エピローグ
帳学園高校。夏の終わりの太陽がその葉を照らす中、ツツジの香りが最後の集大成とばかりにただよう、いつもの裏庭。
グラウンドからは野球部やサッカー部の練習の声。
校舎から吹奏楽部がシンフォニーを練習する音が聴こえてくる。
晩夏に似つかわしい、青春の音。
そのさなかでそこだけ時が止まっているようだった。
天体のことを教えてくれたあのベンチで。
ぼんやりと夏空を見ている、彼はいた。
ウェーブがかった髪も。
グレーのシャツに、黒いパンツ姿の身だしなみも、あいかわらず完璧。
ただ。
その目には、いつもの余裕も微笑もない。
抜け殻のような虚ろな目。
今にも走り寄って抱きしめたい衝動が込み上げる。
たっと蹴り上げた足を、止めた。
「……終わったみてーだな」
虚ろな瞳の彼――待夜先輩の腰かけているベンチの後ろにふらりと現れ、そう言ったのは、おにいさんの紅狼さんだ。
いつでもはつらつとしていた紅い目がどこか寂しそうに微笑んでいる。
「死んだようなツラだが、魔力は無事戻ってる。ひとまずほっとしたぜ」
彼――待夜先輩は答えない。
紅狼さんは困ったような微笑みを絶やさない。
そのまま永久に時が過ぎるんじゃないかと思ったとき。
「兄さんにはわかっていたんですね。こうなることが」
少しだけかすれた、小さな声が、彼の口から漏れる。
その声はいつものように蠱惑的にも挑戦的にも響かない。
かんぜんに打ちひしがれて。
こんなの――待夜先輩の声じゃないみたいだ。
「そんな顔すんなよ」
紅狼さんは、待夜先輩の真後ろに立ち、先輩の座っているベンチに背を向けた。
「お前はオレたち一族を憎んでるかもしれないな」
先輩がふいに疲れたように上体をもたげた。
長い前髪にかくれて表情が、見えなくなる。
「いいえ。一族のみんなも、兄さんも。オレの身を案じてくださっていることはわかっています」
「――ただ」
わずかにうかがえる口元が、ぎりぎりとかみしめられる。
「恋心が常食なんて。その事実だけが憎い。彼女の想いを食いものにして息をしている自分が。おぞましいほど、憎いんです」
彼はうつむいた姿勢のまま、そう言って動かない。
震えることすらできない痛みが、この胸さえつんざいた。
ぱしっと音がして。
なにかと思えば、紅狼さんが後ろを向いたまま額に手を当てている。
「やきが回ったな。オレはお前の兄貴なのに、なんにもかけてやれる言葉がねー」
「ただ、冥都」
わずかに横にずれた右手から、その瞳を反射した赤い光が見えた。
「オレは、そんなお前が生きていてくれて、心底よかったと思うよ」
秋の日の夕暮れのように哀しい輝きを称え、紅狼さんはその場を去って行った。
それから間もなくだった。
待夜先輩が、その片目を覆ったのは。
「……杏さん」
ぎくりと、胸が痛いほどの反応を示す。
ここにいることが彼に知れたと思ったからじゃなかった。
むしろ、逆だったから。
彼が、この場に誰もいなくなってようやく、悲鳴のような言葉を零しているんだということが、明らかだったから。
「宇宙飛行士という、その壮大な夢をきいた時からでしょうか。世界が広いと感じることが好きだと。その言葉が彗星のように、きれいだと思いました」
そこには甘やかな響きも、ミステリアスな調べもない。
ただ粛々と流れていく涙の粒のように。
弱々しく、切々として。
「もしくは、オレが人々の恋心を生まれさせ、食すその方たちに本気で肩入れして、彼女らを襲う理不尽に怒ったり。独特の浪花節を披露したりしたそういう瞬間だったのか」
繊細な珠玉のように連なって地面へと落ちていく。
「いやそれとも。恋心を失くす権利などないと、オレに意見してきたときだったんでしょうか」
いつしかその残像は、あたしの視界を曇らせて、盲目にする。
「オレはあなたに好きになってほしいと願ってしまいました。食用としてでなく、永遠に、そうあってほしいと」
ふいに、口から力ない吐息が漏れた。
息を吐けば、この胸に抱えきれないくらいの気持ちが、軽くなるかもしれないって、身体がそう無意識に思ったみたいに。
「でも、笑ってください。あなたの恋心は今、この身体の糧になって消えてしまった」
ツツジの茂みの影、あたしはうずくまる。
むせ返るほど甘く強い香りが鼻腔をくすぐる。
想いが喉元で交通渋滞を起こしたようだ。
息ができない。
「あなたの目を通した宇宙。見てみたかったですね」
そっと、彼が目を閉じる。
宇宙の果てのようなヴァイオレットグレイを。
「――せんぱい」
もう一度見るために、声をかけた。
待ち望んだその目は、なにが起こったかわからない――むしろ、その目に映っているもの、あたし自身を疑っているかのように、戸惑い。
そんな彼に、勝気に笑いかけた。
「好きになった瞬間もわからないなんて、だめですね」
泣きはらした目でおもいっきりおどけて、肩をすくめてみせる。
「ラヴァンパイアともあろうものが。先輩こそじつは恋愛初心者なんじゃないですか?」
「杏、さん……?」
そう、杏です。
あなたのことが好きな、三朝杏です。
心で唱えてどんと証明のように胸をたたく。
「あたしはちゃんとわかりますよ。先輩のどこが好きなのか」
「誰かが一番触れてほしいって願ってる心の奥に触れて、慈しむところ。人によってそれは寂しさかもしれない。強い意志かもしれない。そして夢かもしれない。それを大事にしていていいんだよって、教えるように接してくれるところです」
そう言うと、一歩一歩、彼のそばへと歩み寄っていく。
「そういうふうに誰かと接することって。ラヴァンパイアの魔力を上回る奇跡を起こすみたいですね」
太陽が真上に上って、茂みのグリーンをツツジのピンクを、より鮮やかに照らし出す。
あの太陽の奥には、星々が、惑星が無限に広がっている。
宇宙へのあたしへの憧れも包み、激励してくれたあなたがくれた、世界で一番美しい景色。
「宇宙の景色を宅配でお届けなんて、ちょっとキザですよ」
そして、ナイショ話をするように、後ろから彼の耳元で、囁く。
「あれを見たら」
てへっと舌を出したのは、猛烈に照れたから。
「思い出しちゃいました。先輩への気持ち」
もう、照れついでだ。
ベンチの後ろ、腰をかがめてぎゅっと、その肩を抱きしめる。
「もういいんです。誰からもずっと愛されることはなかった、その長い旅は終わりです」
目を閉じ、抱きしめているその肩のぬくもりだけを感じて――今度はあたしが彼を慈しむんだ。
「食用恋心、上等。何度でもあたしが補充してあげます」
ゆっくりと、あたしは目を開いた。
「好きです。好きなんです。待夜先輩」
……。
「あの」
今このあたしがめっちゃ勇気出して渾身のいい雰囲気ってのを作ってるんですから。
チョットは反応してくれませんか。
いつものラブ空気メイカーぶりはどこいっちゃったんですか?
哀れ、ロマンチックな空気がもったのは一分。
すっかりいつものつっこみ口調に戻ったあたしに、
「いえ。その、すみません」
彼は答えた。
ちょっと戸惑いが残った――いつもの、ミステリアスな口調で。
「脳内ではとっくに今あなたをきつく抱きしめ返して、唇を奪ったまま、まだ解放していないのですが」
口をばくばくさせて、そう言えばと気づく。
あたしってば、まだ待夜先輩を後ろから抱きしめたままじゃないですか……!
冷静さが戻った瞬間、ひゃっと声をあげてその場から離れようとしたあたしの腕を、がしっと、彼の片手が封じる。
「その奇跡とやらに、多少疑念を抱いているもので」
「は。……はぁ」
今度はこちらが戸惑っているうちにさらにぎゅっと、とられた手を胸に押し付けられる。
「ほんとうに、杏さんの恋心は無尽蔵になったんでしょうか」
彼が、振り向いた。
「キスしても、なくなりませんか?」
ちょっとだけ不安そうにそして挑戦的に、その目がきらめく。
「アーユーシュア、でしょうか」
……あや。
「そう言われると自信ないっていうか」
何度でも補充してあげるって言ったは言ったけど。
もちろんその想いにいつわりはないんだけど。
強い想いを伝えたくて――もっというと空気作るために言ったとこあるっていうか。
しどろもどろになって説明すると、やはりと待夜先輩は物憂げに首を傾ける。
「ここで唇を重ねて、杏さんの恋心がまたなくなったらどうしろというんですか」
どこかいじけたように、ぼそりと呟かれた台詞が、なぜか包み込みたくなるように愛しい。
なんか、かわいい……!
やばい、好きになると男の人でもかわいいものなのだろうか。
「だいじょうぶですよ」
だから、優しくなでるように、言った。
「そのときは、先輩がまた好きにならせてくれたらいいじゃないですか。何度でも、何度でも。今度はあたしだけを」
「だから」
さすがに言う前に口をつぐんだけれど。
たっぷり三秒の準備の後、決死の言葉を、告げた。
「……ためしに、してみませんか」
何気なく、さらっと自然に言うつもりだった言葉を、ところどころ裏返って、がちがちで、不自然に。
先輩がふっと、不敵な笑みをこぼす。
「しかたのない方ですね」
向けられたのは、完璧な笑顔。
完璧に優しげできれいで、そして、ちょっとだけ切なそうなのがよけい、完璧だった。
「杏さん。あなたが好きです。予定外ながら。――好きです。苦しいほどに」
そしてあたしは、偶然に出会ったラヴァンパイアに。
ううん。
何億光年という宇宙の歴史の中で奇跡のように同じ時代に出会えた、その人に。
黙ったまま微笑むと目を閉じて、後ろからそっと、唇めがけて、顔を近づけた。
了
ラヴァンパイア・キス ~吸恋鬼と恋、はじめました!~ ほか @kaho884
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