった。

 しばらく感じたことのないほどに。

 

 「何か嫌なことでもあったの?」


 「む、昔、父親に殴られて…………その、その時から」

 

 そうだ。

 あの父親。

 血も繋がっていないのに、毎日のように酒を浴びるように飲んで殴ってきた。

 

 目を瞑らないと、嫌なものばかり見てしまうから。

 目を瞑らないと、また目が気に食わないと怒られてしまうから。

 目を瞑らないと、涙がこぼれてしまうから。

 

 「そっか」

 

 「じゃあ、僕と一緒になる?」

  

 「一緒に…………?」

 

 私にはその声が死へのささやきにしか聞こえなくて、ついおかしくなって笑ってしまった。

 

 「ふふっ、いいよ」

 

 「じゃあ、僕たちは一緒だ」


 そう言って私の体を黒い靄みたいなものが包み込む。

 しゅるしゅると巻き付いて全身の力が抜けるような感覚。

 

 もはや、その姿は人のそれではないだろう。

 殺されるのならそれも良い。きっと彼ならば潔く殺してくれるだろう。

 

 彼と一緒になった私は大きな翼を広げて、空へと飛び立った。

 

 

 

 「ま、待て!私が悪かった!謝る、謝るから!」

 

 誰かが吠えていた。

 醜態を晒して、涙を流しながら、命乞いをしている。


 あれだけ大きく見えた父の姿は、今の私にはどうにも小さく見えて仕方がなかった。

 

 血が迸る。

 噴水みたいに吹き飛んで、それが月明かりに反射しきらきらと光る。

 

 「……………………綺麗だなぁ」 


 




 

 「ねえ、人は好き?」

  

 「うん!大好きだよ!」

 

 「じゃあ、私とは真逆だ」

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私は教師で僕は先生。 らぶらら @raburara

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