助けた男が殺人鬼かもしれない件について

ペボ山

第1話

澄んだ空に、糠星が散っている。薄雲の下からは、青白い月の光が漏れ出ていた。夜空を見上げるのなんて、いつぶりだろうか。

夜空を見上げるのは上を向いて歩いているからで、上を向いて歩いているのは、涙が零れないようにだ。

そう、俺は今日、生まれて初めての失恋を経験した。

……正確には失恋とは少し違うが。それでも、俺は悲しくて悲しくて、こうして子供みたいにメソメソ泣いているのである。

「うっ、うぅ……酷いよぉ…こんなのって無いよぉ…」

「えっ、泣い……嘘、泣いてるの?」

「えっ?」

鼻を啜る。鼻を啜り、目を擦る。

くるくると辺りを見回して見るけれど、声の主は見当たらない。心が淋しいあまりに、幻聴を聞いてたのだろうか。そうだ、この際幻聴でも良いから俺を慰めてくれ。

込み上げた虚しさのまま、再び上を向いて歩く。

そして俺は、そのままひっくり返った。

「えっ、えっ、えっ」

「おーい、元気?」

「お前こそ正気か?」

ザカザカとお尻で後退りながら、目を擦る。何故なら其奴が、『一軒家の屋根の縁にぶら下がっていた』からだ。

右手を屋根の縁に引っ掛けて、左手をブンブンとこちらに振っている。馬鹿か?馬鹿だ。世界一の大馬鹿野郎が目の前に居る。

「なにしてんの〜?」

本当にそれは、全面的にこっちのセリフなんだが。

「あわわわわわわわ」

動きやすい靴とパーカーで良かった。空っぽのバッグを投げ捨て、あわや転落死かと言う青年の元へと駆け出す。

普段は何でもない微風が、死神の吐息のように感じられて。

「何してるの!自殺志願者……のそれじゃないねそのツラは!」

「いや、家の鍵忘れちゃってぇ!」

「なるほど!」

一個もわからん!

恐らく今の俺の顔は、真っ青を通り越して蒼白である。

受け止める体勢を取ったは良いが。この高さから自由落下してくるあの質量の物を、受け止めるなんて。考えるだけでちょっとゾッとする。

下手したら割れるんじゃないだろうか。両膝の皿とか。

こう言うのは、大人を呼んだ方が良い。子供だけでどうにかなる問題では無いのだ。

「ちょっと、警察とか消防とか呼ぶから!ちょっと頑張って!」

「あ、」

「『あ』?」

視線を上に。右手を縁に引っ掛けていた青年が、右手で『そこを退け』とジェスチャーしてくる。

つまり青年は、縁から両手を離している状態で。何なら自由落下中であった。

「うわぁああ!!」

ほぼ本能的に、青年の落下予測地点から距離を取る。11と打ち込んでいたスマートフォンを、ギュッと握りしめた。

ドン!と。

土煙を上げ、地面に密度のあるそれが叩きつけられる音。

思わずしゃがみ込み、耳を塞ぎ目を瞑る。今目を開けてしまえば、俺は一生物のトラウマを植え付けられる事になるのでは無いか。

そんな逃避思考とは裏腹に、身体は冷静だったようだ。救急を呼ぶべく、親指でしっかりと通話ボタンを押していた。

「その通報ちょっと待った!」

「うわ!い、生きてる!?」

土煙が晴れる。右膝を立て左膝をつき、手袋で覆われた左手の拳を、忍びのように地面に突き付けて。まるでアメコミヒーローのように着地した青年は、ゆっくりと相貌を擡げた。

「アッセンブル」

こんなアベンジャーズは嫌だ。

俺がアイアンマンの大ファンだったなら、今ここでこの男に引導を渡していただろう。だが実際の俺は、呆然自失で動くことすらできなかったし、あっちあっちで、俺の反応を伺うような表情で首を傾げる。アメリカの子供のように、服にサインでも求めた方が良いのだろうか。そんな事を考えながら、青年と見つめあって。

ピー………と響き渡った間抜けな音に、我に帰る。

時報の音である。

どうやら手元が狂って、思いもよらない数字を打ち込んでいたらしい。安心感で、再びカクンと腰が抜けた。青年はと言うと、自分の落ちて来た屋根縁を見て、夜空を見上げて、そしてまた、俺を見た。

「ちょっと待ってね。5秒くらいしたら動けると思うから」

「………………」

「足が痺れて…………」

俺は今度こそ、手元の携帯に119と打ち込んだ。



***



「すごいなぁ。小栗に横溝、果ては江戸川まで」

「あんまジロジロ見るなよ……」

「嫌でも目に入っちゃうよ、この本棚は。目を潰すか諦めるかだ」

「最悪の二択を突きつけてくるじゃん…」

敷地内で目を潰されるのは流石に困るので、仕方なく諦めて溜息を吐く。青年───結城と名乗った──は、何処か気の抜けた笑みで首を傾げた。

細い、濡れ羽色の髪がサラと揺れる。

死人みたいな白い肌に、影を落として。長い前髪の向こうから、鳶色の瞳がこちらを覗き込んでいた。

その線の細さは、イケメンと呼ぶよりは、儚げ美青年と形容した方がしっくりくる。とても、二階からアッセンブルして来るような人間には見えない。

稀に見る美貌だと思った。あの夜闇の中では、よくわからなかったが。

「本当に良いの?お邪魔しちゃって」

「良いよ。遠慮しないで」

「ふぅん」

そぞろに頷き、結城くんはカーペットの上に腰を下ろす。

「じゃあ本棚のここからここまで頂こうかな!」

「遠慮しろ。ここはセレブ御用達のブティックじゃないし、君はセレブじゃないだろ」

何ならここは築20年の借家だし、こいつは胡散臭いクソガキだ。

本棚の右端から左端までを指し示して、フンスと鼻を鳴らす結城くん。その鳩尾をドツキながら、目を細める。

あの後、「家の鍵がなくて入れない」と途方に暮れる彼に、なんやかんや丸め込まれて保護する事になったが。あの時の俺は正気じゃなかった。こんな得体のしれないトンチキ男を、家に上げるだなんて。

見るに、古風な学ランと襟元の星は、彼の有名な名門校の制服だろう。なんだか品定めされているような気になって、心が落ち着かない。

「あれ」

間の抜けた声に、意識を引き戻す。本棚の一点を指差して、結城くんは首を傾げた。

「あそこのスペース、売っちゃったの?」

「え?」

「僕にはくれなかったのに?」

「逆になんであれで貰えると思ったの?」

埃を被った本棚の、右下端。そこにある空きスペースは、見る人によっては不自然に見えるのかもしれない。けれどそれを、彼が単に『空いている』ではなく、『売った』と形容したのが気になった。

「………置く物が無かったからね」

だから、試してみることにした。俺の答えに、二重幅の広い目が瞬く。その度に長い睫毛が、パサパサと音を立てるみたいで。

「──────そう?」

それだけ言って、ベッドに投げ出された、俺の鞄を一瞥して。結局、結城くんはそれ以上何も言わなかった。不思議な子だ。無機物じみた顔付きをしている割に、表情はボヤッとしていて締まりがない。何処か焦点の合わない目を覗き込んでみれば、間抜けな表情をした俺の姿が、鏡みたいに反射していた。

「秋谷くん、」

秋谷くんとは俺の名だ。不意に上がった声に、奴の目に反射した俺は、驚きの表情を浮かべる。罰が悪くなって視線を逸らせば、布擦れの音と、結城くんが動く気配がした。

「推理小説博士の秋谷くん」

「なんだその呼び名」

「じゃあ、オタクの秋谷くん」

そんなのはもっと嫌だ。抗議の意思を込めて眉を寄せるが、その意図は伝わっていないようだ。

「僕と推理ゲームしようよ」

「え?」

「暇潰し。世界で12番目に好きな三度の飯より好きなんだ、推理物」

「言い回しが鬱陶しいな」

だけどその提案は、悪くない物だった。もっと言えば、俺はメモとペンを引き出しから引っ張り出してくる途中だった。要するにノリノリなのである。認めるのは癪だが、実際俺は推理小説オタクなのだ。

だから、胸の高鳴りを悟らせないよう、努めて平静に「いいよ」と言う。

「やったぁ!」

子供のようにバンザイして、結城くんは頬を上気させる。キラキラと輝く瞳は、新しい玩具を見つけた子供みたいだ。そんな無邪気な喜びように若干たじろいで、俺は結城くんの言葉を待った。

「この問題は、どのようにして密室が作られたのかを問う問題です」

手袋に覆われた人差し指を立て。どこから出したのか、黒縁眼鏡を掛けた結城くんは、見るからに張り切っている。レンズの部分で大きく輪郭がズレていて、かなり度が強い事がわかる。伊達眼鏡ではないのか。意外だ。

「動機や犯人は、別に考えなくて大丈夫」と言う言葉に、胸に引っ掛かった何かを振り払って、ペンを構える。

この後、結城くんが出した問題は以下の通りだった。


•2階の自室で、男性の他殺死体が発見される。死因は刃物での刺殺。

•現場は二階建て一軒家の一室。その時間、一階には被害者の家族である娘と母が居た。

•死体のあった部屋は、窓もドアも全て施錠されていた。

•暑い夏の事だった。部屋のクーラーは壊れていた。

•犯行推定時刻は夜なので人通りも少なく、有力な目撃証言は得られなかった。

以上。


「ええ?」

愕然とした。手元に残されたメモを見て、狼狽した。

いや、普通はそう言う物なのかもしれないけど。

あまりにも作問が不親切で、思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまう。圧倒的に情報が不足している。加えて、その取捨選択も微妙だ。

……まあ、推理小説が好きだからと言って、それの良き作り手となれるかは全くの別問題だ。美食家が、皆高級フレンチを作れるわけではないように。そして俺も、ただ推理小説が好きだと言うだけの凡人だ。探偵は好きだが、実の所探偵でもなんでもない。お手上げだ。

「質問しても良い?」

「許可する」

フンスと得意げに鼻を鳴らした結城くん。どうやらこれは、策問者との対話を前提としたゲームらしい。

「その部屋の窓の鍵の形態は?」

「クレセント錠。ふっつーの窓の鍵だね。ところで秋谷くん、彼女とか居る?」

「もしかして世間話始めようとしてる?この状況で?……それは人が通れるくらいの窓でしたか」

「うん。外はベランダ。ふふ、自分だけが質問できる立場だと思ったら大間違いだよ。次は君の番。さぁ答えるんだ、君に愛する人は居るの?」

「窓に何か痕跡は?」

「ねぇ僕の声聞こえてる?…………………内側の鍵に、セロテープが残ってる」

「ええ?」

俺はまたもや素っ頓狂な声を上げた。重大にして決定的な情報。それが秘匿されていた事に若干不満を覚えるが。

だが、確かに、それを聞いて仕舞えば、それなりに推理小説を嗜む人間には、一瞬で看破されてしまうのかもしれない。

「定番のトリックだ」

言えば、げ、と言った表情で結城くんは後退る。口パクで「もうわかったの?」と言っているが、本当に彼はこれを想定できていなかったのだろうか。

「先ず一軒家なら、玄関から入ったと考えるよりも、窓から出入りした場合を考えるのが先だ」

「……………家族に見つかるからね」

「そう。それで、そのトリックだけど。『夏』で、『クーラーが壊れてた』って記述がわざわざされてるのは、ベランダの窓が開いていた事を示唆するため?風通しを良くするために」

「態とらしかった?」

「いや、親切だったよ」

しゅんとする結城くんが、何だか可哀想になってくる。けれどあの記述は、必要だった物だとは思う。そうでなければ、どうやってベランダから侵入したのかも、考えなくてはならなくなるから。

「開いてる窓から、犯人は楽々侵入。刃物で被害様を殺害」

「それで、密室はどうやって作ったの?」

「それが定番だ。クレセント錠の取っ手に紐をテープでくっ付ける。あとは外から紐を引けば、窓は施錠される。紐は回収可能だけど──残念ながら、セロテープは残る」

「うーん、正解」

悔しそうに、腕を組んで唸る。眼鏡を外せば、元のサイズに戻った鳶色の目が、露わになって。「結城くん」と呼べば、ボンヤリとした視線が此方に向けられた。

「それ、結城くんのオリジナル?」

「うーん……半分?」

半分って何だ半分て。歯切れの悪い回答だ。

言っては悪いが、一般に出回る物としては、質が悪い気がする。俺の怪訝な表情に気付いたのか、結城くんは唇を尖らせる。

「このトリック、実は今のクレセント錠が軽すぎて、実践できなかったんだよね」

「ええ?」

「だから犯人は、ふっつーに玄関から入ったらしい。実際は窓も開いてなかったしね。ピッキングで堂々とドア開けて入って、グサッと刺して。トリックを試したけど、失敗したから玄関から退出。つまんない」

駄作映画でも批評するような口振りだ。

確かに、小説で取り扱うには、浪漫もクソも無い犯行手口だと思う。

「今のは実際の事件を、僕なりに掻き回して作問してみた物。だから『半分』オリジナル」

「君才能無いよ」

「やめてよ!消費者根性って言うんだぞそう言うの!」

「……じゃあ実際はあれかな。被害者は一人暮らしだったのかな」

「いんにゃ」

よくわからない呻き声を上げて、首を振る結城くん。だとしたらそれはおかしい。

堂々と玄関から入って、殺人まで犯したのなら、ほぼ確実に家族の誰かが気付くだろう。

男以外に住人が居ないわけではない。家族が気付かないわけもない。

ではなぜ、その犯行が露呈しなかったのか。考えられるのは、その家族が、『通報できる状況に無かった』と言う可能性で───、

途端に脳裏を過った嫌な想像に、血の気が引いていくみたいだった。

「…………それはどこまでフィクション?」

その可能性を否定して欲しくて。伺うように尋ねれば、何処か愉快そうに、結城くんはにっこりと微笑んだ。

「被害者の家族は、その時間帯は外出してた」

「ああ、なんだ………」

最悪の事態を免れたようで、胸中に安堵が広がるのがわかる。犬と女子供が犠牲になるミステリと言うのは、どうにも後味が悪いのだ。

「………あれ」

声を上げていた。結城くんが、「どうしたの」と頬杖を付いた。

「『トリックを試した』?」

「………?」

「先刻そう言った?」

「言ったね」

「ピッキング───扉を開けて閉める手段があるのに?態々、紐とセロテープ使って密室作ろうとしたの?なんで?」

人差し指で顎先に触れる。先刻の胸のしこりの正体が、徐々に明らかになっていくみたいだった。

彼は───結城くんは、『動機は考えなくて良い』と言ったけれど。

そもそも、この犯人が密室を作り出したのは何故だろう。

と言うのも、密室トリックは、往々にしてそれが、自殺や事故だと偽装するために用いられる物だ。けれどこの話の全てを信じるならば、犯人に他殺を隠すつもりがあるとは思えない。

男の死因は刺殺だと断定されていて、凶器も割れていてるのだから。

けれど態々、密室を作り出そうとした。特に必要の無い手間をかけて。

それではまるで────、

「─────『トリックを実践する事』自体が、目的?」

転がり出た言葉に、一瞬部屋の時間が止まったようだった。誰も何も言わず、結城くんに至っては、硬直したまま此方を凝視するだけだ。

「……………動機の話?」

「あ、ああそう。ごめん急に」

「それであってるよ」

「え?」

口元が引き攣るのが分かる。『それで合ってるよ』とは。真意を探ろうとするけれど、その笑み顔からは意図らしい意図は読み取れない。

何か、足元から冷気が這い寄ってくるような。そんな感じ。

訳もなく唾を嚥下して、俺は結城の口元を見詰めた。

「犯人は、試したかったんだ。フィクションの密室を、現実でも作れるのか」

「………………」

「でも結局、ベランダからの脱出には失敗。渋々計画を変えて、玄関から出て行った」

すう、と。弧を描いた瞳が、一瞬だけ光を赤く反射する。それが何か、とてつも無く邪悪なものに見えてしまって。

「………なんで、そんなこと君が───、」

──── 『このトリック、実は今のクレセント錠が軽すぎて、実践できなかったんだよね』

思い出すのは、先刻の会話の一部分だ。妙な違和感があったが。そう、伝聞系で無い分、まるで彼自身の体験談のようにも聞こえたのだ。『トリックを試した』のが、本当に彼自身だったとして、果たして、それが意味する事とは。

そして俺が彼と出会ったのは、屋根の縁───ベランダの外だった。

そしてそこから、彼は泣いている俺に声を掛けた。

その時に眼鏡はしていなかった。視力は人並み以上だろう。では今かけている、その度の強い黒縁眼鏡は誰の物なのか。

奇しくも、俺は昔読んだ、被害者の遺品を蒐集する、猟奇殺人鬼の小説を思い出していた。

加えてこの暑い夏に、頑なに手袋を外さない合理的な理由とは。

不穏な違和感と想像が、絶え間なく溢れ出してきて。ジットリとした汗の感触を、背に感じながら。俺はゆっくりと後退りした。

「秋谷くん?」

「あの家、本当に君の家なんだよね?」

「…………………」

結城くんの口元が、歪に弧を描いた。

見開かれた鳶色の瞳。瞳孔の収縮した目は、相変わらず此方を反射するばかりで、底が見えない。稚気とも取れる動作で傾げられた首は、壊れた人形を彷彿とさせた。

「………っ、答えて」

「……………」

「答えろよ、結城くん」

息を呑むような沈黙だった。ぴりぴりと頸が痛んで。少しでも気を緩めれば、今すぐに背を向けて、部屋から逃げ出してしまいそうだ。

「ふふ」

込み上げるみたいな笑み声。沈黙を破ったのは、結城くんの方だ。

「はっはっはっは!くひーーっ!えへえへえへ!」

腹を抱え、くの字に細長い肢体を折って大笑いする。目に涙を浮かべて、面白くて仕方がないみたいに。笑い方がヤバすぎる。けれどその笑顔が、やっぱりあまりにも無邪気な物だから、俺もまた目を見開いてしまう。

「もしかしてその、君こう言いたいの?僕が犯人だって」

「……………」

「それはさぁ、流石に推理小説の読みすぎだよ。影響されすぎ」

涙を拭いながら、肩で息をする。放っておいても過呼吸で死にそうな結城くんに、幾分か部屋の空気が緩むみたいだった。

「第一さ、僕と君が合ったのはベランダでしょ?これじゃあ話と合わない」

「………それは、君の話が全て真実だって仮定した時の話だ」

「それはそうだけど。じゃあ僕はベランダで何をしてたの?第一、僕が犯人だとして。君にわざわざ声を掛けるような真似をする意味って何?」

「………それは、」

一理あると思った。俺に話しかけてきたのは、何を隠そう彼の方なのだ。

けれど犯人は、小説の再演をするためだけに人を殺すような人格だ。新しい玩具でも試すような心地なのだろう。ならばその成果を、誰かに披露したいと言う気持ちは持ち合わせて然るべきではないだろうか。顎を引いたまま身構えれば、「それじゃあね」と、結城くんは右目を細める。

「この際だから、僕も聞かせてもらうけれど」

かち合った視線にたじろぐ。まるで全てを見透かされているような───幾千年の叡智を詰め込んだような双眸が、真っ直ぐに此方を見ていて。妙に喉が乾く。震える指先を、そっと後ろ手に隠した。

「君こそ何で先刻は嘘を吐いたの?」

「え……」

「本棚の空きスペース。つい最近まで本が置いてあった筈でしょ?」

「…………………」

自然と表情が削げ落ちていくようだった。薄々と感じてはいたが、矢張り彼は、俺の嘘を見抜いていた。見抜いた上で、何も言わなかった。ハートの2を温存するみたいに。

「何でそう思うの?」

「見れば分かるよ、誰だって。埃だらけの本棚なのに、そこだけ埃が積もってない。つい最近まで、ここに何かがあったのは、一目瞭然だ」

「本棚の何処かに移動させたのかもしれない」

「それはない。観察したけれど、他の本が動かされている形跡はなかった」

はっきりとした口調で断じながら、「加えて」と付け加える。ここで終わりだと思っていた俺にとって、それは柔いところを───無防備な部分を踏み抜かれるような衝撃だった。

「君のその、『空っぽの鞄』」

心臓を槍で貫かれたような。そんな感じ。

実際は指先を少し動かしたくらいだけど、本当は今すぐに鞄を抱いて隠してしまいたかった。

「一度家に帰って私服に着替えて。だけど鞄だけは変えずに外出した?おかしいよね?見るに、もっと適当なサイズの鞄はあるようなのに」

「………………」

「ならこう考えるのはどうかな。君は鞄に『何かを詰めて』外出した。そして鞄の中身を処分して──、その帰りに、僕に出会った。空のバッグをぶらぶら下げてね」

台本を諳んじるように言いながら、結城くんは笑う。俺はもう殆ど、反論することができなくて。本当に、彼は一部始終を見ていたのではないか。やけに息苦しいと思ったら、俺は暫く、ずっと息を止めていたみたいだった。

「ここからは完全な憶測だけど。思うに、君はその本棚の本を────、」

死刑宣告を待つ罪人のような心地で、次の言葉を待つ。首を傾げた拍子に、結城くんの黒髪がサラと揺れた。

「売ってきたんでしょ?」

「へ?」

「売ってきたんでしょ?」

「へ?」

素っ頓狂な声を上げれば、今度は結城くんが首を傾ける。ぱちくりと瞬かれた目は、仔犬のように純朴だ。彼は本気で物を言っている。

けれど、そうか。いや、そうだろう。普通はそう考える。

本を持ち出して処分すると言えば、真っ先に思い浮かべるのは当然「売却」である。

「…………そうだよ。特に隠す程の事でもないけど」

「試してみたくなったんでしょ?俺の事、自分の事。気持ちは分かるよ」

────問題なんて、解くよりも作る方が断然面白いんだから。

安堵に力が抜ける。

ただ、反面。自分が『見逃された』だけのような気がして、何処か薄寒い。先刻から思ってはいたが、この青年。ぼんやりしているように見えて、時たま目を見張るような鋭さを垣間見せる。腹の底が全く見えない、得も言われぬ不気味さがあるのも事実であって。

「その手袋、暑くない?」

兎に角話題を変えたくて、結城くんの手元を指差す。また眠そうな目を瞬いて、結城くんは、「ああこれ?」と自分の手を一瞥した。

「火傷隠してるの。見苦しいでしょ?」

黒い手袋を取れば、掌に、赤紫に変色した火傷跡が広がっている。何だか急に申し訳なくなって、「見苦しくないよ」と謎のフォローを口走る。

俺は今、中々な最低野郎なのでは。

気づいて仕舞えば、先刻まで冷え切っていた体が、段々と熱くなっていくようだった。

そう、そもそもそんな突拍子もない話。あり得る訳がない。確かに俺は、推理小説の読みすぎだったのかもしれない。馬鹿げた話だ。いくら胡散臭いとは言え、目の前の彼が殺人犯で、其奴が自分の起こした事件を嬉々として話して来るだなんて。

「………ごめん」

俯いて、もう一度謝罪する。結城くんにどんな顔をされるのか。想像したくも無かったけれど。伺うようにちらと視線を上げれば、思い切り頬を挟み込まれる。

「ひゅうひふん!?」

「………いいよ」

「ふぉへ?!」

「君が僕の探偵になってくれるなら、許してあげる」

胸焼けするほどに甘い。恋人に愛を乞うような声音である。

赤い唇が弧を描いた。すうと細められた目には、先刻までのぼんやりとした虚は無い。透徹した光を以って。それは真っ直ぐに、俺の双眸を射抜くのだ。

「ひゃんへい?」

クイズに付き合うと言う意味ならば、いくらでも付き合うが。

やっとの事で復唱すれば、結城くんは吐息だけで笑う。手袋の冷たい感触が、俺の両頬を擦り合わせて。空いた左手の指が、切り取り線を入れるみたいに、俺の喉元を滑った。

「……『また遊んでね』って事」

子供みたいに無邪気なのに、その笑みは蠱惑的で、何処か妖じみている。あまりのアンバランスさに、くらりと眩暈がして。

ぎこちなく頷けば、結城くんはうっそりと笑みを深めた。




***


浴衣に綿菓子、お面に下駄を合わせて。

眼前を通り過ぎていった女児は、全力全身でこの祭りを楽しんでいるようだった。それを横目に、道沿いに流れていく人並みをかき分け掻き分け、最後に林を掻き分ける。

林を抜けた先は、舗装されていない獣道だった。先刻までの喧騒は聞こえず、ただ百枝が擦れあう擽ったい音だけが響く。

スマホを取り出し、マップを開く。

首を傾げながら、矢張り舗装されていない段差を登った。

「秋谷くん?」

「え?」

顔をあげる。そして目を擦った。

水場───小川と呼んだ方が相応しいだろうそこに、上裸の美丈夫がいる。そしてその美丈夫が、人懐こく此方に手を振っている。上裸で。

寝込んだ時の夢みたいな光景だ。俺は幻覚を見ているのだろうか。

「おーい、やっほー」

幻覚じゃなかったくさい。俺は眉間を摘んで空を仰いだ。気の抜けた声で手を振るその姿は、間違いなくあの夜の青年である。バシャバシャと水場で暴れて、首を振って水気を飛ばす。子犬の水浴びみたいだ。

「結城くん、何でこんなところに?」

「水浴び」

「あそう……」

見れば分かるだろうとでも言いたげな口調と表情だ。俺が悪いのだろうか。溜息を吐けば、結城くんは首を傾げ、両手を広げた。

「秋谷くんも来る?」

「行かない」

「あそう……」

しょんと項垂れるその風態に、罪悪感が刺激される。気不味げに視線を逸らせば、「秋谷くんは」と耳元で声がした。

「うおおお!?」

「えぁあ!?」

思いの外至近距離から聞こえてきた声に、絶叫し仰反る。呼応するように、結城くんも毛を逆立てて飛び上がった。いつの間に水から上がってきたのだろう。気配が無さすぎる。肩を抱き恐る恐る視線を上げれば、気怠げなヘーゼルアイと視線がかち合った。

「びっくりさせてごめん?」

「いや、いやいや、気にしないで。俺が鈍臭いだけだから」

「そうだよ、反省しろ。鈍臭いな」

驚きの手のひら返しだった。状況を飲み込めない俺を他所に、結城くんはプルプルと首を振る。ここでするのはやめてほしい。すごく水滴が飛んでくるのだ。俺の顔面はグショグショである。

「秋谷くんはここで何してるの?」

「ぶぶぶぶぶ!ちょ、首振りながら言うな…ぶ!口に水が……!」

「僕に会いにきたの?」

「だとしたら俺って何?」

ストーカーに、その距離の詰め方をする結城くんはもっと何?

目を細め、持っていたタオルを結城くんに貸してあげる。「ありがとう!」と無邪気に大喜びして、タオルに包まる。矢張り祖母の家の犬を彷彿とさせるそれに、何だか毒気が抜かれたような気になる。

「俺は待ち合わせ。ネットで知り合った人とだけどね」

「ネット……?それも、こんな場所で?死体でも埋めるの?」

「パッとその発想が出る君が怖いよ。必要な物を譲って貰えるみたいだから、直接待ち合わせ。そんで場所はあっちの指定だけど────、」

スマホで時間を確認。定刻になったのを認識して、辺りを見回した。物置のような荒屋に、流れる小川。生い茂った草木の影に、人影は無い。

首を傾げて、隣でタオルに包まる結城くんをもう一度見た。

「違うよ」

真顔で首を振る結城くん。

「まだ何も言ってないけど」

「僕じゃないよ」

首を振る結城くん。

分かった。分かったから、瞳孔をカッ開くのはやめてほしい。彼の様子からして、どうやら待ち合わせ相手は、まだ到着していないらしい。それでいて結城くんは、本当にこの場で偶然水浴びをしていただけらしい。何だその頭が痛くなるような字面。

溜息を吐けば、結城くんはタオルをくんくんと嗅ぎながら此方を覗き込んだ。濡れた前髪から雫が滴り、その下から見開かれた双眸が此方を見上げる。

もしかしてそれってフレーメンホニャララだったりする?

「タオル返して」

「嫌だ」

「服着なよ。もう乾いたでしょ」

「そんな物はない」

「ええ……」

まさか半裸でここまで来たのか。少しだけ距離を取れば、結城くんは事も無げに同じだけ距離を詰めてくる。やめてほしい。露出狂とは最低でも半径30cmは距離を保ちたい。こっちに来るな!しっしっ!

「推理ゲームする?」

「へ?」

俺は一歩結城くんへと近付いた。何処か満足そうに微笑んで、「ドンドンパフパフー!」と手を叩く結城くん。手拍子が下手すぎて、絶望的にリズム感が無いのだろうなと思った。

「暇つぶしに?付き合ってあげても?良いけど?」

「じゃあ問題!」

「………結城くんは大人だねぇ」

しみじみと言えば、不思議そうな顔で微笑む。前々から思っていたが、彼は俗に天然と呼ばれる人種ではなかろうか。結城くんは、手袋を嵌めた人差し指を、そっと立てて片目を瞑った。

「これもトリックを探る問題です。動機や犯人は問いません」

ザァザァと流れる小川を一瞥して、何処か楽しそうに話し始める。俺はと言えば、懐から取り出したスマホで、メモアプリを起動した。


•男が市街地で殺された。死因は刃物のような物で刺され、大量出血による失血死。

•目撃証言により、反抗時刻に現場付近で不審な人物が見つかったが、容疑者は凶器らしき物は所持していなかった

•現場や現場付近も捜索されたが、凶器らしきものは見つからなかった

以上


「ええ?」

手元のメモを検分して、俺はまた、素っ頓狂な声を漏らした。この問題の趣旨とは。つまりは、こう言う事だろうか。

「凶器が消えたトリックを明かせと?」

「そう言う事」

「なるほど」

そう言うものには、いくつか心当たりがある。時間が経てば消える凶器。定番の題材である。

「その日は暑い夏でしたか」

「うん、その日は暑い夏だった。今のはアルバムのタイトルっぽかったね」

「死体の周りに、不自然なものはありませんでしたか?」

「死体の下には不自然な水溜りがありました。これは小説のタイトルっぽかったね」

「被害者は氷の武器で殺害されましたか?」

言えば、タイトルソムリエこと結城くんは目を見開く。長い睫毛を瞬かせて、そして、「はい」と答えた。

これは、推理小説を嗜む人間には───ともすれば、そう言う分野に明るくない人間にとっても、馴染みのある犯行方法だろう。

氷の武器。時間と共に消える凶器。

ある時は靴下に入れた氷塊で人を撲殺し、ある時は氷のナイフで刺殺する。果ては、氷の台を使い、首吊り遺体を偽装する小説までもが存在する。そう使い古された題材ではあるが。

それよりも気になるのは────、


「その犯人、この前の事件と同じ人間だったりする?」


言えば、結城くんはゆっくりと目を見開く。つるりとした水晶体の向こうで、昏い瞳孔が細くなって。

「……………………なんで?」

やや於いて吐き出された声音は、興奮を押し殺したような。そんな妙な響きが伴っていた。

俺はまた、なんとなく結城くんから距離を取る。美人のこう言う表情は、無駄に怖い。

「どうしてそう思ったの?」

「………………」

尚も詰め寄って来る表情は、好奇と興奮に活き活きと色付いていた。鼻先が触れ合うほどの至近距離にあるご尊顔から、顔を必死に逸らして首を振る。

………氷の凶器とは、犯行時刻の詐称などを目的として用いられるのが主である。

凶器を消したとて、その他の証拠や遺留品が見つかって仕舞えば、犯罪は立証される。だがこの犯人に至っては、犯行現場が市街地であったり、しっかり目撃されていたりと詰めが甘い。否、詰めが甘いと言うよりか、あまり犯行を隠す意図が感じられないと言うか。…………元より、『氷の凶器』本来の───操作撹乱の意図は薄かったのでは無いか。

妙だ。妙だが、この、手段と目的の逆転した文脈。トリックに於ける不自然なワイダニット。

言うならばそう、「『トリックを使う事』自体を目的としている」ような印象には、覚えがあった。

と、一応根拠はあったが、それを目の前の彼に白状する気には、何となくなれなかった。故に。

「………何となく?」

「何となく」

俺の誤魔化しを、怪訝な声が復唱する。

頷けば、見開かれた双眸が、また眠そうに翳る。何処か落胆したように肩を落として、結城くんは「ハズレ」と言った。

「それにもうこの事件の犯人は逮捕されてる」

「そりゃそうか……」

「何より、こう言う犯行は凄いよ。返り血とか。凶器を消したとしても、証拠がたくさん出てくる」

俺のタオルを抱き寄せて、此方にピットリと身を寄せて来る。

寒いのだろう。

結城くんの肌はひんやりしていて気持ちが良いので、甘んじて受け入れる。これが冬だったら、5メートル先に投げ飛ばしているところだったが。

「氷の凶器なんて、本当に使う人いるんだって思ったでしょ?」

「え、……うん、まぁ」

「意外と殺傷能力は高いんだよ。薄い氷でも、尖ってたら野菜とか切れるし、氷柱みたいに質量があれば、人すら刺し殺せない事も無い」

平坦な声だ。

湿った黒髪が、そよそよと風に揺れていた。その景色は、大いに和やかなものだけど。

その風に似た、生温い不快感のようなものが胸中に立ち込めるようだった。俺は今ほど、彼の表情が見えなくて良かったと思ったことは無い。

「けれど大変なのはその後。凶器の隠滅だ。人を刺殺できるほどの氷柱を用意したとして、それが溶け切るには時間がかかりすぎる。氷を溶かすための何らかのギミックか、遺体の発見を遅らせる工夫を凝らさなきゃならない。時間差トリックとしてはあまりにお粗末だ」

「……………」

「所詮はフィクション。つまんないね」

限界だった。右肩の青年が、死体か何かに思えてきて。身動いで、それとなく距離を取ろうと下肢に力を入れて。

「………っ、」

「まだ話は終わってないよ」

しなり、別の生き物みたいに蠢いて。

結城くんの手が、俺の右手を掴む。

潤んだ瞳が、一瞬。ほんの一瞬だけ、赤色に発色したように見える。息を呑む。息を呑んで、先刻まで結城くんが浸かっていた小川を一瞥する。透明な水が、血が染みるみたいに染まっていく錯覚を覚えた。

「君の考えている事、大方分かるよ。でも無理だ」

「……………」

「表参道は祭りで人通りが多い。そんな大きな事件を起こせば、直ぐに騒ぎになる筈だ」

「………そんな騒ぎは無かった」

「その通り。死体なんてもっと簡単に見つかるだろうね。僕が犯人なら、さっさと逃げ出してるよ」

結城くんは、よっこいせ、とじじくさく立ち上がる。

立ち上がって、岩にかけてある黒パーカーに、無造作に袖を通した。

「服………」

「返り血がベッタリだと思った?拍子抜けだね」

「服なんて無いって言ったじゃん…」

「じゃあ僕は、ここまで上裸で登ってきた変態って事になるけど」

「そう思ってたんだよ!」

叫べば、結城くんはキャー!と楽しそうに笑う。

先刻までの不穏な空気は、すでに霧散したようで。なんだかどっと疲れてしまった。立ち上がれば、結城くんは「帰るの?」と眉根を寄せる。いかにも寂しいですと言った表情だけど、それがパフォーマンスでしか無い事を、俺は知っている。

「待ち合わせは良いの?」

「良い。もういい加減1時間近く待たされてるし、連絡も付かないし」

「本当だね。もう来ないだろうし────、僕もそう思うよ」

スマホを見ながら、頷く結城くん。彼のスマホを初めて見たが、何だか随分とイメージと違う。

だが、生憎俺にとって彼の趣味趣向などはどうで良い。草臥れた襟を糺して、フラフラと元来た道を歩き始めた。

「待ってよ!僕も一緒に帰る!」

ペタペタと、足跡を刻みながら此方へと走り寄って来る結城くん。彫刻みたいな相貌が、ウキウキと上気する様は何処か不気味だ。

「それパーカー裏返しじゃない?」

「あれ、本当だ。面倒くさいからもういいや」

「ええ………」

ものぐさと言うのにも限度があるのでは無いだろうか。結城くんが初めて見るタイプの生き物すぎて、俺は昨日から驚かされてばかりだ。2歩で開けた距離を、ものの1歩で詰めて来る。上機嫌に、聞いたこともない鼻歌を歌いながら、「それより」と弾むような声で言った。

「せっかく表参道お祭りだから、一緒に回らない?」

「ええ……」

「良いじゃん、デートだよデート。財布無いからウィンドウショッピングだけど」

「本当に何しに来たの君……良いよ、少しくらい奢るよ」

息を吐きながらポケットを探る。2人分の焼きそば代くらいはあるだろう。急に静かになったので、結城くんの顔を覗き込む。見開かれた双眸には、先刻とは違い、純度の高い驚きが滲んでいた。それは、初めて結城くんが見せる、素の表情と言われても納得の行く物で。

「秋谷くんて、実は物凄いお人好し?」

「ええ?」

「お人好しって言うか、無防備なのか。僕に面と向かって『殺人鬼?』とか聞いちゃうんだもんね」

─────本当にそうだったらどうするつもりだったの?

手首の───丁度動脈辺りをなぞられて、変な寒気が背骨に沿って駆け上がって来る。手を振り払えば、結城くんは口元だけで微笑した。

「変な人に好かれそう」

「ツッコミ待ちだったりする?」

小突けば、何が嬉しいのかくすくすと笑う。懐からスマホを取り出して、「ああでも」と、何処か朴訥とした声音で目を細めた。

「この後雨降るから、早く帰ったほうが良さそう」




***



我が校は、必ず1人1つの部活動かサークルに所属する事が義務付けられている。だから読書サークルなんて物は、外部のスポーツクラブチームに通う生徒たちの大所帯となっていて。自慢ではないが、部活動対抗リレーでは、陸上部を抜き野球部を抜き、毎年読書サークルが1着である。とは言え、幽霊部員が多くとも、真面目に活動する生徒もそこそこ居る。俺もその中の1人であって。

「最近変な事件が多いですね」

脚を組み、持ち出し禁止の小説に読み耽る。ページにヌッと差した影を追って、相貌を擡げた。

「変な事件?」

尋ねれば、後輩はスマートフォンをスクロールして見せる。ネットニュースだ。真面目な奴である。『s市一家惨殺事件、捜査進展か』と、太文字の見出しが画面上に踊っていて。

「s市一家惨殺事件………」

つい数ヶ月前に起こった、3人家族の一家殺害事件だ。玄関にピッキング痕が残っていた事から、犯人は大胆にも、玄関から侵入したと想定されていた。加えて、2階の自室で殺害されていた父親の遺体が、刃物を所持していたが、それが実際に使われた凶器でない事。伴って、自殺や心中が目的ではなく、他殺であること。そして、ベランダに続く窓の鍵が空いていて、犯人はベランダから逃走した事が明らかになっている。

「その、被害者が持っていた刃物とは別に、屋根の上から凶器と見られるナイフが見つかったそうです」

「屋根の上から?」

「ああ、はい。バタフライナイフが。凶器の隠し場所がアレな物で、発見が遅れたそうですが……」

聞けば聞くほど訳の分からない事件だ。

お粗末な偽装工作────父親に刃物を持たせ、自殺に見せかけようとしている点から、犯人は父親の無理心中を演出したかったのだろうと推測できる。

なら何故犯人は、父親の遺体に持たせた刃物で、最初から犯行に及ばなかったのか。バタフライナイフを使う事自体に、何か拘りがあったのか。そうだとしても、何故凶器をしっかりと処分しなかったのか。屋根の上などに放り投げる意味が分からない。

また、ベランダから出たのも納得が行かない。ピッキング技術があるのなら、家全体で密室を演出し、少しはそれらしく見せる事も可能だった筈だが。

全てがチグハグで、全てが中途半端だ。自殺に見せかけたいのか、そうでないのか。

これは明確な殺意の元行われた計画殺人だ。しかし、計画は稚拙で、行き当たりばったり。敢えて合理的な選択を避けていると────遊んでいると言う印象すら覚える。言うなれば、小さな子供が興味の赴くまま、さまざまな玩具に手を伸ばすような。そんな奔放さ。

『練習』『検証』。

そう銘打たれても不思議ではないような、合理性よりも経験を重視した行動。

仮にそうでないとすれば。直感に反した考察をするなら。

途中で計画の変更を余儀なくされた。若しくは、想定外の事態が起きて、やむを得ず計画を中断せざるを得なかった。そう、例えば────

「………………」

そこまで考えて、顎を引く。俺に異常者の考える事は分からないからだ。……わかりたくもない。

顎先に触れて、小説のページを捲る。

2、3度瞬きをしたところで、また後輩が「これも」と声を上げた。

『殺人鬼殺人事件』

妙に強烈な字面である。行方不明男性の家宅や身辺を調査するうちに、その家から、数人の青少年の遺体が見つかったが故である。児童ポルノなども一緒に発見され、男性が誘拐殺人を繰り返していた事が判明した。手口としては、SNSを通じて知り合ったターゲットを、人気のない所に呼び出して誘拐すると言った、卑劣な手段である。

だがこの見出しを見るに、その男が遺体で───しかも、他殺体で見つかった事が察せられて。

「数週間ぶりに、今朝方死体で見つかったらしいです」

「………死因は?」

「刺殺による失血死です。使われていない空き倉庫の中から見つかって。……その、死亡推定時刻から随分時間が経ってるのに加えて、犯行当日の現場付近が、極端に人通りが多かったみたいで。有力な証拠も、怪しい人物に対する証言も見つかってないみたいです」

……数週間前。目撃証言が得られない程の人通りの多さ。目撃証言が得られていないのなら、遺体の移動は無かった可能性が高い。

使われていない倉庫に詰め込まれていた所から見て、犯行自体は、恐らく人気の無い場所で行われた。

まさか街中や、交差点の真ん中で殺されたわけでは無いだろう。

人気の無い犯行現場と、人気の多い現場周辺。

それらが共存し得るシチュエーションとは一体。時間帯の問題か。それとも場所の問題、状況の問題。思い浮かぶ要因と言えば、通勤ラッシュ、都市近郊駅。……催し物。数週間前と言えば、初夏であり、そう、例えば────、

「…………夏祭り」

「え?」

目を剥いて、後輩が肩に手を添えて来る。ここに来て初めて気付いたが、俺はどうやら震えていたらしい。

「先輩、顔色ヤバいですけど大丈夫ですか?」

「ああ、うん、大丈夫。……大丈夫」

顔を伏せ、開いた小説に視線を戻す。そこでは丁度、無名探偵が警察に疎まれているシーンで。

そう、素人は黙っているに限る。俺は警察でも探偵でも無いのだから、余計な事を考える必要は無いのだ。現代の警察の捜査力は伊達では無い。どれだけ小さな証拠や痕跡も、見逃しはしないだろう。

……ああだけど、犯行から数週間は経っているのだから、確かに痕跡を見つけるのは難しいのかもしれない。例えばそう、足跡なんかは、雨が降れば流れてしまう。そして凶器。凶器なんかは。

………未だ、見つかっていないのではないか?

手が震えて、ページが捲れなかった。視線が文字の羅列を上滑りして、内容が全く入ってこない。

──────『流石に推理小説の読みすぎだよ。影響されすぎ』

脳裏に響いた声。反射的に、俺は小説を閉じていた。小説を閉じて、開いて、閉じて。意味もなくまた開いて。

深呼吸をして、目を瞑る。

そう、これで良い。俺みたいなのは、大人しく読書でもしておくべきだ。

陰鬱な事件は、フィクションだけで充分なのだから。

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助けた男が殺人鬼かもしれない件について ペボ山 @dosukoikokoi

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