第3話

「たしかに淀どのは秀頼さまをご出陣なされようとしておられる」

尼公にこうさまのお力でお止めできませぬか。さもなくば天下分け目のいくさに徳川方が負けまする。これからの豊臣家をお守りできるのは徳川さましかおられません」


 才蔵は事の次第を湖月尼に打ち明けていた。

 というのも、家康と湖月尼がお互いを高く買っているのはよく知られていることだったからだ。

 湖月尼に出会ったことこそ僥倖ぎょうこうなり。この方であればきっと家康に味方してくれるのではないか。


「治部も息巻いておったわ。天下分け目の大いくさになるやもしれぬとな。笑止。単に太閤殿下の家臣どものいさかいに過ぎぬのに」

「恐れながら、尼公さまはどちらの勝ちを望まれておいでですか」

「どちらも望んでおらぬ」


 才蔵は次の言葉が見つからなかった。湖月尼の意図を判じかねたがゆえに。


「この尼の望みが分からぬか、徳川の忍びよ」

「分かりませぬ」

「治部も家康どのも、いや、今のいくさに参じている家臣たちはみな豊臣家を守る盾じゃ」

「いかにも」

「なればその盾を壊しつくすのが尼の望み。多くの兵を集めて長い時間を費やして大いに戦い合えばよい。いくさが終われば豊臣家は丸裸になろう」

「それでは豊臣家が滅び申します」


 才蔵は顔をあげた。そして戦慄した。湖月尼が凄惨な笑みを顔に張り付けていたからだ。


「滅びれば良いのじゃ」

「と、豊臣家は尼公さまのものでは」

「そうであった。豊臣家も太閤殿下も、淀の方が来るまでは。今の豊臣家は寧々のものではない。淀どのの豊臣家じゃ。滅びるがよいのじゃ。ほ、ほ、ほ」


 世にも恐ろしい笑い声が部屋の中で反響した。

 太閤秀吉とともに天下を睥睨へいげいしてきた湖月尼が持つ気迫に飲み込まれる。


 ――臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。


 心の中で九字を切り、才蔵は湖月尼の笑い声を振り払うべく立ち上がった。


「いかにも滅びて結構です。これからは徳川の世となり申す」

「なれば行くのか。淀どののもとに」

「はい。秀頼さまのご出陣をお止め仕ります」

「そなたにできるかや。淀は魔性の女ぞ。一介いっかいの忍びの手に負えるか。はて、見ものじゃのう」


 振り向いた才蔵は襖にかけた手をわずかに止めた。


「この才蔵は徳川の忍びなれば」


 部屋を出た才蔵は己の背に湖月尼の笑い声がいつまでも粘りついている気がした。



 才蔵は音もなく格天井から降りた。

 部屋の隅で豪奢ごうしゃ打掛うちかけを着た女人にょにん文机ふづくえに向かって座していた。

 才蔵は懐から小さな赤黒い紙片をつまみだした。それを口に含んで飲み込む。


「忍法、夢去来むきょらい


 女人の長い黒髪が揺れた。


「だれ――」


 鈴の音のような声とともに振り返った女人はこの世のものとは思われぬ美の化身であった。

 秀吉と家康の師ともいうべき魔王織田信長おだのぶながの姪である茶々ちゃちゃ――淀の方。生来の気品は湖月尼を圧倒していた。


「ああ。五右衛門」


 淀の方は流れるように才蔵に向かってきた。才蔵は淀の方の体を優しく受け止めた。かぐわしい匂いに包まれた。


「淀のお方さま。あなたさまに会いたい一心でこの五右衛門、推参仕りました」

「嬉しい」


 忍法夢去来。才蔵が先ほど飲み込んだ紙片には石川五右衛門の血、汗、涙、精液などあらゆる体液が滲み込ませてあった。それもかつて五右衛門が大坂城の忍び込んだ際に淀の方とまぐわったあとの体液が。

 石川五右衛門を愛し交わった女は、その紙片を飲み込んだ男の姿、声、体臭、すべてが五右衛門としか思えなくなる。つまり今、淀の方は才蔵を五右衛門として認識している。

 五右衛門が淀の方の心を盗んだとはまさにこのことであった。そして秀吉の怒りを買って処刑されたのもそれ故であった。


「この五右衛門の願いを聞いてくれますか」

「はい。なんでも」


 淀の方の返事を聞いて才蔵は薄く微笑んだ。湖月尼が言っていた魔性とやらに打ち勝った喜びに奮える心を抑えた。


「されば秀頼さまのご出陣――」


 才蔵の目は淀の方の透き通った肌をした細い首筋に吸い寄せられた。



 九月十五日の太陽が中天から少し傾いた頃。

 大坂をあとにして関ヶ原に向かって才蔵は駆けていた。


 ――秀頼さまご出陣。


 最初は夢の中の呟きのように響いていた声は、今や己の口からはっきりと発されていた。


「秀頼さまご出陣」


 才蔵は大坂城から放たれた伝令と化していた。

 夢去来は破られた――。

 才蔵が淀の方に心を奪われたが故に。

 だが、才蔵はあの時石川五右衛門であった。ならば奪われたのは才蔵の心か、五右衛門の心か。

 いや、淀の方が夢去来を通じて五右衛門と心を通わせたと見るならば、忍法は見事に成ったと言わざるを得ないのではないか。

 とにかくも才蔵は淀の方の意を受けて秀頼出陣の報を伝えて関ヶ原に向かう。

 秀頼出陣の噂は人びとに伝わり、野を駆け山を越えるであろう。

 石田方の士気は上がる。

 そして二日後には三万以上の軍勢を率いた毛利輝元が秀頼を総大将に仰いで玉城に入城する。そうなれば秀頼が放つ豊臣家の威光によって徳川方の豊臣恩顧の大名たちが次々と石田方に寝返るはず。

 もはや石田方の勝利は約束されたも同然。

 才蔵は勇躍して玉城に入った。


「秀頼さまがご出陣なされまずぞ」


 そこで才蔵は初めて気が付いた。玉城がもぬけの殻であることを。


「あ!」


 忍びの鋭敏な感覚を持ちながらなぜ今まで感づかなかったのか。自らが夢去来に堕ちていたからか。

 大地の揺れ。人馬の足音。

 才蔵は山城から眼下の関ヶ原を見下ろした。

 図らずもすでにいくさは始まっていた。

 睨み合う両軍の先鋒同士がしびれを切らせて戦端を開いたのか。いや、秀忠の到着まで開戦を待つという下知そのものが味方をも欺く家康の策略だったのだろうか。

 才蔵は気死したようにもうもうたる砂塵を巻きあげた二つの雲霞うんかのごとき軍勢がぶつかり合う様を眺めていた。

 一刻もすると西に陣を敷いた軍勢が次第に押されて行く。そして次々と敗走を始めた。

 秀頼出陣を待たずに石田方の敗北は決定した。

 しばらくすると才蔵は乾いた笑い声をあげて関ヶ原の地に立っていた。

 波のように押し寄せる徳川方の軍勢。いつしか才蔵は黒い波に飲み込まれる。

 才蔵は黒い波の中で敵を見ず、大坂の方角を見て笑っていた。

 その笑い声はいつまでも消えることはなかった。

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秀頼出陣 伊賀谷 @igadani

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